3-16. 民党間の「連結器」が果たした役割3.補論

3-16. 民党間の「連結器」が果たした役割

薩長閥政府への接近に反発して自由党の系譜を脱した議員達が果たした、民党間の「連結器」としての役割について考えてみたい。

まずは、彼らが連携相手と合流して結成した党派について確認する。①の同志倶楽部は同盟倶楽部と合流、立憲革新党を結成した。②の東北同盟会は鹿児島政友会、新自由党と統一会派、同志倶楽部を結成した。③の同志研究会には、結成3日後に加藤高明が加わった。これは議員1名の合流に過ぎないが、後に第2党を率いた加藤高明の存在には注目すべきである。

便宜上、合流前の党派を新民党と、合流後の党派については拡大新民党と呼ぶことにしてみる。同志研究会については便宜上、加藤の参加後を拡大新民党とする。加藤は同志研究会の本流を汲む諸会派には参加していない。しかし、それは総選挙に当選(出馬)しなくなった後のことであり、明確に離脱したわけではない。この点、そして同派の後継会派に、やはり重要人物だといえる河野広中が参加している点、同派の系譜と花井卓蔵、そして有志会の約半数の合流が実現している点を考慮に入れ、加藤の不参加を以て「拡大」新民党ではなくなったとする必要はないと考える。

拡大新民党は、前身の、少なくとも1つの会派の姿勢を引き継いで、2大民党の連携の維持、または深化を策した。①の場合は、立憲改進党と同様の立場から政府を批判する決議案の可決を目指して、決議案の内容を解散の不当性に留めようとする自由党と交渉した(佐藤要一『第六議會に對する立憲革新黨の報告』8頁)。自由党と対外硬派、双方の主張の間を採るような文言を用いることで決議案は成立に至ったものの、2大民党の間の溝は埋まらなかった。②の場合は、2大民党等の合流、つまり憲政党の結成を達成、自らもこれに加わった(註1)ものの、同党はわずか4ヶ月ほどで分裂した。③の場合は、民党の本流を汲む2大政党の連携を達成したものの、立憲政友会が第1次桂内閣に寄ったため、やはり短期間で解消に至った。提携が1903年11月、提携の事実上の破綻が、遅くとも1906年1月(憲政本党からの人材の起用のない第1次西園寺政友会内閣の成立)であるから、2年2ヶ月程である(その後は憲政本党において、提携の失敗を批判する改革派と、提携を志向する非改革派の対立が起こり、主導権が双方の間を移動する)。2大民党の連携は結局、全て自由党系の薩長閥政府への接近により、失敗、挫折に至っている。

その後、①の立憲革新党は進歩党の結成に参加した。憲政党内の、②の旧同志倶楽部系の東北同盟会出身者と鹿児島政友会出身者は、改進党系と共に、憲政本党を結成した(ただし後者は間もなく離党し、立憲政友会の結成に参加)。③の同志研究会の系譜は、改進党系と、野党として共闘することが多かった(『キーワードで考える日本政党史』第8章以降参照)。つまり基本的には全て、2大民党の連携を破った自由党系と対峙したのである。

改進党系(憲政本党)の動揺と内部分化、野党路線の不徹底(『キーワードで考える日本政党史』第9、10章で見る)のため、同党と合流する有効な機会を得ることもなかった同志研究会の系譜は衣替えをしながら第3極に留まり、1910年3月に、無名会を含めると約半数の議員が、改進党系の憲政本党と合流し、立憲国民党を結成した(⑭註20参照)。そして、これに参加せず、立憲政友会にも移らなかった17名が、又新会の残部となった。同派は1910年12月に解散するものの、同志会(立憲同志会ではない)、亦楽会、亦政会、中正会へと、時に再編を伴う衣替えを繰り返し、憲政会の結成に参加する議員達と公同会を結成する議員達に分かれた(当然ながら又新会以来の議員達の割合は低下していった)。ともかく、同志研究会の系譜は基本的には反政友会の立場を採り、多くが自由党系と対抗すべき「第2党」の結成に加わっていったのである(憲政会は結成時、衆議院の第1党であった。しかし、長期的に見れば非優位政党であったといって問題はないと考えている)。

拡大新民党を形成した勢力の多くは、対外強硬派であり、税負担の軽減を志向していた。同盟倶楽部と同志倶楽部は対外硬派の戦列に加わったし、鹿児島政友会、東北同盟会、新自由党は同志倶楽部を組み、第12回帝国議会において、対外硬派の立場から、政府の外交を非難する上奏案を提出した(否決)。同志研究会の系譜においても、対外強硬派の小川平吉が中心的な人物の一人であった。外交官であった加藤高明はもちろん対外強硬派ではなく、日露開戦にも決して積極的であったわけではない。しかし日露協商に批判的であり(伊藤之雄『立憲国家の確立と伊藤博文』232頁)、親英派であったことから、日露戦争前には対露強硬派と親和性があった(第1次西園寺内閣の外相に加藤をつける際にも、伊藤博文と井上馨が危惧している―原奎一郎編『原敬日記』第2巻続篇302頁。1905年12月24日付―)。また第2次大隈内閣期に外務大臣を務めた際には、欧米諸国、元老が懸念する中、中華民国に二一箇条の要求を突き付けた。

同盟倶楽部、同志倶楽部は、地租軽減を唱える立憲改進党と連携していた。鹿児島政友会は薩摩閥に近かったが、東北同盟会等と同志倶楽部を結成した後、地租増徴に反対する投票行動を採り(『キーワードで考える日本政党史』第5章⑦参照)、地租増徴に反対していた自由党と進歩党の合流による、憲政党の結成に参加した。同志研究会は地租増徴の継続を認めない議員達によって結成され、その流れを汲む又新会が、塩専売、織物、通行の三税廃止を主張した。同志研究会に参加した加藤高明は、第1次桂内閣の地租増徴継続に反対し(1902年12月4日付読売新聞)、後に党首となった立憲同志会系において、消極財政路線を採った。

拡大新民党とは、民党本来の立場と政策の維持を志向する、あるいは党内対立などを経て、そこに立ち返った自由党系の離党者と、少なくとも薩長閥政府に否定的になった第3極の一部の勢力の進路が一致して誕生したものであった。そして自派の影響力の維持、拡大のためでもあるのは当然だが、民党の流れを汲む2大政党を結び付けて、薩長閥に対抗しようとした勢力でもあった。彼らの政策が民党らしいものとなるのは、必然であったといえる。

拡大新民党は、いずれも、少なく見ても半数が、改進党系と合流した(註2)。このことにより、改進党には定期的に民党的な議員が補充され、それは、同党が民党的な性質を維持するのを助けた(繰り返しとなるが、第5回総選挙後の同志倶楽部の、鹿児島政友会系と新自由党系は例外である)。

政党内閣の主張を進歩的なものとして左、政党内閣の否定を保守的なものとして右と見ることができる。衆議院においては、政党内閣を否定する議員達は少数派であったといえるから、自らが中心となる政党内閣を目指しながらも、非政党内閣を否定せずに薩長閥に協力しようとする勢力は、やや右であったと考える。

立憲政友会、憲政本党改革派(『キーワードで考える日本政党史』第10,11章で見る)が薩長閥に接近するか、接近を試みる中、同志研究会の系譜は基本的には責任内閣を主張し、薩長閥と妥協しようとしなかった。左の極を担ったのである。吏党系は、政党が閣内に入ることに否定的であった山県系に近かったことから、本音はそうではない場合、あるいはそうでない議員もあったといえるものの、立場上は、衆議院における各党派の右に位置していたといえ、衆議院は4極構造となった。そして左右の極と憲政本党の一部は、対外強硬姿勢で一致していた(4極構造の具体的な展開については、『キーワードで考える日本政党史』第9章以降で見る)。

そうはいったものの、本当に4極構造になったといえるのか。いえるとしても、その起点はどこにあるのか、疑問は残る。