1-24挑戦者をコロコロと替えないこと1.政権交代論

無意味に繰り返される新党ブーム

日本では戦後、特に五十五年体制崩壊後、たびたび新党ブームが起きている。比較的長く続き、汚職の疑惑などもあった吉田茂内閣にあきた国民は、その吉田との抗争の果てに誕生し、左右両派社会党の消極的な支持によって政権を得た同党を支持し、ブームと呼ばれるようなものが起きた(総理になれるはずのところ、GHQににらまれて公職追放となり、その解除後に脳出血で倒れ、その後やっと総理大臣になった、鳩山一郎総裁のブームであったが、新党ブームというのはたいてい、「党首ブーム」である)。しかしその日本民主党は、左右両派社会党ではなく、自らが政権から引きずりおろした自由党と、合流をした。自民党の誕生である。日本民主党と社会党、特に左派との政策的な隔たりを考えれば、これは当然の選択だと言えるのだが、対決してきた相手と、こうも簡単に合流するというのは、本来、有権者の多くを置き去りにしたと非難されるべき行動である。

日本民主党ブームはこうして去った。その後、中道躍進の芽も完全になくなり、日本全体が自民党支持と社会党(再統一)支持に分かれ、前者がずっと優勢であったのだから、ブームは必要なくなったのだと言える。しかし、このようにして成立した五十五年体制下にも、2回、新党ブームが起こった。1つは新自由クラブのブームである。

ロッキード事件をきっかけに、汚職事件が後を絶たない自民党を離党した河野洋平ら衆議院議員5名、参議院議員1名は、1976年、新自由クラブを結成した。同党は同年の総選挙で都市部を中心に躍進し、17議席(+追加公認1)を得た。翌年の参院選でも3議席(+追加公認1)を得るも、以後、それを超えることはついになく、追加公認でなんとか過半数を上回った自民党との連立(1983年~)を経て、1986年、衆参ダブル選挙で大勝した自民党に合流した。

新自由クラブのブームが一過性に終わった理由は、同党がクリーンな自民党に過ぎず、保守ではあっても、統一性、団結力が決して強くなかったことにある。クリーンかクリーンでないかというのは、政党を隔てる軸としては、あまりにお粗末である。もし、自民党がクリーンなイメージのある議員を党首に選んだ場合、そのお粗末な対立軸は、さらに色あせてしまう。また結成時に路線を明確に定めなかったためでもあるが、同党では、野党間の協力に積極的な河野洋平らと、自民党に近い西岡武夫らの対立があり、分裂も経験した。第3極の宿命も、しっかり背負っていたわけである。

しかし、最大で17議席しか与えずに、有権者は新自由クラブに何をさせようとしたのだろうか。いくら上で述べたような欠点があっても、少しずつでも議席を伸ばし、発展していくという展望があれば、政党は成長し得る。有権者が新自由クラブの中のいずれかの路線を支持して、欠点はあっても、しっかりと支持していくということをしなかったことが、同党不振の最大の要因だと言って良いだろう。

新自由クラブが消滅してからわずか数年で、今度は日本社会党の(マドンナ)ブームが起こった。じりじりと勢力を減らしていた社会党が、再統一当時の勢力に近づいた。浮気性な日本人は結局、第2党に戻って来たのである。しかしそれからわずか数年で「やっぱり駄目だ」と、今度は日本新党ブームが起こった。

ちなみに日本新党が結成された時、新自由クラブの自民党への合流(復帰)に反対して、国会議員は1人だけの進歩党を立ち上げた田川誠一はなお、現役の衆議院議員であった(そして国会議員も、彼1人のままであった)。日本新党に飛びつく前に、国民は田川の進歩党を、もう少し評価しても良かったのではないだろうかと思う。少なくとも、政治改革を目指す、中道寄りの保守政党であるという点で、似ていたと言えるのだから。

五十五年体制下2回目の新党ブームは、日本新党であった。これも、そこまで大きなブームではなかった。日本新党は議席ゼロから始まり、1992年の参院選で4議席(定数50の比例区だけに候補を擁立し、共産党や民社党を上回る票を得た)、1993年の衆院選で35議席を獲得した。特定の支持基盤を持たない新党としては、特に後者はなかなかすごい記録だといえるが、後者では、自民党離党者による新生党、新党さきがけも結成されており、自民党が参議院に続き、衆議員でも過半数割れを起こす状況となっていた。政権交代が起こるかも知れないという期待から、保守3新党を、一まとめにしたようなブームが起こっていたと見るべきだろう。

この中で、自民党政治の中心であった田中派→竹下派の中にあり、クリーンなイメージはなかった新生党だけが、小沢の志向を反映して、新自由主義的な志向を明確に持っており、自民党のばらまき型の政治に、対峙し得るかのように見えた。

日本新党、新生党、新党さきがけの3党は全て短期間で消えた。しかし消えたといっても、他党と合流することで発展したという場合もあるから、きちんと見る必要がある。

日本新党は、武村新党さきがけ代表につくか、小沢新生党代表幹事につくかで揺れ、1994年、7人もの議員が新党さきがけに移った。さらに、12月に新進党の結成へと進む際、不参加者が出た。これらの離反者は、社民党の離党者達と共に、民主党を結成した。新進党に参加した残部は、さらに後に、自民党に移る議員達と、民主党に合流する議員達に分かれた。

新生党系は、同党などが合流した新進党の中心であったが、非自民連立政権の失敗を引きずり、小沢らと羽田らの対立感情が抑えられないものとなった。結局、小沢らは自民党との保・保連合を模索するようになり、羽田らは民主党との野党連携を模索するようになった。後者は新進党を脱し、太陽党を結成、後者の残部共々、新進党の崩壊後に民主党に合流した。前者は自由党を結成して、自民党との連立を実現したが、連立離脱派と残留派に割れ、離脱派の小沢一郎らが民主党に合流、残留派の二階俊博らが、保守党、保守新党を経て、自民党に合流するに至った(小沢は後に民主党を脱して、結局自由党を再興した)。

新党さきがけは、社民党との新党結成について揺れ、結局両党の一部を排除した上での社さ新党として、民主党が結成された。民主党は野党化していったが、社さ両党の残部はしばらく、自民党との連立を続けた。

新自由クラブも、1993年にブームを起こした新党群も、後の自由党(1998年結成)みんなの党、日本維新の会→維新の党も、政策よりも戦略を優先させ、野党連携か自民党への接近かで分かれたという面を持っていることが分かる。異なる志向を持っていても同じ壁にぶつかり、同じように別れ、同じような道をたどる。これも1党優位のせいだと言える。

自民党1党優位でなければ、「自民党につかなければ何もできない」、「自民党を倒さなければ何も始まらない」などと考える必要がなくなり、理念や重要な政策を軸とした再編、連携が実現しやすくなるはずだ。また、1党優位の傾向が直ちに無くならなくても、以上のことを分かっていれば、すでに起きた再編をなんとか意義のあるものとし、やたらと似たようなブームを繰り返さないということは、できるのではないだろうか。

有権者が、従来の第2党と、その時々の新党との間を揺れ動き、どちらかを長期的に自民党に対する挑戦者とすることなく浪費する状況は、もう40年以上続いていると見ることもできる。その結果、時代の変化に対応することができたと言えるだろうか、状況は良くなったと言えるだろうか。いい加減に何とかしないと、議院内閣制を真には体験しないまま、つまり、安定して存続する大政党の間を、一定の間隔を空けて政権が移動するという基本をしっかりと身に付けることがないままに、世界の変化に翻弄されることになる。世界の変化には、いずれもポピュリズム政党としての面が大きい、極右政党の台頭、新たな左翼政党の躍進も含まれる。時代に応じた変化を遂げるための痛みと言えるのか、単なる不安定化なのか、まだ総括する段階にはない、西欧の政党制の変化である。

覚悟をしなければならないのは、もちろん議員だけではない。有権者も同じである。政党に理念なきサービス競争をさせたり、すぐに新しい政党に飛びついていたりしては、その新しいものも、試行錯誤しながら育っていくという機会をほとんど得られないまま、古い弱小勢力になってしまう。

新党でもあり、従来からの第2党の本流と見ることもできる立憲民主党のブームは、最後のチャンスなのかもしれない。日本人は自らの意志で、希望の党ではなく立憲民主党を、自民党に対する挑戦者に指定したのだから、叱咤激励し、育てていかなければならない。