3-20. 増えていった会派3.補論

3-20. 増えていった会派

1890年代、薩長閥内において政権の中枢を担う勢力が交代する度に、あるいは交代する流れとなる度に、吏党の系譜は分裂を繰り返し、中立実業派は再編された。ただし第3次伊藤内閣成立後について見れば、国民協会の分裂はなかった。中立実業派の山下倶楽部も、第3次伊藤内閣の成立そのものというよりも、その当時の状況全体の影響を受けて成立したものであったといえる(『キーワードで考える日本政党史』第4、5章参照)。また、山下倶楽部の結成前までは会派の数が多かったが、同倶楽部が結成された時には、かなり少なくなっている。分裂から結集へと、再編の性質が変化した印象すら受ける。

このことについて確認するため、1902年8月10日に行われた第7回総選挙の前までの衆議院における会派の数を見ておきたい。次の通りである。中立会派の数と合計の議席数を付記した(中立会派とは、ここで一般的中立、中立実業派に分類しているものである)。『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部を基にし、これにはない団体は、ここでは会派に数えなかった。第2回総選挙後の実業団体、井角組は、同著の記述の通り、第4回帝国議会までは中央交渉部に含めた。また、大手倶楽部が中立実業派であったとはいえないが、実業家中心の会派であったことを重視して、これを仮に中立実業派に加えた場合を、参考までに()内に記した。

 

第1回総選挙後

第1回帝国議会開院式当日 3 中立会派0

第1回帝国議会会期終了日 5 一般的中立1会派 33

第2回帝国議会開院式当日 7 一般的中立3会派計58

第2回帝国議会、解散当日 7 一般的中立3会派計58

 

第2回総選挙後

第3回帝国議会開院式当日 5 一般的中立2会派計34

第3回帝国議会会期終了日 6 一般的中立3会派計42

第4回帝国議会会院式当日 8 一般的中立3会派計32

第5回帝国議会会期終了日 8 一般的中立3会派計27

第5回帝国議会開院式当日 9 一般的中立3会派計29
中立実業派1会派  7
計    36

第5回帝国議会、解散当日 9 一般的中立3会派計29
中立実業派1会派  7
計    36

 

第3回総選挙後

第6回帝国議会開院式当日 8 中立実業派3会派計29

第6回帝国議会、解散当日 8 中立実業派3会派計29

 

第4回総選挙後

第7回帝国議会開院式当日 6 中立会派0

第7回帝国議会会期終了日 7 中立会派0(大手倶楽部は25)

第8回帝国議会開院式当日 7 中立会派0(大手倶楽部は25)

第8回帝国議会会期終了日 8 中立実業派1会派 17
(大手倶楽部と合わせて42)

第9回帝国議会開院式当日 8 中立実業派1会派 28
(同様に、52)

第9回帝国議会会期終了日 5 中立実業派1会派 24

第10回帝国議会開院式当日4 中立会派0

第10回帝国議会会期終了日8 中立実業派2会派計30

第11回帝国議会開院式当日8 中立実業派1会派 22

第11回帝国議会、解散当日8 中立実業派1会派 22

 

第5回総選挙後

第12回帝国議会開院式当日5 中立実業派1会派 54

第12回帝国議会、解散当日5 中立実業派1会派 48

 

第6回総選挙後

第13回帝国議会開院式当日4 中立実業派1会派 10

第13回帝国議会会期終了日4 中立実業派1会派 11

第14回帝国議会開院式当日5 中立実業派1会派  8
一般的中立1会派 12
計    20

第14回帝国議会会期終了日5 中立実業派1会派 10
一般的中立1会派 11
計    21

第15回帝国議会開院式当日5 中立実業派1会派  4
一般的中立1会派  7
計    11

第15回帝国議会会期終了日6 中立実業派1会派  4
一般的中立1会派  7
計    11

第16回帝国議会開院式当日4 中立会派0

第16回帝国議会会期終了日5 中立実業派1会派 21

 

衆議院における会派の数の水準が大幅に上がったのは、第2回総選挙後だけである。しかしその後、第2党以下の多くの勢力が合流した再編(進歩党の結成)を、会派の数を見た場合には無効とするだけの分裂が起こっている。その分裂によって誕生した会派には、10議席に届かないような小規模なものもあった。しかし単独で過半数を握る政党、会派がなかった時代において、それらも、簡単に無視し得る勢力ではなかった。分裂はもちろん、民党の系譜にも見られる。しかし一部の議員が離党し、その穴埋めが総選挙や入復党によって大方なされるというレベルのものであった。当然母体は存続した(憲政本党からの三四倶楽部の分裂だけは、そう評価し得るまでの議席率の回復が果たされなかった)。

もう少し具体的に見ていこう(詳しいことは『キーワードで考える日本政党史』参照)。第1回総選挙後、会派の数が3から5に増えているのは、自由党から国民自由党、自由倶楽部、つまり少なくとも一時的に薩長閥に寄る勢力が分裂したからである。5から7に増えているのは吏党(大成会)が残留派、中立派(独立倶楽部)、民党寄り(巴倶楽部)に分裂したからである。前者は自由党系に変化をもたらし、後者は第3極を本格的に誕生させるものであった。第2回総選挙後は会派の数がどんどん増えている。これは、中立派(独立倶楽部)と吏党系(中央交渉部)の分裂による。吏党系の分裂は薩長閥の不統一と関わりがあり、中立派の分裂は政界縦断の漸進と関わりが深いものであった。

第3回総選挙後は、紀州組、井角組が消滅しており、同盟倶楽部と同志倶楽部が合流したが、中立派が政界縦断支持・容認派と、政界縦断不支持・対外硬派に裂かれたことにより、会派の数は1つ減るに留まった。第4回総選挙後には会派の数が減り、また増えた。これは単に、実業家中心の2つの会派の結成が、第7回帝国議会の開会後であったからだ。2つの会派が出来たのは、やはり、衆議院の各勢力が政界縦断支持・容認派と、政界縦断反対派・対外硬派に分かれていたからである。国民協会を除く対外硬派が合流して進歩党を結成したことで会派の数は減ったが、薩摩閥の切り崩しを直接的、または間接的に受けた多くの政党、会派が分裂したため、再び増えた。野党的な勢力がまとまる中、2大民党以外の会派の数が減らなかったことには、統一のとれていなかった薩長閥の、一部の動きが影響したといえる。

第5回総選挙後には会派の数が減り、第6回総選挙後にも、それはおおむね維持された。政界縦断を巡って薩長閥内が一致したわけでもなく、伊藤系、山県系、薩摩閥が一体化したわけでもないのに、である。これについては検証する必要があるが、会派の数が減ったのは、第3極において野党的な議員達と中立派が、それぞれまとまったことによるところが大きい。しかし前者は親薩摩閥(鹿児島政友会)と、新民党(東北同盟会)の連合であり、第6回総選挙後には憲政党の分裂によって、自由党系と改進党系に分かれた。山下倶楽部も様々な立場の議員が集まったものであり、間もなく道を違えている。一時的にまとまっていたに過ぎないのだ。

もっとも、中立派に様々な立場の議員が集まることは、そう不思議なことではない。第6回総選挙後に会派の数がほとんど増えていないのは、第3極の勢力が分裂しなかったからではなく、政界縦断への参加者と不参加者に割れたからだ。前者が既成政党と合流したことなどによって会派の数はほとんど増えなかったものの、第3極が割れていく現象が止まったわけではないのである。

2大民党がまとまりを維持し、中でも改進党系は拡大する中、吏党の系譜は第3回総選挙で減らした議席を、分裂によってさらに減らした。また中立派は、なかなか1つの塊となることはなく、第7回総選挙前には2つの中立派(日吉倶楽部と議員同志倶楽部)の残部が合流したものの、同選挙後も、壬寅会と同志倶楽部が結成され、中立派は複数存在した。またそれだけではなく、実業家も含めて、本来中立会派を形成するような議員達が、完全にばらばらではない状態で、無所属にとどまった。

さて、政界縦断支持・容認派と政界縦断不支持・対外硬派への分化は、国民協会の対外硬派からの離脱と他の対外硬派の進歩党結成によって、転機を迎えていた。国民協会は志向が後者でありながら、その後の分裂が示す通り、内部にそうでない議員を含んでおり、また、薩長閥全体を敵に回すことのできない宿命を背負っていた。結果として双方の間に位置するような状況となったが、分化した状態に変化が起こったことは確かだ。次の再編は、進歩党結成による玉突きのようなもの、そして内閣の交代によるものであったことは、『キーワードで考える日本政党史』第4章で見た通りである。では、その新たな再編は何を軸とする、どのようなものであったのだろうか。そして第5回総選挙後にはなぜ、会派の数が減ったのだろうか。