1-20期待の星、第3極の新党の問題点1.政権交代論

真の保守も何度もつぶれ仲間を見捨てる

第3極が2つに裂かれる傾向を見てきたが、これは、真の保守を自認する勢力も見られた。郵政民営化反対派である。彼らの多くは情けない議員であった。郵政民営化関連法案を参議院で否決に追い込んだにもかかわらず、小泉総理が強硬な姿勢を採ると、多くの議員が腰砕けになった。自らと政策、理念が異なり、刺客好捕すら送り込んで来た内閣と、明確な対立姿勢を採らず、当選しようとした。そして当選した議員達のほとんどは翌年、郵政民営化等内閣の方針に尽し、反すれば議員を辞職するという屈辱的な内容の誓約書にサインをし、追い出された自民党に復党した。

情けない候補者、議員でなかったのは、綿貫民輔や亀井静香ら、ごく僅かであった。両者は苦境に立たされた郵政反対派の受け皿として国民新党を結成した(参加者は綿貫、亀井、解散とは無関係の参議院議員であったが自民党を離党した長谷川憲正、民主党を離党して参加した田村秀明の他は、苦戦が予想された亀井久興だけであった)。自民党に復党せず、国民新党にも参加しなかったのは、平沼赳夫である。平沼は、2009年9月に国益と国民の生活を守る会という衆議院会派を結成した。参加者は平沼の他、城内実、小泉龍司の、同じく郵政民営化反対派の無所属2名であった。この2名は2005年に落選したが、2009年には当選していた。

分かりづらかったのは、国民新党の他にも、新党日本が結成されたことである。郵政民営化反対派は、自民党との対立が決定的になる新党の結成と距離を置く議員が多かっただけでなく、新党結成を決めた前議員達(解散後であったので正確には前議員達)ですら、1つにまとまらなかったのである(ただし総選挙後、国民新党と新党日本は両院で統一会派を組んだ)。小林興起、青山丘、滝実、自民党を離党した参議院議員の荒井弘幸は、改革派の知事として知られていた田中康夫長野県知事を党首に、新党日本を結成したのである。筆者が知る限り、田中康夫は郵政民営化反対を唱えておらず、党のマニフェストにも明記されていなかった。

国民新党とは別に、わざわざもう1つ新党が結成されたのは、国民新党に、地方の抵抗勢力というイメージが強かったためである。東京に選挙区があった小林などが、これに参加することをためらったのだと考えられる。そんなことは気にせず堂々と信念を有権者に語り掛ければよいのだが、落選を恐れて逃げたのである。それでも津島恭一の加盟で国会議員6名となっていた国民新党は、参加議員が4名にとどまり政党構成要件を満たせなかった同党に、議員を1人貸して(本当はおかしなことなのだが、ここでは取り上げない)、その窮地を救った。政党構成要件を満たさなければ、比例区で立候補、政見放送ができなくなり、ポスター、葉書、ビラ、選挙カーの数の上限が下がるなど、総選挙での扱いは不利になる。比例区にエントリーするために定数の2割の候補者を擁立しなければならなくなり、重複立候補も出来なくなる。

新党日本では唯一当選した滝と、ただ一人の参議院議員であった新井が離党し、新党日2007年に参院選で当選する田中1人の政党となってしまった。

なお、国民新党は民主党と接近し、2009年の政権交代で与党となった、新党日本も同様で、民主党と会派を組んで与党(閣外協力与党)となった。保守政党が核新生党と組んだという面もあるが、菅内閣以後は、むしろ民主党が右傾化し、左派政党と同様に増税、TPPに反対する国民新党が抵抗した。民主党は郵政民営化を見直す改革に賛成し、金融、郵政改革担当大臣となった亀井静香(当時国民新党党首)は、改革を実現させた、その主な内容は、国が日本郵政の株式の3分の1以上を保有し、日本郵政が郵便局株式会社と郵便事業株式会社を吸収し、その日本郵政がゆうちょ銀行、かんぽ生命保険の株式のそれぞれ3分の1以上を保有するというものであった。郵便貯金の預入限度額、簡易生命保険の加入限度額も引き上げられた。郵政民営化を支持していた自民党議員などは、改革に逆行する策、他の銀行を圧迫する策だと批判した。

政権交代の前後で野党を貫いたのは平沼(国益と国民の生活を守る会)であった。日寄らなかった郵政民営化反対派は、民主党と組んで郵政民営化路線の転換を目指す勢力と、自民党の新自由主義路線とも異なる独自の保守勢力を目指す勢力に分かれたのである。その後亀井が国民新党、国益と国民の生活を守る会の合流を模索したが、実現しなかった。

しかし、その国益と国民の生活を守る会もまとまりを維持することが出来なかった。平沼以外のメンバー、つまり木内と小泉は、平沼らのたちあがれ日本に参加せずに、自民党に寄り、復党を実現させた。

野党となった自民党からは、すでに述べたように、2010年の参院選の前に、与謝野馨、園田博之、鳩山邦夫衆議院議員、舛添要一参議院議員、参院選における公認争いで敗れた参議院議員2名が離党した。舛添は新井、そして改革クラブ(福田内閣期に自民党によって民主党から釣り上げられた議員達)と、新党改革を結成した。新井がまた改革派の、今度は舛添を担いだのである(もっとも新井はかつて、郵政民営化が持論であることを知りながら、自民党の総裁選で同じ派閥の小泉を積極的に支持、応援し、1998年の総裁選に関連してこの派閥を離れた亀井らに与しなかった)。

平沼は他の自民党離党者(双方に相手にされなかった鳩山邦夫は除く)と、石原都知事を発起人として新党、たちあがれ日本を結成した。皆保守ではあったのだろうが、園田はかつて郵政民営化を進めるポジションにあったし、与謝野、そして石原も郵政民営化を支持していた。平沼の他、藤井孝男、中川義雄両参議院議員は反対票を投じていた(藤井は周銀議員として反対票を投じて落選、参院議員となっていた)。だからなんともすっきりしない動きなのだが、たちあがれ日本は真の保守の再生を主張し、多少存在感を示した。しかし民主党の右から民主党の内閣を責める役割は自民党と重なるものであり、特に安倍が自民党の党首となった2012年9月以降、同党の独自色は失われたに近かった。同党と、舛添人気に助けられた新党改革は、2010年の参院選において、共に1議席を獲得した。ミニ政党が頑張ったというように感じてしまうのだが、彼らはミニ政党に甘んじるつもりであったのだろうか。どうであれ1議席というのは少なすぎる。

前述した通り、国益と国民の生活を守る会からたちあがれ日本に参加したのが平沼だけで、口と小泉が自民党にすり寄ったことも不可解だ。しかし、そのたちあがれ日本も、よりによって民主党政権に切崩された。参院選で与党が過半数を下回ると、菅総理は数合わせに動いた。そしてたちあがれ日本に協力を求めた(みんなの党ではなかったのは、実現可能性の問題か、国民新党の亀井が多数派形成に関わっていたためだと考えられる。たちあがれ日本の姿勢は民主党とは遠かったように見えるが、新自由主義的なみんなの党よりは近かったということもできなくはない)。たちあがれ日本は応じなかったが、与謝野が同党を離党して入閣、さらに民主党の会派に入った。理由は、税制改革、社会保障の継続、財政健全化のためだとした。そして平沼も、最後は次世代の党を離党し、自民党に復党した。

それでも存続していたたちあがれ日本に大きなチャンスがやって来た。日本維新の会との合流、それを前提とした石原との正式な合流である。日本維新の会の橋下が、石原と党を1つにする事を決めたのだ。今では考えられないが、橋下、石原は共に改革派のスター知事であった(橋下は大阪市長に転身していた)。しかも東京都と、大阪府である。有権者の期待は膨らんだといいたいが、石原には疑惑も持ち上がっており、人気も下降気味であったし。日本維新の性格も、かなり右に寄った。その例の一つが、原発廃止の政策を取り消したことである(原発廃止こそ愛国だという見方はここでは置いておく)。ただし、公務員の労組に批判的であったという点で、日本維新の会は、公務員の労組の左翼性と相容れない太陽の党と共通性もあった。日本維新の会の総選挙の候補者には、右寄りの者もいた。

その後の顛末は既に述べたが、それに加えて、次世代の党→日本のこころを大切にする党→日本のこころと、平沼と園田という、立ち上げ当時からの議員であり、生き残った2人だけの衆議院議員となった2人が自民党に復党するなど、議員を減らしながら名称を変えて来た旧たち日系は、ついに参議院議員2名のみとなった。さらにそのうちの1名、しかも2015年から代表を務めてきた中山恭子が、希望の党に参加したのである。希望の党と比べるのは日本維新の会に失礼だが、それなら日本維新の会と別れる必要はなかったのではないだろうか。希望の党の小池百合子は確かにそうとう右寄りだが、郵政解散では、刺客候補として東京に選挙区を移した。

いずれにせよ、所属政党と、それに残る人々を見捨てて、権力を持つ優位政党、人気のある党に移るのが保守だろうかと、やはり思わずにはいられない。もっとも、たちがあれ日本も日本のこころも、途中から自民党と参議院において統一会派を組んでおり、所属議員のほとんどがバラバラに、自民党にかけこんだのだと、いえなくもない。どうであれ、たちあがれ日本が結成されたことに、意味はあったのだろうか。

自民党の右の政党が第3極のスターになることには、無理があったといえる。ネトウヨがインターネットの中に限れば元気だとは言っても、右寄りの有権者の多くはやはり自民党に入れる。安倍が党首では最右翼の票も自民党に流れる。共産党であればまだ、民主党→民進党も保守だなどといって、特に民主党が不調の時には、左派の有権者の票を一定程度集めることが出来る。しかし共産党と民主党以上の違いが、自民党とたちあがれ日本にあっただろうか。そもそも共産党だって、人気が出たといっても、野党第一党には遠く及ばない状況は変わらない。

端が駄目だというのではない。二大政党の中間に位置しても、日本では埋没することは既に見た。二大政党にないものが無ければならないのだ。自民党にも、労組の支持を受ける民進党にもできない改革を断行するというものである。かつての小沢一郎も、そのような支持を得た。「自民党よりももっと右です」というのでは、独自性に乏しかった。不要な立ち位置ではないが、そのような文化的な面で多くの有権者を引き付けるのは、無理なことであった。