第1党になることもなく、約3年間で第2党の地位を明け渡した新進党であるが、その失敗の原因には、様々なことが挙げられる。寄せ集めゆえの統一性の弱さ、小沢主導(→小沢の自民党への接近)に対する反発、1996年総選挙の時の消費増税引き上げ中止の公約(新進党を動かしていた小沢が、約2年半前の細川内閣期に引き上げに動いていたことから、非現実的な人気取りの公約だと見られた)などなど。しかし同じような問題を抱えながら、民主党は政権を獲得した。
新進党失速の最大の原因は、上に挙げたことよりも、結成後1年も経たずに離党者が出始め、どんどん続いていったことにあるだろう。議員が離れていき、選挙もないのに勢力が衰えていく政党を、多くの人々が積極的に支持することは難しい。
大量の離党者はどこへ行ったかといえば、多くが自民党に戻るか、入ったのだ。小沢の独裁性や方針などを理由に挙げても、なんということはない。離党者の多くは、権力を奪還した自民党に戻ろうとしたのである。
以下の一覧を見て欲しい。自民党に移った議員の氏名に下線を付した。なお、新進党の結成は1994年12月10日、その参加議員は衆議院178、参議院36名であった。両院の副議長就任のための離党は除外した。自民党に入復党した議員にはアンダーラインを引いた。氏名の前に、衆議院議員ならば「衆」、参議院議員ならば「参」と付けた。
1995年 1月
衆 川端達夫 旧民社党系 10月16日新進党に新進党に復党
衆 木村守男 旧新生党系 無所属として青森県知事選当選
2月
衆 佐藤敬夫 旧みらい系 無所属で秋田県知事選落選、新進党に復党
3月
衆 山口敏夫 旧無所属系 無所属に ※1993年7月に自民党離党
衆 北川正恭 旧みらい系 無所属として三重県知事当選
5月
衆 大田誠一 旧自由党系 8月に自民党に復党
衆 中西啓介 旧新生党系 議員辞職
参 小林正 旧新生党系 無所属
7月
衆 保岡興治 旧高志会系 8月に自民党に復党
9月
衆 小平忠正 旧民社党系 9月に新党さきがけに入党
1996年 6月
衆 新井将敬 旧自由党系 7月に自民党に復党
衆 ※吹田愰 旧新生党系 無所属で山口県知事選落選、自民党復党
7月
衆 江田五月 旧日本新党系 無所属で岡山県知事選落選、民主党入党
9月
衆 船田元 旧新生党系 1997年1月に自民党に復党
衆 井奥貞夫 旧新生党系 9月に自民党に復党
衆 杉山憲夫 旧新生党系 9月に自民党に復党
衆 高橋一郎 旧新生党系 9月に自民党に復党
衆 石破茂 旧改革の会系 1997年3月に自民党に復党
参 友部達夫 新進党で初当選 オレンジ共済事件が発覚し無所属に
参 田浦直 新進党で初当選 10月に自民党に入党
―――――――――――――――――総選挙―――――――――――――――
10月
衆 米田健三 旧自由党系 1997年5月に自民党に復党
11月
衆 高市早苗 旧自由党系 12月に自民党に入党
衆 笹川尭 旧改革の会系 1997年3月に自民党に復党
参 畑恵 新進党で初当選 12月に自民党に入党
12月
衆 粟屋敏信 旧新生党系 太陽党を結成
衆 岩国哲人 新進党で初当選太陽党を結成
衆 奥田敬和 旧新生党系 太陽党を結成
衆 熊谷弘 旧新生党系 太陽党を結成(民主党離党、保守新党結成)
衆 小坂憲次 旧新生党系 太陽党を結成(民主党入りせず自民党復党)
衆 羽田孜 旧新生党系 太陽党を結成
衆 畑英次郎 旧新生党系 太陽党を結成
衆 堀込征雄 旧社会党系 太陽党を結成
衆 前田武志 旧新生党系 太陽党を結成
衆 吉田公一 旧新生党系 太陽党を結成
参 小山峰男 新進党で初当選 太陽党を結成
参 北沢俊美 旧新生党系 太陽党を結成
参 釘宮磐 旧新生党系 太陽党を結成
参 小川勝也 新進党で初当選 12月に民主党に入党
1997年 1月
衆 実川幸夫 旧新生党系 2月に自民党に復党
3月
衆 萩野浩基 旧民改連系 12月に自民党に復党
参 常田享詳 新進党で初当選 10月に自民党に復党
参 長谷川道郎 新進党で初当選 12月に自民党に復党
5月
衆 北村直人 旧新生党系 9月に自民党に復党
6月
衆 細川護熙 旧日本新党系 12月にフロムファイブを結成
衆 樽床伸二 旧日本新党系 12月にフロムファイブを結成
7月
衆 愛知和夫 旧新生党系 7月に自民党に復党
衆 北橋健治 旧民社党系 1998年1月に民改連に入党
衆 伊藤達也 旧日本新党系 無所属ク結成、民主党入りせず自民党へ
衆 上田清司 旧新生党系 12月にフロムファイブを結成
衆 鴨下一郎 旧日本新党系 12月に自民党に入党
参 水島裕 新進党で初当選 1998年7月に自民党に入党
8月
衆 今井宏 旧日本新党系 12月に自民党に入党
衆 増田敏男 旧新生党系 10月に自民党に復党
参 石井一二 旧新生党系 1998年7月に自由連合に入党
9月
衆 仲村正治 旧新生党系 10月に自民党に復党
衆 山本幸三 旧新生党系 12月に自民党に復党
参 鈴木正孝 新進党で初当選 12月に自民党に入党
12月
衆 村井仁 旧新生党系 12月に自民党に復党
衆 矢上雅義 旧日本新党系 12月に自民党に復党
衆 古賀正浩 旧新生党系 12月に自民党に復党
参 円より子 旧日本新党系 12月にフロムファイブを結成
――――――――――――――――――解党正式決定――――――――――
※復党した時には国会議員ではなかった。
約3年間で60名以上が離党しているのである。それもほぼ散発的に。これはあまりにおかしなことである。民進党でも似た光景が繰り広げられるのかと思った時は、背筋が寒くなった。細川非自民連立内閣、新進党の事実上の中心であった新生党、シンボルであった日本新党出身の離党者が多いことも情けない。
太陽党、フロムファイブという新党を結成した離党者の多くは、その後民主党へ移った。しかしそうでない離党者の多くは、自民党に移った。それぞれに理由はあった。しかし第2党から第1党に次々と議員が移っていくなど、本来あり得ないことだ。これが可能なのは、自民党と新進党に、自民党と社会党ほどの差異がなかったからであった。1党優位の傾向が根強い日本では、保守2大政党制になった場合、強い方に議員が流れる可能性が高いと言える。
新進党からの離党の動きが顕著になったのは、自民党が総理大臣のポストを約2年半ぶりに取り戻してから約8ヶ月、新進党が初めて迎えた1996年の総選挙の前からである。離党者の自民党入りは総選挙後だが、彼らにその意思があったことは、明確であったと言えるだろう。これでは勝負になる訳がない。
今度こそ成功すると言う人もいるかもしれないが、小選挙区制中心の今となっては、左派の票を当てにせずに自民党と渡り合うことは、とても難しい。それでいて、第3党以下を生き残らせる比例区があるから、五十五年体制下の多党制からの転換も困難で、サルトーリが1党優位政党制に分類した、五十五年体制に近い状態となっている(それでいて、五十五年体制下は野党であった公明党が、与党なのだ・・・)。
「何でも屋」であり、優位政党である自民党には多くの支持団体がついている。その挑戦者となる保守政党は、自民党を下さない限り、多くの利益団体に振り向いてもらうことができない。創価学会と、旧民社党系の労組を味方に付け、今の第2党以上に期待もされていた新進党ですら自民党に勝てなかったということは、念頭に置いておかなければならない。新自由主義的な性格、自民党との差別化から、利益団体などと、距離を置かざるを得ないということもあるだろう。自民党に対抗するには、違う形で目立たなくてはならない。そのためにポピュリズムの誘惑に負けるというのでは、現状の日本では、大政党にはなりにくい。
左派政党ならば、労働組合などの支持を期待できる。労組も利益団体だが、被用者という、多くの人々の利害を代表するものである。確かに現段階では、問題も多くある。公務員と民間企業の社員では全く異なるし、同じ民間の正社員でも、安心できる人、できない人がいる。しかし雇用の流動化が進められれば、正規雇用の立場も揺らぐ。長期的に見て、立場の弱い被用者、これから立場が弱くなるかも知れない被用者が、何かしらの形で守られるために、ある程度団結することは可能だろうと思う。そのためにこそ、民進党系は動かなければならない。容易だとは言わないが、無党派層における人気と組織票の両立は、不可能ではないと思う。技術革新で働き方が全体的に大きく変わったり、雇用が減ったりする前に、そのような体制を整えて、それから、次の変化において被用者の側を守れるように、前へ進まなければならない。公務員制度の改革にも、この路線と矛盾しないような方向で、取り組むことはできる。それで不十分になるようなら、それこそ、政権交代(異なる利益団体の支持を受け、そこに遠慮する大政党間の政権交代と、お互いの節度ある補完)が有効だ。
小沢一郎は、小泉改革に問題意識を持つようになったということもできるが、自民党に対抗するために、社民党、民主党に接近して左傾化したという面があるはずだ。いずれにしても、保守政党、新自由主義政党として自民党に対峙することは、断念したのである。大阪であれだけの人気と地盤を築いた日本維新の会も、2017年の総選挙において、その大阪でも後退した。
自民党と、社会党という大政党を先祖に持つ民進党系、それらより古い共産党、それらほどではないにしろ、前身を含め50年を超える歴史を持つ公明党・・・ 主要政党を見れば分かる通り、みな、長い歴史の上に、その地位を築いてきた。だからこそ、自民党は分裂しても復調し、社会党、民社党、公明党は、再編の中で消滅したものの、復活している(社会党は立憲民主党と社会民主党に、民社党は国民民主党になっていると言える)。
結成されて数年で2大政党の一方になるということは、国の内外で劇的な変化でもない限り、いやそれでも不自然なことである。仮にそのようになったとしても、新党であることを忘れず、成功の経験だけでなく、失敗の経験も蓄積していかなければならない(複数の既成政党が合流したものであるなら、すぐに2大政党の一方になるのも不自然ではないが、団結力を確かなものにするための努力を、順境にある時も逆境にある時も、続けなければならない)。
38年間の五十五年体制を経験した日本では、自民党以外の保守勢力の歴史は浅い。五十五年体制が終わってから25年以上が経った今でも、10年以上存続している保守政党は存在しない。だから、保守2大政党制の実現は、間違いなく難しい。それでも、と言うのなら、自民党を真っ二つに割るか、それができないのなら、時間がかかることを覚悟するべきである。でなければ目立とうとするあまり、ポピュリズムの誘惑に負けるということもあるだろう。そうなっては、一部の人々に熱狂的に支持されても、安定した大政党には、決してなれない。
保守政党同士が、サービス合戦になるのも不毛だ。小沢一郎が民主党を2007年の参院選、2009年の衆院選で勝たせた手法に、自民党の変化に不満を持っていた団体を、切り崩すというものがあった。小沢は日ごろから、民主党議員の選挙区における日常活動が不足していると述べていた。
日常活動は大切だが、それは有権者と意見交換をするためである。有権者の希望を、何でも「はいやります」と聞くことではないし、冠婚葬祭に出席することで、有権者を喜ばせることでもない。このようなサービスをする政党が自民党以外にもう1つできて、サービス競争が繰り広げられることが有益だとは思わない。有効に活用されない箱物にかかる維持費も含め、国と地方自治体の借金が増えるだけである。
もちろん、保守政党同士でなくても、そうなる危険はある。節約志向の新自由主義政党よりも、社会民主主義政党の方が、ばらまき競争に熱が入りやすいという見方もできる。しかし本来、立憲政友会を祖先の1つに持つ、自民党という保守政党のばらまきと、社会民主主義政党のばらまきとでは、重点が異なるはずである。同じようなばらまきで競争するというのではなく、それぞれの、異なるビジョンを巡って、競争するのが本当である(もちろん、誰の目から見ても必要な福祉政策、インフラ整備など、重なる部分もある)。その点で、小沢の積極財政志向は誤りではなかったが、財源が確かでなかったこと、つまり、本来高福祉高負担とならざるを得ないことを、しっかり示さなかったことが問題であった(ただし、何でもありの自民党を相手にするには、それくらしなければならなかったということは、悲しい現実ではあるとしても、良く理解できる)。なお、当たり前すぎる話だが、「コンクリートから人へ」というのも、公共事業0%福祉100%ということではなかったし、そうであってはいけない。