3-22. 薩長閥政府の多数派形成の行き詰まり3.補論

3-22. 薩長閥政府の多数派形成の行き詰まり

吏党系の分解と、それによって生じた勢力や吏党系の系列化は、その原因である薩長閥政府自体にも、大きな影響を与えた。衆議院における多数派形成の行き詰まりである。薩長閥は、自らの首を絞めていたのである。

第1次松方内閣期まで、衆議院の勢力分野は、薩長閥政府寄りの会派と自由党系を合わせれば過半数を上回るものであった(大成会分裂後は、大成会、自由倶楽部、自由党を合わせれば過半数)。実際に、第1次山県内閣は自由党の一部を切り崩しただけで、大きな譲歩をしたとはいえ、予算案の衆議院通過を実現させた。分裂した中央交渉部の、一部のみを不明確な味方として出発した第2次伊藤内閣(『キーワードで考える日本政党史』第2章第3極実業派の動き(⑤⑥⑧⑨⑩)等参照-伊藤と吏党系の関係については(準)与党の不振(④⑥⑨⑩)等参照-)は、第4回総選挙後に国民協会の協力を得るまで、衆議院に過半数の基盤を形成することができなかった。第4回総選挙後も、自由党と実業団体と無所属の全員を合わせても、過半数には届かない状況であった。伊藤が自由党のみならず、進歩党とも提携しようとした直接的な要因が何であろうと、安定した過半数の支持基盤を衆議院に得るために、それが避け難い道であったことは間違いない(註1)。

確かに、国民協会を明確な味方とすれば、進歩党と提携せずとも過半数を得られた。しかし伊藤系は、国民協会の反対もあって対外硬派の上奏案が否決された後でも、同党との協力に否定的であったようだ。国民協会の反対によって、対外硬派の上奏案が否決されてから2日後の、1896年1月11日付の伊藤宛伊東書簡(『伊藤博文関係文書』二341頁)に「尚々、国民協会に頼らすして他日多数を占むるの方策目下内々相試居候。成否は他日に相譲申候」とあることから、そう考えられる。進歩党との提携について自由党の了解を得られなかったことが、第2次伊藤内閣が倒れた要因であったから、同内閣は、多数派形成の失敗によって倒れたのだということになる。国民協会を頼らない姿勢が薩長閥の不統一に起因していることは、改めて言うまでもない。問責決議案について、内閣は国民協会を抑えることに成功した『キーワードで考える日本政党史』第4章④参照)。しかしこれは山県系の力を借りた上でのことであり、伊藤系が同党に信頼を寄せるということにはならない。

第3極の系列化は、政党・衆議院対策について不統一に陥ることでその原因をつくった藩閥政府の、衆議院における過半数の基盤の確保を困難にしたと考えられるのだ。

このことを裏付ける、第2次松方内閣期の史料が2つある。双方の一部を引用する。まずは1897年10月29日付品川弥二郎宛安達謙蔵書簡(『品川弥二郎関係文書』二227~229頁)である。合同会は公同会の誤りである。

両回の御高書翰辱く拝誦奉恐謝候。却説増税問題に付内閣の波瀾は破綻の端と相成可由乎と欣躍仕居申候処、第二の御高書(今夕着)によれば隈伯も野に落る丈の勇気無く伴食退治、大石入閣位の事にて落着するならむとの風評ありと。是には大に失望仕候。併し大勢は最早定まりて早晩大動揺の機到来するは瞭然たる事に有之申候間、徐ろに将来の企画最も今日に必要かと相考申候。然るに大浦知事も過日来樺・高・隈間の衝突を好機とし頻りに排隈の手段を廻らし、此際を以て薩長再聯合(小生は薩・長・熊の三角同盟と云んとす)との好機となし居り申候処、今日の御紙面によれば此の時機も末た少敷早きが如し。

~略~

国民協会を中堅として自由党と合同会とを左右に提け得る内閣を組織したき理想有之申候。中央新聞の薩派攻撃は殆んど極点に達し居るが如し。斯る尖鋭の筆鋒は私共理想の再聯合に幾分障碍と相成るには非さるかと気遣居申候。

次は1897年12月30日付伊藤宛大岡育造書簡(『伊藤博文関係文書』三211~212頁)だ。

~略~小生は義は已に先年広島議会の際乍不及挙国一致の経験もあり之、当時自由党は解散後新選の吏党にして能く閣下の御指揮の儘に相成候へ共、其数に於て足らさる所有之、国民協会は小と雖今の進歩党当時の六派連合中に在り正に閣下の政府に反対し来り候故、世人は大に疑惑を抱き居り候へ共、敢て他各派の群議を排し進て自由党との交渉を開き遂に挙国一致の実を見るに至り、閣下をして苟も内顧の念なからしめたるもの固より臣民愛国の至情に出つと雖、我協会の微力も亦た閣下の眼外に置かれさる所、品川子の如き其平生の感情を忘れ竊かに宇品に在て尽力不少事は御記臆にも存し候歟と奉存候。

私かに承り候へは今度の新内閣には大隈、板垣の両伯も加へられ候由、閣下の宏量以て一時の人心を融和するに足るものあらん。乍併此二党を合するは大に過きて却て操縦に便ならさるもの可有之、而して偶々分つて其一を指揮せんか二者何れも其数足らす、若しそれ協会の如き小と雖、之を度外に置かは二党中のの不平者と相携ふる事なきを保せす、而して初より一視同仁の宏量を以て之を好遇せは、赤誠閣下の為めに犬馬の労を執るものは必らす永く長人の養成を受けたる此団体に御坐候。

即ち三党を同視して常に自由党と協会とを親和せしめ之を以て腹心となし進歩党は之を客遇せば、三党多しと雖も之を御する事甚た容易に可有之奉存候。小生は固より一身の利害を顧みす。故に深く協会の為めにも立言せす真に国家の為めに進言するのみに御坐候。品川子の如き其健康永く大臣の重任に堪へさるべく白根男回復せは之に代るも亦た可ならん。要は唯た円満に挙国一致の実を挙け外列強の交渉を自在ならしめんと願ふの外毛頭他意無御坐候

この2つの書簡の狭間には進歩党の政権離脱、第2次松方内閣総辞職の決定があるとはいえ、どちらも異なる組み合わせの3勢力を、政府の支持基盤として考えている点が興味深い。1年ほど後、第1次大隈内閣が崩壊した当時のものだが、1898年10月30日付の品川弥二郎宛の大岡の書簡も、自由党、薩派(当時は≒鹿児島県内選出議員)、国民協会を与党とすることを唱えている(『品川弥二郎関係文書』二209頁)。

安達、大岡が属していた国民協会は当然挙げられるとして、自由党(註2)の他に、もう1つの勢力が必要だと考えられていたのだ。前者で挙げられている公同会は、それ自体が、第2次松方内閣の支持基盤の安定化のために形成されたものであった。同内閣期、内閣を支持した実業同志倶楽部が結成された後でさえ、同倶楽部と、同じく内閣を支持した進歩党、議員倶楽部、国民倶楽部とを合わせても、過半数に約5議席届かない状況であった。無所属議員は約25名いたが、自由党と国民協会が野党として協力する中、どの程度当てにできるかは不透明であった。薩摩閥は、議員倶楽部、そして国民協会を切り崩して結成させた国民倶楽部、さらに自由党離党者が新たに結成した新自由党を合わせて、公同会を結成させた。このような再編が行われたこと自体に、薩長閥政府が、衆議院で過半数の支持基盤を形成することに苦労していたことが表れている。

史料に実業同志倶楽部が挙げられていない理由は確かめられなかった。書簡の差出人が、当てにすべき確固たる集団ではないと見たためか、同倶楽部内の内閣を支持する議員の数が自明であったからこそ、取り上げなかったからだと考えられる。

1897年11月17日付の伊藤宛の伊東巳代治の次の部分(『伊藤博文関係文書』二374~375頁)からも、衆議院の多数派形成が、薩長閥の勢力にとって苦労させられるものであったことが伝わってくる。当時は第2次松方内閣の末期といえる時期で、もちろん伊藤系と、樺山らの薩摩閥との間には思惑の相違があり、薩摩閥の内部にもまた、それがあった(佐々木隆「第二次松方内閣の瓦解(上)」、同(下)が詳しい)。

一昨夜松田、樺山の面話の模様は未た承知不致候得共、昨朝三田の松方邸に西郷、松方、憺なるへしと相考候。自由党中硬軟両派の分る所近日の内に有之、党内腐敗分子を掃除する一大機会と存候。進歩党中亦多少の軟骨を出し候は勢免れ難き哉に被存候へとも、是は意外に少数なるへし。公同会中却て非盲従の徒多からんとの風評に付、政府党は殆んど百に満たさらんとは今分尤も確かなる数と被存候。自由党の形態前叙の次第に付、近日大隈伯を一訪致し度とは存候へとも少しく差控へ居儀に御座候。進歩、自由双方の多少識別あるものは年来の行懸りを忘れ期せすして同一態度を取らん様子に聞及候。国民協会は熊本人の魂胆中々烈しければ愈と申場合迄には多少の変体を来すへき歟とも被存候へとも、中央派即大岡等一派は絶対的反対と申事に御座候。

各勢力に敵と味方、敵になり得る議員、味方になり得る議員がおり、気を配らなければならない状況であったことが分かる。

なお、第2次松方内閣は、自由党離党者による東北同盟会を味方にしようとし、進歩党の一部を、その政権離脱前から切崩そうとしていた。

1897年9月9日付の萬朝報は、「政府直参黨の某々等」が、財政整理と選挙法改正の二問題について同志の一団体をつくろうと、田口卯吉、鈴木重遠、河野広中らに説いており、進歩党の不平連である柴四朗、大竹貫一、金尾稜厳らにも交渉しているものの、各派の意見が区々で容易にまとまる見込みがなく、計画は一時見合わせになるらしいということを報じている。田口、鈴木は当時進歩党を離党しており、1897年12月21日に、他の進歩党離党者達と同志会を結成する(参照)。なお、『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部には田口の離党に関する記述がないが、報道から、第10回帝国議会開会前に離党していることが窺える(1896年12月21日付読売新聞)。河野は、薩長閥との連携に得るものが少ないとして自由党を離党し(註3)、東北同盟会を結成していた(⑭参照)。田口は陸軍縮小(註4)、政費節減を主張し、河野、鈴木は藩閥に対する妥協、歩み寄りに否定的な立場から、それぞれ母体を離れていたから、第2次松方内閣と組むことは難しかった(註5)。しかし主張を持っているだけに、それについて折り合うことができれば、連携することはあり得たのかも知れない。河野ら東北同盟会は公同会に参加する見込みがあると報じられ(註6)、第5回総選挙後に実際に、親薩摩閥の鹿児島政友会と会派を共にする。同派が、薩摩閥の民党への歩み寄りには期待をしていた可能性はある。1897年10月31日付の萬朝報は、進歩党の不平派と目せられる島田が、頻りに樺山内相の屋敷に往来していると噂されているとし、さらに確かな筋から聞いたこととして、島田さえ買収すれば進歩党の分裂を促すことが容易だと目論んだ薩派が、樺山に交渉をさせていたが、結局島田は逓信大臣の椅子に就くことを条件として、薩派に降参することになったと報じている。我々は島田が進歩党を離党していないことを知っている。しかし上の9月9日付の同紙の記事、その他の報道(例えば1897年11月8日付読売新聞)からも、薩摩閥が進歩党にも切り崩しを仕掛けていたことは確かだろう。

薩摩閥が自由党、国民協会に加えて、進歩党の切り崩しをも策していたことは、彼らが多数派形成に窮していたことを示している。挙国一致を志向していたのであれば、それを大義に正面から各党に協力を求め直すはずである。単に進歩党を牽制することが主目的であったとするにも、リスクが高すぎる方法であったといわざるをえない。

進歩党は、行政整理等が不十分であるにもかかわらず、松方首相が地租を増徴しようとしたことを政権離脱の理由とした。しかし、第3次伊藤内閣が成立する際、進歩党は地租増徴の回避よりもポストの獲得を重視していたように見える。つまり、民党にとって当時最も重要であったのは、薩長閥政府の陣営についた場合の処遇であった。前田蓮山は、(結局は政党ではない公同会の結成に留まった)新党構想が進歩党の離反を招いたとしている(前田蓮山『政變物語』326~327頁、同『歴代内閣物語』上巻100頁)。衆議院における第2次松方内閣側の勢力では、進歩党の議席数が圧倒的に多かった。政府党が結成され、それが進歩党に引けを取らない勢力となれば、またそうなってもならなくても厚遇されれば、進歩党が、衆議院における内閣支持派の中心としての地位を失う可能性があった。そのようなことを考えれば、新党構想が進歩党にとって良いものであったはずが無い。だから前田の見方は、取材に基づくものであっただろうし、新党構想や地租増徴の有無は、複合的に進歩党の地位に影響を与える問題であったから、十分正しいと考えられる。そうであれば第2次松方内閣も、多数派形成の失敗が内閣の総辞職につながったケースだということになる。

第3次伊藤内閣は明確に自由、進歩両党と提携しようとした(板垣と大隈の双方を入閣させることで、そのような形をつくろうとした)。しかし両党共が内相のポストを求めたことで、超然内閣として出発せざるを得なかった。まさか内務大臣を2名とするわけにもいかないし、伊藤は総選挙が近付いていた当時、一方に内相のポストを渡すことはなかった(総選挙後には、蔵相に就いていた井上馨が板垣の入閣に反対し、断念)。2大民党が共に与党とはなり得ない以上、内閣はその一方に加え、少なくとも50名の支持を、無所属を含めた第3会派以下から得なければならなかった。第5回総選挙の結果は、国民協会22、鹿児島政友会7、公同会6、新自由党2、東北同盟会2、無所属69というものであり、この中で最低でも50名程度を集めるのというは、面倒だし、難しい作業であっただろう。特に公同会には、薩摩閥主導の政権が幕を下ろした後、第3次伊藤内閣に反感を持つ議員が少なくなかった(第5回総選挙で当選して同志倶楽部を結成した議員達は、第3次伊藤内閣の外交を非難する上奏案を進歩党に提出させた―『キーワードで考える日本政党史』第5章④参照―)。なお、この際山下倶楽部は、倶楽部内で討議したものの賛否同数となり、随意論を採った(1898年5月29日付東京朝日新聞)。

第3次伊藤内閣が、衆議院に過半数の基盤を形成できなかったことで総辞職するに至ったこともまた、確かである。多数派形成の行き詰まりは、藩閥政府に無理な多数派形成を模索させて、3度の内閣総辞職を招き、再び藩閥と2大民党の展望なき対立へと、政界を引き戻したのである(自由党との提携が最終的に実現せずに終わったのは、井上馨が板垣の入閣に反対したからだ。しかし自由党との提携が実現していたとしても、進歩党と、親薩摩閥の同志倶楽部を野党とし、それ以外の勢力も全会派の全員の支持までは期待できない中で、地租増徴という不人気な政策を重要課題とするのでは、無理な多数派形成に再度挑まざるを得なかった可能性が高い。自由党と国民協会を仮に完全に固めたとしても、山下倶楽部と無所属の計73名のうち、29名以上の支持を得る必要があった)。