1-23野党が駄目だというのなら、どんな政党制を望むのか?1.政権交代論

日本人が野党第一党を取り替えたことはない?

日本人が自ら政権交代を起こしたといえるのは2009年だけだということを、以前述べた。だが、それだけではない。優位政党に対する挑戦者であることの多い野党第1党を、自ら別の党に取り替えたということも、実はほとんどない。それを確認しておきたい。

議会開設当初、第2党は薩長閥政府支持派の国民協会から、立憲改進党に代わった。第3回総選挙でのことであり、当時は、第1党の自由党が第2次伊藤内閣に寄ろうとしており、他の政党は野党であった。だから野党第1党、あるいは自由党に対する挑戦者が取り替えられたと言えなくもない。しかし国民協会は、伊藤系とは関係が良くなかったものの、薩長閥の他の勢力とはつながっていた。現代の野党とは性格がかなり異なる。自由党が内閣と対決する場面もあった。だから、第3回総選挙については、野党第1党を取り替えたという意識が、有権者にはなかったと言える。

以後、立憲改進党の系譜(→進歩党→→憲政本党→立憲国民党)は、ごくわずかな例外を除いて第2党、つまり自由党系(→→憲政党→立憲政友会)の最大の挑戦者であった。やはり自由党系が与党(または準与党)になったり野党になったりしたから、そういう意味では、野党第1党が改進党系から自由党系に代わったというような場面はあったが、有権者が替えたわけでも、政党間の優劣が変わったわけでもない。有権者はずっと、自由党系を第1党に、改進党系を第2党にしていたのだ。唯一の例外は、双方が合流していた憲政党内において、進歩党系の当選者の方が自由党系の当選者より多かった、第5回総選挙である。有権者がそうしたわけではないが、第4回総選挙後、自由党系から離党者が多く出た後、第6回総選挙後、憲政党が大分裂をしてからしばらくは、改進党系の本流を汲む政党の方が、議席数が多かったことがある。

野党第1党が交代したとも言えるのが、改進党系の立憲国民党が第3党になり、立憲同志会が第2党として結成された時だ。しかし立憲同志会には、立憲国民党の約半数が、同党を離党して参加しており、第2党がリニューアルされた再編であったと、見ることもできる(どちらが正確かということについては、改めて述べることにする)。

その後、一度の総選挙(第12回総選挙)を除き、立憲政友会が第1党、立憲同志会→憲政会が第2党という状態が続き、立憲政友会が真っ二つに割れて初めて、状況が一変した。政友本党(清浦の非政党内閣を支持、立憲政友会から分裂して誕生)、立憲政友会(野党)、憲政会(野党)の順が第15回総選挙で、憲政会、政友本党、立憲政友会となったのだ。そして憲政会、立憲政友会、革新倶楽部の連立内閣が成立した。しかし、このケースも、第1党が入れ代わっていること、立憲政友会が優位政党の地位を失ったことから、野党第1党の交代としては語れない。以後の再編で、立憲政友会と、立憲民政党(憲政会と政友本党が合流)が対等な力を持ち、交互に政権を担う時代に入った(と言うには、期間が短すぎたが)。

戦前の日本は、当時、またはそれより昔のヨーロッパやカナダのように、保守主義政党と自由主義政党が対立していたというよりは、2つの自由主義政党(自由党系と改進党系)が、非政党政権に挑戦しつつ、互いが明確なライバル関係となっていったという経緯がある(明確な薩長閥支持派は衆議院では少数派であり、それよりも右の右翼的な勢力は、両院共に少なかった)。

その、差異に乏しい2大政党も、様々な経験をしていく中で、元々優位政党で地方重視の立憲政友会を他国の保守主義政党、同党より進歩的であった立憲民政党を他国の自由主義政党として捉えられるような、差異を定着させていったのである。一方、ヨーロッパなどで、新たな対立軸の申し子として成長していた社会民主主義政党は、日本では男子普通選挙制となっても、合わせて2ケタにも届かなかった。ばらまき型(積極財政)と節約型(緊縮財政)の2大保守政党制を受け入れる、あるいは好む傾向は、戦前の、左派を恐れて弾圧した歴史を下地にしていると言えるだろう。

それでも社会民主主義政党の伸長は、いずれ起こり得るだろうと見られてはいた。社会民主主義政党が本格的に台頭し、立憲民政党が没落するか、同党が立憲政友会と1つの保守政党になり、イギリスなどと同様の道に進むかも知れない・・・というところで戦時体制に入ったと、見ることもできなくはない。

政党政治が続いていた場合、社会民主主義政党(社会大衆党)は第2党になっていただろうか。それとも、日本が戦争に負け、戦勝国アメリカの影響を強く受けることで、はじめて、社会(民主)主義政党(日本社会党)は第2党になることができたのであろうか。筆者は、どちらかといえば、後者であるように思われる。前者であった可能性もあるが、社会民主主義政党が自力で第1とわたり合える、つまり自らも第1党になり得るだけの力をつけるには、非常に時間がかっていたと思う。

社会大衆党が、立憲民政党(の多く)と、中道政党を形成していた可能性も、立憲政友会の1党優位が復活するような状況になっていれば、あり得たかも知れない。しかし戦後、社会大衆党の後継政党だと言える日本社会党と、改進党系の民主党との連立は、両党において、大量の離党者を生んだ。これは社会党が左派を含んでいたために、両党の政策上の距離が遠かったためでもある。しかし、片山内閣の炭鉱の臨時石炭鉱業管理法案を見れば分かるように、社会党右派と民主党も容易に一致し得たわけではない。社会党右派になる勢力はかつて、自由党を結成する議員達に合流を働きかけられていたが、保守・自由主義系と、社会(民主)主義系をまたいだ再編は、実際には難しかったし、できたとしても、一時的なものに過ぎなかったと考えられる。特に敗戦によって財閥が解体される前は、財閥と結びつきのある政党と、労働者を基盤とする政党の距離は、ある意味では戦後の保守政党と革新政党よりも、遠かったと言える。だからこそ、戦前の社会大衆党には、右翼的な政党との合流を考える議員達がいたのだ(立憲民政党から分裂してできた国民同盟は、彼らにとって合流し得る政党であった)。

戦後、五十五年体制が成立する前、頻繁に政党の再編が繰り返される中、有権者が上位3党の順位を変化させたことがある。その中で野党第1党が代わったことも、あると言えばある。しかし優位になった日本自由党の系譜のライバルを、日本進歩党→民主党の系譜から、日本社会党に取り替えたということ(またはその逆)があったと言えるだろうか。社会党が左派と右派に完全に分裂していて、しかし協力することも少なくはなく「両派社会党」としてひとくくりにされることもあったし、対立していた日本自由党の系譜と日本進歩党→民主党の系譜の間の、合流を目指した動き、噂もあった。徐々に保守(自民党に収斂する諸政党)と革新(社会党系など)との対立構図が鮮明になっていったのであり、第2党を取り替えたとは、やはり言い難い。イギリスのように、保守党と自由党の2大政党制であったところに労働党が台頭し、第3党から第2党になったというような歩みでは、戦後の日本もなかったのである。

五十五年体制が成立する前、日本進歩党の系譜には結局、公職追放を解除となった戦前の2大政党の有力な政治家が集まる形になった(自由党系を脱し、改進党と合流して日本民主党を結成した、鳩山一郎ら自由党系と、新政クラブを結成し、国民民主党と合流して改進党を結成した、改進党系―戦後の日本進歩党系―)。この、憲法改正、再軍備を主張する保守第2党(改進党→日本民主党)と、左派社会党という、左右に大きく離れている面のある政党が、野党陣営の中心になる結果となった。自由党系の影響力は、一時的に保守第2党(日本民主党)が衆議院第1党になり、その主導で自民党が結成されても、結局は揺らがなかった(20世紀が終わるまでは、自民党の中心であり続けた)。

あえて「超おおざっぱ」にまとめれば、武装・経済中道の改進党系、平和・競争の自由党系が合流して、平和・経済中道の自民党になり、ここから武装・競争重視の新生党、平和・経済中道のさきがけ(小規模)が出て、さらにばらまき型の国民新党(小規模だが同時期に同様の議員が多く離党)が出るということが、結果的としてはあって、しかし主に党内力学の変化によって、自民党は競争・武装になった。そして自民党と、社会党以来の平和・平等の流れを汲む民主党による、2大政党制に一度はなった。なお、武装、平和という語は、単純化するために使った言葉であり、正確には自衛隊の強化(や海外派遣)などに、積極的か、消極的(または否定的)かという差異である。武装と競争、平和と平等は、それぞれ、逆の組み合わせよりは相性が良いと言えるから、今後変化することはあっても、現段階では、有権者がイメージしやすい差異が第1、2党間にあることも含めて、落ち着くところに落ち着いたのだと言って良いだろう。

保守2党と社会党系という、差異はあれども、整理が必要な多党制であったと見ることもできる状況から、なんでも屋の自民党と平和・社会主義の社会党との対立を経て、まだ不完全ながらも、合理的な構図となった。第1、2党の差が、五十五年体制よりもさらに広がった今もまだ、かろうじてその延長線上にある。

冷戦終結後の1994年、社会党はついに第3党に転落した(当時野党第1党は新生党であり、社会党は与党第2党であった。それは変わらなかった。なお、議席数の順位は、衆議院におけるものである)。新進党を第2党にしたのは、議員達による再編であり、有権者の選択だとは言い難い。たしかに、新たに誕生した保守政党のうち、日本新党と新生党を足しただけで、社会党の議席を上回る状態には、1993年の総選挙でなっていた。しかし、日本新党は総選挙直後までは中立の立場を採り、新生党と距離を置いていたし、第2党はあくまでも社会党であった。そして結局、社会党の流れを汲む民主党が、これも有権者の選択とは言い難いが、新進党の分裂によって、第2党になった。

2017年、民主党後継の民進党がバラバラになった時、有権者は保守政党であったと言える希望の党(民進党の多くの衆院議員も合流)を、第2党から第3党に落とし、第5党であった民進党左派による立憲民主党を、第2党に押し上げた(これも衆議院における順位)。

有権者は、自ら民進党をバラバラにしたわけではないが、どの党を第2党にするか選択しやすい有効な機会において、左派政党を第2党にするという答えを、一応は出したのだと言える(具体的には再編により野党第1党になった希望の党を第3党に落とし、左派政党の立憲民主党を野党第1党にし、野党第1党を従来と異なるものにすることを拒んだ)。「一応」としたのは、左派系野党と右派系野党のどちらが多いか、数え方によって変わるからだ。しかし、立憲民主党が野党側の主導権を握ったに近い状況にはなっているから、それが確かなものかをもう少し見た上で、「一応」という言葉を取り去ろうと思う。思えば2012年にも、日本維新の会やみんなの党が、一党では民主党を上回ることはなかった。戦後の日本の有権者は、左派政党を第2党にし、また、第2党にとどめたのである。

社会党の系譜は、1994年12月からの約3年間を除いて、第2党であり続けている。