3-19. 実業派の誕生3.補論

3-19. 実業派の誕生

第2回総選挙後、吏党系の分裂によって誕生した実業団体は、()付きで中立実業派に分類している。吏党系の分派という面を持っており、吏党系と何が変わったのかが定かでない以上、中立と断言して良いのか、難しいところである。しかしどうであれ実業団体は、初めての「実業」の名を冠した会派であり、実際に実業家が中心となった初めての会派であった。そして中立実業派に分類した、第3回総選挙後の中立倶楽部ともつながりがある。そのような実業団体の誕生を中心に、中央交渉部の分裂について考えてみたい。

中央交渉部参加・国民協会参加の議員達と、中央交渉部参加・国民協会不参加の議員達を比較すると、後者には実業団体を結成した議員達もおり、井角組参加者を別として、実業家が比較的多い。当時の実業家の衆議院議員には外資に期待する声が多く、これを脅威と捉えて内地雑居に反対する人々は少数派であったようだ。藤村道生氏は次のように指摘している(「初期議会のいわゆる対外硬派について―条約改正史の研究(その二)―」3頁)。

財界人が条約励行論をどう見ていたかについては、適確な資料はまだみつかっていない。ただ、当時唯一の経済雑誌である『東京経済雑誌』が「条約励行論は価値ある議論にあらず」として、きわめて消極的な態度をとっている事実や、国権派の中心的機関紙、『日本』が「実業議員というもの多くが励行論に反対するものの代表と見て可ならん。」と指摘していることをあげうるにすぎない。だが、それらは、かなりの程度に当時の財界人の条約励行論にたいする感情をつたえているように思われる。『日本』の指摘している実業議員の条約励行運動反対の理由は、現在、百万以上の事業を起こそうとすれば、外資を導入する以外に方法がない。また、それ以下の小事業の場合も、外国人と連合して企業を設立すれば、国内の高利の資本を用いるより幾層の利益をあげることができる。励行論はこういった外資の導入にはなはだしい妨害を与えるものである、というにあった。『日本』の伝えているところによれば、ある実業家は以上のように述べたうえで、要するに「条約励行論者は企業家の困難を知らざるものなり」と、強く条約励行論に反対したという。総ブルジョアジーの立場という大局観は別にして、個別資本の立場からすれば、『日本』の伝えていること事実に遠くないと考えられる。

東京経済雑誌を起こした田口卯吉は内地雑居に賛成であったが、帝国財政革新会は消極財政の主張の方を優先し、野党連合の性格を持っていた対外硬派の戦列に加わった。

もちろん、内地雑居が実業にマイナスに作用するという懸念を抱いて、対外硬派に加わる人々もいた。例えば実業を営んでおり、国民協会の一部であったといえる、熊本国権党である(註1)。この差異こそが、実業家中心の会派を2つに裂いたものであった。

実業家層の多くはまた、地主層の意見を代弁することの多い民党とは、税制や選挙制度について、志向が異なっていた。地租の負担軽減、または負担増の回避を目指す民党よりも、薩長閥と近かったのである(選挙制度に関しては、市部の独立を志向していたのだが、彼らの支持を得ようとした自由党系の星亨などは、それを受け入れた)。

国民協会の結成は、吏党系の会派には属しても、政党には属そうとしない実業家の議員達を、吏党系の大会派から解放することとなった。そして中立派や国民協会が対外硬派を形成したことで、このような議員達は、対外硬派寄りと第2次伊藤内閣寄り(内地雑居容認派)に分かれる傾向を見せたのである(田口卯吉は上に述べた通り、内地雑居容認派でありながら対外硬派につくのだが、当時はまだ議席がなかった)。実業家中心の勢力だとは言い難い国民協会は、薩長閥と民党の妥協、つまり地租以外の増税について、実業家よりも受け入れやすい立場にあった。しかし実業家には、おそらく政治の安定を含めた自らの利益のために、薩長閥と民党の接近に与する勢力があったのに対し、国民協会は当初、この接近に反発したから、内地雑居尚早派ではない実業家中心の会派の伊藤系との親和性が高く、国民協会の志向は薩長閥の他の勢力に近かった。

国民協会は山県系の色を強めた。伊藤博文は長く首相を務めたから、時の権力に反対しないような実業家の議員の一部が、薩長閥の不統一が顕在化する中で、そのような性質をやや弱め、伊藤寄りの色を強めたという面もあるかも知れない。政党との提携に否定的であり、第2回総選挙における選挙干渉に、伊藤らのように否定的ではなかった薩長閥要人にとって、衆議院における基盤とするべき勢力は、まずは国民協会であった。伊藤系以外の薩長閥の勢力が政権を得れば、国民協会が軟化する可能性は十分にあったし、実際には内閣の交代を待たずに軟化したのである。一方、選挙干渉を批判し、国民協会の協力を得ることに消極的であった伊藤にとって、衆議院で基盤とするべき勢力は、彼と親和性の高い、実業家の議員達であった。

政党に属さない実業家の衆議院議員達が、政党への所属に否定的であった点は、政党の結成を度々策した伊藤とは異なる。しかし、伊藤にとっては、彼が選挙干渉を批判した時点で、国民協会との連携は矛盾をはらむものとなった。そのため、国民協会に代わる支持派として、中立の実業家は貴重な存在であった。伊藤が自由党と組むことを考えていたとしても、当初地租軽減を要求し、地租増徴に反対していた、あるいはなおも反対する議員を少なからず含む自由党を抑えるため、自由党分裂のリスクに備えるためには、他の、自らに考えの近い支持勢力が必要であった。

実業団体自体の誕生は、中立性の完全な消失への反対(この点は井角組も同様であると考えられ、必然的に非自由党・非改進党・非国民協会となる)、再編を機会に実業家中心の会派を形成しようとする志向、この2つによるものであったといえる。双方とも、伊藤との親和性を高くする志向であった。ただし、このことが顕在化したのは、第2次伊藤内閣の成立後、薩長閥政府を支える枠組みの変更が、伊藤系によって模索される中でのことである(『キーワードで考える日本政党史』第2~4章参照)。

一方で国民協会の参加者は、品川弥二郎を中心人物として選挙干渉の延長線上にまとまったことで、薩長閥の非伊藤系、具体的には山県系や薩摩閥と親和性が高い勢力として誕生した。そして政界縦断の動きに反発したことで、国民協会は「非伊藤系」から、やはり政界縦断に否定的な、「山県系」の勢力となっていった。同派の野党化は、第2次伊藤内閣が自由党と接近したことに否定的であったことも一因として、山県有朋が1893年3月に司法大臣を辞した(註2)後に顕在化している。国民協会は長州閥と薩摩閥の協力を志向していたが、第2次伊藤内閣のみならず、薩摩閥が姿勢を変えて、また山県系の反感を買いながらも進歩党と提携した、次の第2次松方内閣に対しても事実上の野党であった。

以上から、中央交渉部の分裂は、山県系と伊藤系への分裂とは言い難いものの、伊藤と山県、そのそれぞれと志向が近いか、親和性の高い議員への分裂という面を持っており、また吏党系が、伊藤系と山県系に再編される、その出発点であったといえる(残る親薩摩閥であった鹿児島県内選出議員達は、自由党系と伊藤系による立憲政友会の結成に参加した)。第2回総選挙後の実業団体の結成は、第3回総選挙で中立的な実業家が増えたことのように直接的ではないものの、やはり薩長閥の不統一を背景としていたのだ。

第3回総選挙後の中立3会派、そして第4回総選挙後の実業団体、大手倶楽部、帝国財政革新会に所属したことのある議員を見ると、総選挙前後の議員の入れ替わりが激しかった当時、それぞれ第3回総選挙、第4回総選挙で初めて当選している議員が多い。そうであっても、第3回総選挙が行われる以前に、衆議院の会派に属した経験のある議員達と、その所属政党、会派を見ると、彼らの多くが次の通り、吏党の出身であったことが分かる。2回目に登場する議員には、「(再)」と付した。国民協会離党者等に、第6回帝国議会における上奏案に対する賛否を付記した。佐藤の国民協会除名、粟屋の同党離党は、共に第3回総選挙後のことである。

 

第3回総選挙後

・中立倶楽部

佐藤昌蔵    中央交渉部、国民協会(除名、第6回帝国議会で全上奏案に反対)

竹村藤兵衛   中央交渉部(結成時のみ)

原善三郎    中央交渉部

・独立倶楽部

該当なし

・湖月派

該当なし

 

第4回総選挙後

・大手倶楽部

植田理太郎   独立倶楽部(第2回総選挙後)、溜池倶楽部、芝集会所、政務調査所

佐藤忠望    大成会、協同倶楽部

竹村藤兵衛(再)中央交渉部(結成時のみ)

豊田文三郎   立憲自由党、巴倶楽部

・帝国財政革新会

該当なし

・実業団体

粟谷品三    大成会、中央交渉部、国民協会(離党、第6回帝国議会で全上奏案に反対)

岡崎邦輔    独立倶楽部(第2回総選挙後)、紀州組

小坂善之助   実業団体

佐々木政乂   大成会、中央交渉部、国民協会(国民協会の所属でありながら、第6回帝国議会で全上奏案に反対)

原善三郎(再) 中央交渉部、実業団体

吉富簡一    協同倶楽部

※以下は実業団体の結成後の加盟者

佐藤里治    立憲自由党、協同倶楽部、東北同志会、中央交渉部、有楽組、同盟倶楽部

阿部浩     中央交渉部、国民協会(第3回総選挙では当選していない。国民協会の所属であった時も伊藤系と近かった―『キーワードで考える日本政党史』第3章補足参照―)

井上角五郎   立憲自由党、協同倶楽部、中央交渉部、井角組

小西甚之助   立憲自由党、自由倶楽部、自由党

 

中立倶楽部と第4回総選挙後の実業団体の衆議院議員経験者には、中央交渉部参加・国民協会不参加、中央交渉部参加・国民協会離党の議員が比較的多い。阿部浩も佐々木政乂も、佐藤昌蔵、粟屋品三より遅いが、国民協会離党者である。中立倶楽部の所属でありながら、対外硬派と同様の投票行動を採った竹村は別として、伊藤系はそのような議員達を味方にしていたのである(国民協会出身で、中立3会派に属していたか無所属であった議員5名のうち、対外硬派と同様の投票行動を採ったのは高橋守衛1名のみである―『キーワードで考える日本政党史』第3極実業派の動きキャスティングボート(①③⑤)の表補-C、D参照。原弘三は途中から対外硬派と同様の投票行動に変わった―)。

第3回総選挙後の中立倶楽部、第4回総選挙後の実業団体という2つの実業家中心の会派は、彼らの利害と、彼らの伊藤にとっての有用性が合わさって形成されたものであり、それゆえその系譜は、戦略上民党に妥協することもあり、また反対派の反発を招く伊藤の政界縦断型新党への歩み、あるいは岩崎弥之助にも連なる民党の陣営を完全に敵に回すリスクのある、伊藤の新党構想に関して、明確な行動を採ることのできない、曖昧な存在となったのだといえる(前者については『キーワードで考える日本政党史』第6章⑬、第3極野党に対する懐柔、切崩し(⑨⑩⑬⑱)、後者に関しては同第4章⑨、(準)与党の不振実業派の動き(⑨)参照)。すでに述べた通り、伊藤寄りの色を薄めた議員達もいた。

『キーワードで考える日本政党史』第3章第3極実業派の動き(①)で、第3回総選挙後に中立派において実業家の比重が増したとした際に、第2回総選挙後の実業団体を除外して、第2回総選挙後の独立倶楽部と、第3回総選挙後の中立3派を比較した。第2回総選挙後の実業団体には中立派という面もあったが、当時の中立派は、第1回総選挙後の独立倶楽部と、その分派の系譜が中心であり、これと、中央交渉部の中にあった実業団体を一まとめにしてしまうと、本質が見え難くなるからだ。独立倶楽部の系譜が自由党寄りと立憲改進党寄りに分解した後、実業団体が中立派のように振る舞ったことを確認することができる。この時、中立を担う勢力が、一般的中立から中立実業派に交代したと見ることができる。だから、この時中立派における実業家の比重が増したと言った方が正確だという面もある。しかしそれは、中立派が中央から去って、つまり明確に中立でなくなり、1つの小勢力が吏党の陣営から中立に移動したという、変化の一過程である。中立派の変化を明確にするには、変化が現れる前と、変化が1つの到達点に着いた後とを、比較するべきだと思う。だから、第3回総選挙を受けた会派の形成を後者としたのである。吏党の支流とも言える実業団体の議員達の一部を含めて、第3回総選挙で当選した新たな中立の議員達が、伊藤系や対外硬派の影響も受けながら会派を形成した時を、1つの到達点だと捉えたわけである。

第3回総選挙までは、中立の会派といえば、ここで一般的中立に分類している会派であった。しかしそれらは、地価修正の実現が現実味を失ったこと、薩長閥と民党の展望なき対立が改まっていったことで役割を失い、会派の系譜としては第1、2党(多くは第2党)の陣営に組み込まれた(個々の議員を見れば多くが無所属となるか、第1、2党の陣営に属しても、合流はしないまま衆議院議員でなくなった)。そこに第3回総選挙後、実業家中心の新たな中立派が3つ誕生したのである。それらには、一般的中立の会派の出身者はおらず、初当選の議員が多かった。だがどちらかといえば、実業団体系(中立実業派)など、中央交渉部に属しながら国民協会に参加しなかったか、あるいは同党を脱した、つまり吏党の本流を外れた議員達による勢力という性格があった。

実業家が中立派の中心となった背景には、独自の支持勢力を欲した第2次伊藤内閣(伊藤系、井上馨)の方針があった(『キーワードで考える日本政党史』第3章補足第3章第3極実業派の動き(①)参照)。同時に、その方針が部分的に成功するに留まったため、中立会派は3つとなり、うち2つには対外硬派に与する議員が多く、また増えたのであった。実業家中心の勢力の、第2次伊藤内閣寄りの中立と対外硬派への分化は、第4回総選挙後に、より明確になった。後者は、かつての一般的中立の対外硬派の一部をも包摂するものとなった。

また第4回総選挙では、それぞれの陣営に埋没していた実業家中心の会派とは趣が異なる、田口卯吉らの帝国財政革新会が、衆議院への進出を果たした。総選挙後の増税は第2次伊藤内閣と自由党の接近の下で進められ、実業家層全体の利害は軽視された(第4回総選挙後については『キーワードで考える日本政党史』第4章⑯、実業派の動き(④⑯)等参照)。