日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
感情的なののしり合い

感情的なののしり合い

右翼的な人が左翼的な人を、左翼的な人は右翼的な人を、批判するのは自然なことだ。極端な意見が多いものの、どちらかが正しいこともある。自分と意見が異なる人に敬意を払えないのは情けないことだが、そのような人間は、いつの時代にも、どこの国にもいるものだ。

しかし、今、やや危険な状態になってきている。原因は左の卑屈さと、右の英雄気取りだ。

左は、特に民主党政権の失敗以後、心のよりどころを失っている。共産党と社民党が没落した時、両党よりも性格は曖昧であるものの、かつての社会党の流れを汲む民主党は、その前後の時期よりは、政権獲得に近付いていた(民主党が社共両党の票を削っていた)。だから左の人々は、状況に不満を持ちながらも、民主党の政権獲得に期待することが出来た。ところが、民主党政権は、左の人々が期待する政権ではなくなり、民主党も、再度の政権獲得を期待し難い政党に転落した。そして、かつてないほどに右寄りの、安倍内閣が復活した。これでは左の人々の声は政治には反映されない。彼らはそれまで以上に、自民党に対する憎しみをため込んでいるように見える(この事に関して、かつてその腐敗を批判した人が、五十五年体制を懐かしむこともにも違和感を覚える)。政府の政策を変えさせたくても、一生できないかも知れないという、あせりやあきらめの中で、とにかく自民党や右の人々をおとしめたいという気持ちが膨らんでいるように見える(もちろん皆が、というわけではないが)。

その政界における一つの表れが、「ブーメラン現象」と呼ばれるものである。民主党→民進党系が、自分達もしてしまっていることで自民党などを批判し、墓穴を掘るという現象である。これは前から見られたことだが、例が増え、目立つようになった。短期間とはいえ、自民党と同じ与党を経験した以上、批判が自分たちに帰って来るリスクは高くなり、慎重になって当たり前のところ、目立つようになってきているのである。身内に甘く、敵に厳しいという姿勢は、左右両方に見られることだが、常識のある人々からは、軽蔑されてしまう。

ただ、「ブーメラン、ブーメラン」と喜んで使っている人々にも、筆者は違和感を覚える。そういった言葉で政治を身近に感じるのは良い事だが、あまりにしつこく使われていて、問題の本質と向き合うことがおろそかになっていると感じる。

右の「英雄気取り」というのは、右が正しく、敵国とつながっている左を倒さなければならないという、ヒーロー作品のような世界観の中で、自分を、そのヒーローの1人だと思い込んでいるということである。中国では人権が踏みにじられており、日本にとっても、尖閣諸島の領有権問題などに関して、中国は非常に厄介な相手である。しかし日本の商売相手でもある。「悪の帝国」のように罵るのは簡単だが、重要なのは対中戦略である。日本人が今の中国を嫌っているとしても、それは不自然なことではないが、「嫌い」が先に立ち過ぎると、客観性を必要とする、分析力が鈍る気がする。もちろん、「好き」が先に立っても同じだ。

「左派に政治を任せていたら、国防はどうなるのか」という危機感も分かる。左派の卑屈な「乱射」が、大好きな安倍内閣を煩わせていることに対する憤りも分かる。しかし、左派=売国奴という構図は単純過ぎるし、左派という存在が間違っているのなら、なぜ多くの民主主義国に、政権を担う多くの有力な左派政党が存在するのだろうか。日本の左派がなぜ、他の先進国と違うものになったのか、それを考えた時、「強者」である、自分たちの振る舞いこそが試されているということに、気が付くはずだ。

「強者」としたのは、自民党が優位政党であるからだ。もし、自民党全体はそうとう左寄りの面、あるいは左に甘い面があり、本当の保守は多数派ではないと考えているのなら、例えば、憲法9条2項を残すような安倍総理の改憲案は、多数派の最終的な合意だということになる。拒否するべきだ。

右の人々の攻撃の矛先が少数派、弱者に向かうことも、避けなければならない。弱い立場の人々は、平等を重視する左派政党と相性が良い(共産主義ともなると別だが)。だからなおさら、右からの批判にさらされやすいし、自らの正しさをアピールするものとして、左派にも利用されやすい。左右の対立が度を過ぎるようになった時、最初に深刻な被害にあうのは、少数派、弱者ではないかと危惧する。

小泉内閣期、イラクで人質になった日本人に対して、自己責任だと、突き放すどころか、批判する人々がいた。これは、間違ってはいない。しかしだからこそ、人質やその家族といった、弱い立場に立たされた人々には、残酷な言葉であった。自衛隊を海外派遣することの是非、危険な国や地域に民間人が行くことの是非、一度起こってしまった人質事件への対応は、それぞれ別の問題である。しかし左派は、自衛隊を派遣するから日本人が人質にされたのだと、政権を批判した。これにはこれで、全て間違っているわけではないとしても、事件を利用していると批判されても仕方のない面もある。しかし一番の問題は、愛する人の命が失われるかもしれないという恐怖の中にある人々自体を批判する、一部の右の人々の神経である。自分は同じような立場に置かれても、毅然としていられるということだろうか。彼らの全員がそうだとはとても信じられないし、そうだとしても、そうでない人への思いやりを持つべきだ。

以上に関連することとして、元フジテレビアナウンサーで、2017年の総選挙に日本維新の会の公認を得て立候補、落選した長谷川豊の、問題となったブログについて述べたい。

タイトルは、「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」。内容については、人工透析を担当している医師に聞いた話として、患者の大多数は、自業自得の食生活と生活習慣が原因だと記しており、そのような患者について、障害者1級として優遇されていることなどを問題視している。

記事の主張には、共感できる面が全くないわけではない。しかしまず、「患者の大多数」というのは誤りであり、確認せずに記したようだ。従って誤解を生むものであり、また、もし本当のことであったとしても、あまりにきつい、冷たい表現である。特定の人々を安易に一まとめにして、敵とするのは危険なポピュリズムである。

自業自得で病気になった人の医療費を自己負担とすべきだという主張については、筆者も全く共感できないというわけではない。新自由主義的な維新の会らしいという面もある。問題は、自業自得かどうか、誰が決めるのか、いや決めて良いのかということである。たとえ自己管理がなっていなかった場合でも、その背景に社会的な境遇や、他者の影響があった場合はどうだろうか。それを考えなかったのであれば、浅はかだと思う。また、たとえ誰がどう見ても完全な自業自得である場合でも、自己負担で支払える余裕がない人を、見捨てて良いのだろうか(判定に関しては置いておく)。筆者は見捨てるべきではないと考える。きれいごとになってしまうし、監視社会になる危険があるが、事前に防げるよう努力し、防げなかった場合については、人を裁くようなことはせず、助けるべきだと考える。

そんなことは考えもしていなかったのであろう。長谷川はその後、出演番組で同じような表現を繰り返した。このような人物を、候補者として公認した日本維新の会の、意図が分からない。社会保障関係費、その伸びを圧縮しなければならない、使われ方に問題があると主張する人々にとっても、長谷川の表現はマイナスなのではないだろうか。

日本維新の会といえば、まだおおさか維新の会であった2016年4月、大きな被害のあった熊本地震について、片山虎之助共同代表が「タイミングのいい地震」と発言した。これは、ここで見ている左右のののしり合いのようなものではない。従来からの問題にされてきたような、失言の類である。しかし、震災に遭ってしまった人々のことを考えた時、このような表現の言葉が出るものだろうか。

他者の立場に立つということについて、どうしても挙げなければならないものであるから、自民党以外の例を挙げたが、自民党では、最近で言えば和田政宗、杉田水脈参院議員の発言が印象的である。

和田は、参議院の予算委員会において、財務省の太田理財局長に対して、野田総理の秘書官であったこと、消費税増税を志向していたことから、「アベノミクスをつぶすために、安倍政権をおとしめるために意図的に変な答弁をしている」のではないかと質問した。背景には民主党→民進党系に対する敵意があると考えられる。しかし、官僚は国会議員と違い、時の政権の指示に従って動くものである。消費税については別として、野田民主党内閣において要職に就いていたことで、現政権をつぶそうとたくらんでいるとするのは、証拠でもない限り、現行の制度を無視した発言であり、官僚全体を見下した発言である。もちろん消費税の問題(菅直人、野田民主党内閣の消費税増税に財務省の働きかけがあり、同省が、安倍など、消費税増税に消極的、否定的な議員達に、内心では批判的であること)が背景にあったとしても、公共の場で、証拠も示さず、問題となっていること以外について官僚を批判することは、政治家に対してそれをするよりも、慎重でなければならない。自民党の多くの議員も、不必要に官僚の反発を招くことは望んでいないはずで、和田の追及は、民主党のそれに近いものであった。

杉田の問題発言はいくつもある(問題ないと言う人もいるが)。それらが注目されるようになったきっかけが、『新潮45』への寄稿であった。これも全文を読めば、本旨自体はめちゃくちゃなものではない。一つの考え方だと言える。しかし、長谷川の発言ほどではないかも知れないが、少なくない人々を、傷つける表現がある。和田もそうだが、優位政党の議員がするだけで、それが大物でなくても、威圧的な性格を帯びるということが、分からないのだろうかと思う。片山虎之助や、東日本大震災について、「まだ東北で、あっちの方だったから良かった」とした今村雅弘(当時復興大臣)は、まさかあのような地震が起こって良かったと、本当に思っているわけではないだろうが、杉田と和田の発言は、自らの考えを、ストレートに表現したものであると言える。自分が正しいと信じ、自分に酔えばこそ、できる表現だ。物議を醸すような提言が必要なときもあるだろう。しかし、それによって心を痛めるかもしれない人について思いを巡らすくらいの優しさ、余裕がない人間に、国民政党の議員である資格はない。たとえ今はそうではなくても、誰だって明日には少数派、弱者になるかもしれない。

自民党の例を挙げているが、この2人の議員は共に、次世代の党に属していた。国家のために国民があるという考えが、時に透けて見えるような右翼的な政党が、右傾化した自民党に、同党(安倍総理)が好む人材を供給した(ここでは述べないが、安倍総理を強く支持する自民党議員の、問題発言は少なくない)。このように外部から自民党に入り、選挙区に強い地盤がない議員は、自民党執行部(安倍総裁)にアピールする必要もあるのだと考えられる。優位政党が変質している。

もちろん、トカゲのしっぽ切に遭う官僚や、差別を受けやすい立場の人々を守ろうと、野党が張り切ることに対して、安倍自民党に傷をつけたいだけだと、少なくない人々に、冷めた目で見られていることも知っている。ただし、そのような下心が仮にあっても、それが政治を動かし、また差別を減らすのなら、しかたがない面もあると思う(それでさらに傷つく人が現れることは、避けなければならないが)。

もちろん、旧来からの自民党議員にも、民進党系の議員にも失言は多々ある。ここでは最近話題になったものを挙げたに過ぎない。英雄気取りということでいえば、右の星、安倍総理がそもそもそうである。特定機密保護法について、チェック機能が、チェックされる側の内閣に設けられることに関して、自分がやるから問題ないという立場をとっていた。いくら行政の長でも、それは今だけのことであって(それとも永遠に総理大臣であるつもりなのか)、安倍総理が人間を超越した客観性を持っていたとしても問題だし、そうでなければ論外だ。「行政の長」で思い出すのは、自らを「立法府の長」と、何度も答弁していることだ。勘違いは誰にでもあるわけだが、同じ間違いを繰り返していることから、三権の差異と分立、つまり民主制の核の一つよりも、自身が「長」であることの方が、安倍総理にとってずっと大事であることが伝わってくる。「ヒーロー」だから、自らにはむかって来る国民は敵である。「こんな人達には負けるわけにはいかない」わけである。野党も敵役だから、弱っている時に、今だ!衆議院解散だ!と、必殺技を放つのである。自らの政権が長く続くために、早期に解散をするのである。内閣総理大臣だから、政治の主役という面はある。激務だから、そのような気持ちでいることが心の支えになる総理大臣もいるものなのかもしれない。しかし、本当の主役が国民であることも忘れないで欲しい。もちろん日本国民も、忘れさせてはいけない。

さて、ここからは、これまでとは違う視点から、民進党の代表であった蓮舫に関する例を挙げる。

民進党代表になった蓮舫を批判するために、与党時代の「2番じゃだめなんでしょうか?」という発言を引き合いに出す人が多くいた。これは2番でも良いと言っているのではなく、1番になることのメリット、1番になるための費用に見合う効果があるのかを問い質したものであった。聞いていれば分かるはずだ。失敗であったと言える事業仕分けを批判するために、蓮舫の発言を持ち出すのならば、まだ分かる。そうでないケースにおいても、笑いにするのもありだとは思う。しかし不思議なのは、こんな誰でもが考えつき、実際に多く言われていることを、発言の背景すら無視して、意気揚々と何度も言う人は恥ずかしくないのだろうか、ということである。堅苦しくない論争をするにも、最低限のセンスが必要だ。「小池にはまってさあ大変」というしゃれも、初めて聞いた時には笑ったが、その後、何人もの人から何度も何度も聞かされ、また目にするとは、思いもしなかった。

ブーメランという言葉の使われ方にも、時に、これらと似たものを感じる。ブーメランとは、何でも反対の野党が政権を獲得したことで目立つようになった現象、自民党も民主党→民進党も変わらないという問題が浮き彫りになった現象である。笑っていないで、自民党と同じにならずにすむように第2党を持っていくこと、あるいは第2党を取り替えることに、真剣に取り組むべきだ。ブーメラン、ブーメランとしつこく言っている人は、「さむい」だけでなく、政治と無関係ではない自分自身にも、そのブーメランが直撃しているということに気が付いて欲しい。ユーモアのセンスが失われるのは、真剣になっている時だけではない。むしろこのようなパターンの方が、危険なのかも知れない。

民主制の政治は特に、国民の鏡である。例えば東日本大震災の特番の放送時間が減ったとして、視聴率優先の民放が批判されることがあるが、それを見ない国民が多い、その結果だということも、良し悪しは別として認識しなければならない。国民も謙虚でいなければならない。右派も左派も、極端な右翼や左翼も、中道も、関心、意見がないために中立である人々も、みんな日本人だ。自分が気に入らない意見を持つ人々の存在も、認めるべきだ。どうしてもいやだというのなら(もちろんそうでなくても)、意見の異なる人々を説得するしかない。それは「敵」を軽蔑しているだけでは、とてもできることではない。

 

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