日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
「保守」対社民が基本パターン

「保守」対社民が基本パターン

1955年、保守勢力の結集が自民党結成によって完結した後、野党第1党は、新進党を除けば、社会民主主義的な性格を持つ政党であった。勢いを見せていた社会党に政権を取らせないために、保守勢力が結集したという面が大きかったから、自民党に対抗する政党は、左(革新)でしかあり得なかった。その後、多党化が進む中でも、新自由クラブという小党を除いては、保守政党は誕生しなかったと言える。

野党第1党の社会党がダメだったというのは、社会主義から社会民主主義への脱皮が不十分で、このことを巡る党内の対立も激しかったからだ。脱皮が成功すれば、欧米の主な国々と似た政党制になる訳だから、それは1つの理想像であった。中道勢力の結集も、民社、公明両党の性格を考えれば、中道左派の結集だと言えた。

ところが、冷戦が終結すると、保守2大政党制を望む声が大きくなってきた。社会主義を引きずっていた社会党の体たらくを考えれば、分からなくもないのだが、社会民主主義など、中道左派の政党を望まずに、保守、あるいは保守に含められる中道右派の第2党を求めたのはなぜだろうか。

冷戦下、保守と革新、右派と左派(社会党など、1つの政党の内部の右派と左派ではなく、政界全体、議会全体を見た場合の右派と左派)という分類をした場合の保守政党、右派政党には、2種類あった。もともと保守政党とされていたものと、これに挑戦する自由主義政党である。

主要な国々の多くにおいて、自由民主主義が当たり前になる過程で、保守主義政党は没落するか、保守色をある程度残しながらも、自由主義政的になった(キリスト教の大政党も、自由主義だと言えるような、穏健な保守政党になっていった)。自由主義政党は、没落したり、保守政党の系譜と合流したりしたが、いずれにせよ、自由主義化した保守主義政党と同じく、保守政党に分類されるようになった。右、中道、左の3つに分ける場合には、中道に分類される政党もあるが、左派政党が力を強め、左右(中道における左右)の2つの陣営の競争が一般的になってからは、左派政党よりも右派政党に近い場合が多い。

そして、財政上の負担が大きく、効率が悪くなることも多い、社会保障重視の政治が行き詰まりを見せると、保守政党の中に、競争重視の新自由主義の色を強めるものが出て来た。

今は、もちろん多くのパターンがあるが、アメリカ、イギリスを見れば、競争・伝統重視の右派政党と、平等・伝統からの自由を重視する左派政党が対峙している。左派政党とは言ったが、アメリカの民主党は中道であり、社会民主主義政党とは言えない。イギリスの労働党は、一度は結果の平等よりも、機会の平等を重視する、少し右への移動を見せたが、現在では左に戻っている。

長くなってしまったが、機会、つまりスタートラインの平等を重視する、いわゆる第三の道を採るような、左派政党の一定の中道化はあり得ても、第1、2党が共に保守政党だと言える先進国は、カナダ以外に存在しない。そのカナダでも、自由党は左派政党に通じる性格を持っている。

保守主義政党と自由主義政党の対立はとうに役割を失い、だからこそ、これが1つになるか、どちらかが没落している。同じような大政党が2つ必要だということは、本来考えにくい(複数の有力な民族から成り立っている場合などに、A民族の保守政党、B民族の保守政党が存在するというようなことはあり得るが)。

日本の場合は、地元選挙区、利益団体の方への「ばらまき」を重視する自民党と、競争を重視し、無駄な歳出を切る新自由主義政党の対立を求める声が多いように感じられる。このことには、日本人特有の、あきらめが良く、権力に従順な性質が表れている。自民党を否定せず、その存続を受け入れているという点においてである。確かに、自民党の、ばらまき型保守としての存続を前提にすれば、節約型の新自由主義政党を挑戦者にしたくなるのも分かる。公共事業重視か、福祉重視かというのでは、積極財政同士の対立になってしまうからだ。

日本は、「最も成功した社会主義国」と言われることがある。そのような見方をする場合、社会保障の充実にも取り組んでいた自民党は、社会民主主義政党だということになる(社会主義政党だとするは、例えとしても極端すぎる)。社会民主主義政党が長く政権を握り、優位政党だという見方もされていた、スウェーデンという例もある。しかし被用者を支持基盤としておらず、伝統を重視する自民党は、それが明治維新後の伝統に過ぎないとしても、保守政党である。経済への介入も、被用者の生活の向上というよりは、産業の強化、保護のためである。だから、社会民主主義政党がいらないとか、小さくても良いとは、言えないのである。ばらまき型保守の自民党と新自由主義政党による、2大政党制で良いとは言えないのである。古い企業の経営者を支持者とする自民党と、新しい企業の経営者を支持者とする新自由主義政党というのでは、被用者を代弁する大政党がない(被用者が経営者になることもあるとしても、もちろんそれは一握りだ)。それでは困る。

社会民主主義にも新自由主義にも「手を付ける」自民党の、「何でも屋」の性質は、日本の政党制をおかしくしている。特に最近、優位政党である自民党が、ばらまき型政党と新自由主義政党の間で揺れているのは、政党制の発展のためには、かなり有害である。そもそも、経済状況に応じた一時的な(というよりも表面的な)変化は良いとしても、国の基本的な路線は、たとえそれが一般の有権者の顔色を見るものであっても(実際には一部の有権者であることが多いが)、自民党ではなく、有権者によって選択されるべきである。そしてそれは通常、政党を選択することで、なされるものである。

自分の選挙区や支持団体に不当に利益を誘導することは間違っており、それが不当なものではなく、必要なものであるならば、あまり争点にはならない。同じ「ばらまき」と批判されるものであっても、社会保障は予算の額もずっと大きく、少子高齢化が進む日本では、これからどうするのか、重要な争点とならざるを得ない。だから、競争重視で、低福祉低負担の小さな政府を志向する新自由主義政党と、各地域、各業界に利益を誘導することに積極的な自民党のような保守政党の対立ならば、平等重視の、つまり高福祉高負担の社会民主主義政党(議会制民主主義の枠からはみ出すような極左でない左派政党)と、新自由主義政党の対立のほうが、意義があると思う(ばらまき型を維持する場合の自民党の主張も、社会民主主義政党の主張も、「高負担」でなければウソになるということは、民主党政権が、少なくとも短期間では、歳出を大きく削減することができなかったことを見れば分かる-政権運営の未熟さや東日本大震災がなかったとしても、そう大きくは変わらなかったであろう-)。

グローバル化は、新自由主義に説得力を持たせる一方、貧富の差の拡大に対する反発を招きやすい。その「貧」の声を、右翼的なポピュリズム、社会主義・共産主義のような過激なものではなく、代弁する勢力が必要なのである。新自由主義が氾濫し、それに対抗するのに国家主義、共産主義が用いられれば、極端な政党同士の争いとなるし、左右両翼を政権から排除した場合、新自由主義しか選択肢がなくなってしまう。

他国を見ても、新自由主義と社会民主主義の差異は最も良く認識されてきたのではないだろうか。その他の差異が第1党と第2党(野党第1党)の間にあっても、また、それぞれの内部にあっても、それは今のところは、政党の再編を起こさず、議論をして答を出していくべきものだ(その矛盾が大きくなった時に、次の段階に進むことになるが、日本はその前の基礎が、「赤点」の状態だ)。

新自由主義と社会民主主義の対立では、新自由主義的政策によって中間層が薄くなり、富裕層と貧困層が分断されるというリスクはある。だからそうならないように、一部の有権者がそれを求めたとしても、極端にならないように心がけなければならない。実際、競争重視であっても、機会の平等、セーフティネットまで不要だという議員はほとんどいないだろうし、平等重視といっても、ばらまき的な方法には、財政上の限界がある。

例えば、新自由主義的な政権が、生活保護の支給基準を厳しくするなどして、結果の平等が犠牲になっても、機会の平等のため、教育の無償化や職業訓練の充実のようなものは進めるということは、大いにあり得る。新自由主義を応援する貧困層、社会民主主義を好む富裕層がいることも、矛盾を含むものの、1つの対立軸に沿った国内の分断を回避するという意味では、助けになる。

切り詰める政治も、弱者を守る政治も必要であり、あくまでもどちらか一方を、他の一方を切り捨てない程度に重要視するということである。それも、反対の志向を持つ政党が、もう一方の問題を指摘し、かつ交代で政権を担うのである。

自民党のばらまきは、強いて言えば地域間の平等を策すものであるが、人口が減少する日本においては、これ以上の新たなインフラの建設には、無駄遣いに終わるだけではなく、本来必要のない維持費までもが、かかってくる危険性がある(これまでにも、さんざん無駄なものがつくられてきたが)。老朽化したインフラの改修は、新たに建設する場合よりも票になりにくいが、不要なものは放置(有害であれば解体)し、必要なものを改修することが、今は特に重要である。地方分権を積極的に進めて、住民が、限られた予算の中で、どうするか決めるようにしなければならないのである(とにかく公共事業をどんどんやって景気対策とするというのなら、中央集権でも何とか成り立つが―それでも汚職の危険、住民に苦痛を強いる場合がある―、そんな方針を採る余裕はないし、景気対策としても、限界が指摘されている)。

自民党を恒常的に支持する利益団体の多くは、自民党が万年与党だから支持をしている。自民党(ばらまき保守)が存在し無くなれば、各団体が、自らの要求に応えてくれそうな政党を探すことになる。もう少し具体的に言えば、新自由主義政党と社会民主主義政党の、どちらかを選択するのである。もちろん、不満があれば、支持政党を替えるのが普通になる。それでも、もしも不必要なことに予算が割かれることになるなら、多数派の、一般の有権者が問題視して声を上げれば、かなりの程度回避可能な状況になってきている。

イギリスでは、保守政党も社会保障を重視し、それが財政難を招き、今度は保守政党が新自由主義的になり、社会民主主義政党もそれに寄った。欧米の多くの国では、層が厚い、左右両翼の中間部分(中道)に寄ることの多い、2大政党のどちらの政策にも満足しない有権者が増え、それが極右政党、極左政党、特に前者の登場、台頭を招いた(イギリスの場合は、EUからの離脱を唱える独立党)。しかし、そのポピュリズム政党の性格を強く帯びた極右政党、極左政党が、極端に軟化することなしに(極端に軟化すれば既成政党とかわらなくなる)、立派に政権を担うことに成功しない限り、新自由主義政党vs社会民主主義政党という政党制が、間違っているということにはならない。

ポピュリズムということで言えば、借金などいくらあっても大丈夫だと言って、安易にばらまきを続ける勢力と、日本はいつ破綻しておかしくないと、危機をあおることで支持を得て、過剰な緊縮財政を採る勢力との争いになることもまた、不幸だ。地方重視型政党対都市部重視型政党、老人党対若者党という、日本を地域的、年代的に裂くような対立も、単に、改革はできないが経験がある政党と、改革をすると言っているが経験のない政党の対立も、不毛である。変えることにも、変えずに守ることにも、理念が必要である。理念がなければ、人気を維持するために改革をする(唱える)、既得権益を守るために抵抗する、というだけになってしまう(若者、子育て世代を大切にする必要は当然あるが、それがやみくもに高齢者にケンカを売るものであっては、多数派になり得ない。自民党のような何でも屋に任せていても、一時的にうまくいっているように見えるだけで、結局先送りに過ぎない。この大問題についても、どのような国を目指すかという、各大政党の方針の中に、高齢者が納得しやすい理屈、ビジョンを示すことが重要だと考える。「こんな国を目指すから、国の未来のために、若い世代のために、これは我慢してください、譲歩してください」という具合に)。

経験のある保守政権による安定にもメリットはあるが、それでも既得権益を守るだけ、一切何も変えないというわけにはいかない。それは、一部の人のためだけの政治になってしまう。今は高度経済成長期と違って、分配できるものがどんどん増えていくわけではない。犠牲を伴う決断も、求められる時代である。だから例えば、都市と地方、世代間の格差の問題は、全国、全年齢層に根を張る大政党が、現状を客観的に分析し、それぞれの理念に基づく、明確な答えを出すべきである(それを一切変更してはいけないというわけではないが)。それで大政党間に、優先順位を含めて差異が生じれば、それが選挙における選択肢となるのである。適宜政権交代が起こることで、一方の考えの人々の排除、国内の溝の深刻化は回避される(現状に制限されて、希望が実現されなかった人々の不満も、そのような中では、政党が傲慢にならない限り、ある程度は和らげられるだろう)。

与党自民党が何でも約束すれば、それが有権者を欺くものであっても、すぐには分からない。「政治は結果が出るまでに時間がかかる」と言うことができるからだ。そうなると、野党第1党は、同じようにしなければ、いや、もっとバラ色の公約を掲げなければ、相手にならない。有権者に誠意を持って向き合い、だまそうとしない、過剰に媚びない政党を評価する人も、少なくないだろう。しかし、そのような人々だけを当てにしていては、現実問題、政権交代は実現しない。国民が自民党にもっと厳しくなることと共に、自民党が試されるような仕掛けを、野党がつくることが重要だ。

 

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