3-24. 2つの政界再編構想による中立壊滅、第3極縮小3.補論

3-24. 2つの政界再編構想による中立壊滅、第3極縮小

実業家層には本来、その全てにとは言わないまでも、自らの利害を代表する政党が必要であった。議会制を採っていた他の国々を見れば、そのまま商工業党、農業党ではなくても、商工業を主な支持基盤とする政党と、農業を主な支持基盤とする政党が、分かれている、あるいは分かれているような段階を経ていることが多かった。ドイツ帝国のように、商工業の中でも、大規模なものを支持基盤とする政党と、小規模なものを支持基盤とする政党が、分立している例もあった。

1898年当時の日本の状況は、主に第2、3次産業を支持基盤とする政府党(として出発する政党)と、主に第1次産業を支持基盤とする民党による、2大政党制となり得る構図であったが、産業構造上、その2党が対等な規模となる可能性は低かった(吏党系も地主層の支持を得ていた)。ただし、政府党が、政権を握る薩長閥の威光を上手く利用し、党の性格を損なわない程度に、幅広い議員、支持者を集めて、民党に対抗し得る勢力となる可能性も、全くなかったとまでは言えない。

この政府党の結成に挑んだのが、時の首相、伊藤博文であった。2大民党の双方との決裂を見た伊藤は、それらに対抗する新党の結成に着手した。実業家(≒地租増徴を要求)、地価修正派(地租増徴回避よりも地価修正を重視)、国民協会(吏党系という立場から―も―、地租増徴を支持)などを糾合した、自らの第3次内閣を支持する新党結成の構想である。政権を運営する薩長閥にとって、好むと好まざるとにかかわらず、また譲歩を余儀なくされる可能性はあっても、予算案、法律案の成立に効果があったのが、政界縦断的な協力体制である。それを、最初に築いた伊藤系のトップが放棄したのである。その背景には、地租増徴について、民党と妥協することが困難であり、それ故、実現させるには、他の面で、それまで以上に民党に譲歩せざるを得なかったことがある。他の面とは、主に政党の政権参加(ポストの獲得)であると言える。これについて満足する結果を得られなかった2大民党は、衆議院解散に対する反発と、同時期の伊藤の新党構想にも刺激を受けて、互いへの対立感情を超え、合流へと動いたのである。

この伊藤の新党構想は、早期に頓挫した。改進党系と関係が深い岩崎弥之助日本銀行総裁が反対したことで、彼と関係が悪くなることを避けようとした実業家、新党の展望に疑問を持った(持っていた)実業家が伊藤新党への参加を見送り(註1)、他の勢力も不参加の姿勢を採ったからだ。

他の、参加を取りやめた勢力とは当然、国民協会と地価修正派である。実業家が躊躇するようになった頃、国民協会も新党への参加を取りやめた。山県有朋は、政府党の組織はやむを得なくても、政党内閣主義の外に立つべきだとし、党の首領は政府部外の人物であるべきで、そうでないのなら、領袖となる人物は下野をして、外から政府を支援すべきだという考えを示した。政府支持政党(国民協会のような準与党)の結成は認めても、政府党(与党)は認めなかったのである。伊藤は当時下野を表明していなかったから、国民協会は山県の姿勢に準じて、参加を取り止めたのだと考えられる。

地価修正派は元来、野党的な立場を採っている議員が多かったと見られ、そもそも新党に参加しようとしたことを確認することができない。彼らは、地価修正という具体的な政策の実現を目指しており、地価修正を唱える伊藤新党が、衆議院の過半数に届くものとして結成されるか、次の総選挙で衆議院の過半数に届くという見込みがあるというのでもない限り、参加するメリットは大きくなかった。むしろ中立派として、貴族院議員も含めた薩長閥側、民党側の双方から、多くの地価修正賛成者を得ることが得策であったといえる。

1898年6月21日付の読売新聞は、政府党の組織について、伊藤が同意し、国民協会を中堅として一時非常の運動を試みたものの、実業家は乗り気に至らず、地価修正派の多くが野党に入り、国民協会員の解党も見合わせとなったとしている。国民協会は民党の合流にも、当然ながら参加しなかった。山下倶楽部は、地価修正派等、民党の合流に参加する者達と、不参加の者達に分かれた。前者には農業関係者が比較的多く、後者には実業家が比較的多かった(『中小会派の議員一覧』第5回総選挙参照)。彼らは無所属となった(2大民党が憲政党を結成したのは衆議院の解散後であり、山下倶楽部は衆議院の解散を以て解散した-1898年6月12日付読売新聞-)。親薩摩閥の議員を多く含む親民党の同志倶楽部は、憲政党に参加した。

第3極全体で見れば、民党合流に参加する勢力と、不参加の勢力に分かれたのである。その中で、吏党系(国民協会:伊藤新党にも民党合流にも不参加)と新民党(同志倶楽部:民党合流に参加)は、自らの立場を明確にし、それができなかった中立実業派(山下倶楽部)は分裂した。実業家中心の会派は、第4回総選挙後に続いて再び、政党への参加、不参加を問われ、分裂したのである(大手倶楽部の場合は、実業家がほとんど進歩党に参加しなかった―『中小会派の議員一覧』第4回総選挙参照―が、山下倶楽部の場合は、実業家も、憲政党への参加、不参加に分かれた)。特定の勢力と合流するリスクを取ろうとしないことに、実業家中心の会派の限界はあった。

伊藤側から勧誘を受けていた経済研究同志会(『キーワードで考える日本政党史』第6章第3極1党優位の傾向(⑱)参照)には、衆議院に独自の会派を形成して、政府党と民党のうち、自らの利益となる方を助けるべきだという意見があった(1898年6月18日付東京朝日新聞)。意図していたかは別として、キャスティングボートの掌握を目指す勢力のような意見であったのだ。だが、彼らは当時、キャスティングボートとは無縁に近かった。だからむしろ、少しでも影響力を持てるように、どちらかの陣営に早々と入った方が得策であった。経済同志研究会を含めた実業家達は結局、どの陣営に与するのか、独立してキャスティングボートを握ろうとするのかについて、一定のまとまりを維持したまま、選択をするということができなかった。

2大民党が合流して誕生した憲政党は、一体性を保てればの話だが、それまでにない強力な民党であった。これに加わらないということは、衆議院、場合によってはその総選挙において、不利になるということを意味した。憲政党が政権を得たことで、山下倶楽部の憲政党不参加者の立場、国民協会の立場は決定的に不利なものとなったのである。国民協会は、山県系の反撃に期待することもできたが、山下倶楽部出身者には、そのようなチャンスも訪れそうになかった。こうして中立実業派は、(これまで同様)それぞれが無所属で戦った第6回総選挙において、壊滅したのである(9名が当選し、筆者が知る限り10名が落選し、不出馬も多かった『キーワードで考える日本政党史』表⑥-A参照―)。

さて、憲政党崩壊後を見てみよう。第3極から憲政党に参加した議員達は、旧2大民党が党内で対立していたことを批判していた(同註1参照)。しかし彼らには、それを改めさせるだけの力はなかった。

1898年8月の第6回総選挙では、憲政党が定数300中の、263議席を得る圧勝をし、国民協会は解散時の26から20議席に減少した。旧山下倶楽部系の憲政党不参加者を含めた無所属の当選者は、わずか17名であった。以前の無所属議員や中立会派の議席数を見れば、それらは、壊滅したに近い状態であったと言える。それでもわずかに生き残った中立派は、10議席程度の会派を結成したが、その影響力は限定的なものとなった。その会派とは同志倶楽部(1898年12月6日より日吉倶楽部)である。同派は、「憲政擁護の目的を以て」(1898年11月8日付萬朝報)、つまり第2次山県内閣に否定的な会派として、「政府に盲従せず政黨に依らず問題に依て公平に進退せん」という考えの下で結成された(1898年12月3日付読売新聞)。

他の勢力を非常に不利にした憲政党はしかし、結成からわずか4ヶ月で、自由党系と進歩党系に分裂した。第3極から参加した議員達は無所属となるか、残留派であったといえる憲政本党(進歩党系)に加わった。しかし、後者の半数以上も離党した(山下倶楽部から民党の合流に参加し、第6回総選挙で当選して、憲政本党の結成に参加した議員は7名、うち2名が離党して議員同志倶楽部へ。同志倶楽部の同様の議員は6名で、うち5名が離党してその中の鹿児島政友会系全4名が立憲政友会へ、1名が議員同志倶楽部へ)。この影響により、無所属議員の数は増えて、1898年内に39名となった。衆議院第1党であった憲政本党は、過半数を13下回る議席で結成され、その後離党者が続出した。

憲政党を結成したものの袂を分かった2大民党が共に過半数に届かない中、第3極(国民協会と中立派)は、再び衆議院におけるキャスティングボートの一角を握った。分裂直後(自由党系の憲政党と進歩党系等の憲政本党が出揃った1898年11月3日)の衆議院の勢力分野を見てみよう。

 

憲政党 :112

憲政本党:138(結成後離党者が続出)

国民協会: 20

無所属 : 30(うち10名が1週間後に同志倶楽部を結成)

 

山下倶楽部の流れを汲む同志倶楽部(12月に日吉倶楽部に改称)、吏党系の国民協会、無所属のいずれも、単独ではキャスティングボートを握っておらず、30議席強~40議席弱程度のかたまりをつくらなければ、キャスティングボートを握ることができない状況であった。

国民協会(吏党系)は憲政本党(改進党系)より憲政党(自由党系)と近く、時の第2次山県内閣と自由党系との提携が、同党の望むものであったこと、憲政党または第2次山県内閣寄りの無所属議員と、憲政本党寄りの無所属議員がそれぞれ数名ずつはいたと思われることから、実際にキャスティングボートを握ったのは同志倶楽部→日吉倶楽部と無所属の中立派であったと言える。第2次山県内閣と憲政党(自由党系)との提携が、実現した、1898年11月29日の勢力分野は次の通りであった。当時は確かに、議員の党派間の移動が激しい時期ではあったが、この日の数ヶ月前とこの日の数ヶ月後で、下の数字が大きく変わっているというわけではない。

 

準与党:憲政党113、国民協会18、無所属のうちの鹿児島県内選出議員7

準野党:同志倶楽部10(結成時超然内閣に否定的であったようだから野党ともし得る)

無所属:21(鹿児島県内選出議員を除く。これを含めた場合は28)

野党 :憲政本党131

計  :300

 

与党は存在せず、準与党と野党が共に131議席であり(準与党であったといえる鹿児島県内選出の無所属議員を除いた場合)、中立議員(準野党と無所属の一部~多く)がどちらにつくかによって、衆議院の多数派が入れ替わることが分かる。

普通に考えればそうなのだが、キャスティングボートを握るのは比較的小さな勢力だというイメージを捨てると、違って見える。上に示した勢力分野の準与党から自由党系、つまり憲政党を外し、準野党に下してみれば、彼らは中立派と共にキャスティングボートを握る、大勢力になるのだ。憲政党と国民協会、鹿児島県内選出議員だけでは、過半数におよそ13議席届かない状況ではあった。しかしそれが権力の側につけば、野党を切り崩す際の土台としては、場合によっては十分なものとなり得た。憲政党は、憲政本党と同様の姿勢を採ることで(喧嘩別れをしたばかりの両党の共闘は難しくとも)、第2次山県内閣を死に体にするだけの力を持っていた。もちろん、憲政本党が同内閣に協力するという、一大転換を遂げない場合に限ってのことである。

同志倶楽部(日吉倶楽部)の頼りとなっていたのは、憲政党と国民協会、鹿児島県内選出議員の合計が、衆議院の過半数を13議席ほど下回っていたこと、無所属議員の全てが、この3党派と同じ、第2次山県内閣寄りではなかったこと、憲政党がまだ、地租増徴賛成でまとまることができていなかったことであった。

計算上、鹿児島県内選出議員を除く無所属のうち、野党的な議員が合わせても10名に数議席届かないことがはっきりすれば、同志倶楽部→日吉倶楽部は、キャスティングボートを失うことになる。第13回帝国議会における地租増徴案の第2読会の採決は、賛成が161であった(反対は134)。日吉倶楽部からは2名の反対が出たようだが、もしも賛成票の数がそのまま内閣支持・内閣寄りの議員の数であるなら、日吉倶楽部はキャスティングボートを失っていた可能性がある。これがあくまでも仮定であり、まだ、第2次山県内閣の明確な支持派が過半数を上回っていることが確かではなく、上回っていたとしても、数議席程度であったことが、日吉倶楽部の頼りとなったわけである。

憲政党が1列の関係において、薩長閥と改進党系との間に位置したこと、そして第2次山県内閣と憲政党が提携したことによって、衆議院における自由党系の優位は確かなものとなった。つまり、中立派が衆議院のキャスティングボートの一角すら握り続けていられるのか、見通せない状況であった。

第13回帝国議会会期終了日の翌日(1899年3月10日)、日吉倶楽部は解散した。そして第14回帝国議会が招集される前日(同年11月19日)に再結成された。この再結成には興味深い点がある。まずは再結成前の同派の所属議員の選挙区を見て欲しい。次の通りである。

神奈川1区、岐阜2区、3区、愛知1区、2区、4区、大阪3区、京都1区、2区、島根2区、6区、(田口卯吉を含めれば、+東京8区)

※田口の参加については『キーワードで考える日本政党史』第6章⑦参照

次は再結成時である。

東京8区、愛知1区、2区、4区、6区、大阪3区、京都1区、2区

再結成前と比べて、明らかに都市型の色が強まっている。さすがに全選挙区が市部であったわけではないが、大都市かその周辺ではない選挙区は見当たらない。単に中立実業派というだけではなく、都市型に特化した会派が、間もなく実現する、衆議院の選挙制度の改正(都市部の独立)に先駆けて誕生したのである。

しかし、日吉倶楽部の議席数は再結成前よりも減った。3議席減(田口が以前より参加していれば4議席減)に過ぎないとはいうものの、分母が小さいから、約3分の2に、大きく減ったと見ることもできる。都市部に特化したからなのか、中立実業派の残部が求心力をさらに失ったからなのか、筆者には原因を特定することができない。しかし少なくとも、都市部に特化し、かつ一定の勢力となるのは、当時の状況では元より困難であったことは間違いない。日吉倶楽部は、東京府の市部にあたる選挙区の議員達すら集められておらず、市部選出の議員を集めても少数派だと嘆く、そのような段階にすら達していなかった。しかも、結成から5日後に、郡部選出の2名(大阪の北田豊三郎、徳島の板東勘五郎)なお、帝国党に改組した国民協会の議席数の水準にも、変化はなかった。

切り崩しを受けた議員を含めて、憲政本党を離党した地価修正派の議員(註2)等は、1899年11月21日に議員同志倶楽部を結成した。これによって、第3以下の会派の数は、2つから3つに増え、総議席数も増えた。

詳しくは『中小会派の議員一覧』第6回総選挙を見て欲しいが、議員同志倶楽部は、憲政本党の離党者5名、憲政党の離党者3名、一度解散する前の日吉倶楽部に属していた無所属2名、会派に属したことのなかった無所属2名の、計12名によって結成された(憲政本党から憲政党へ移り、憲政党を離党した岡野寛は憲政党の離党者に含めた)。

議員同志倶楽部に地価が高い地域の議員が比較的多かったことは確かだが、同派が地価の高い地域の議員達による会派であったとまでは言えない。憲政本党離党者が選出された選挙区は、山形県、東京府、三重県、大分県、鹿児島県にあり、うち地価修正運動が激しかったのは三重県くらいだ。ただし東京は他の地価が高く、大分、鹿児島は畑の地価が高く、山形も、畑の地価は東北地方の中では高かった。日吉倶楽部系2名は共に、畑の地価が高かった岐阜県内の選出である。

地価修正に賛成して憲政本党を離党した議員達は、地租増徴案、地価修正案の可決に一役買ったと言える。彼らの票が賛否を決したわけではないが、可決が不確かな状況下、日吉倶楽部、無所属、そして本来賛成すべき憲政党内の反対派、本来反対すべき憲政本党内の彼らの動向が、合わせて状況を左右するものであったからだ。しかし、議員同志倶楽部に地価修正派が多かったとのだしても、地価修正はすでに実現していたから、そのことにあまり意味はなかった。

議員同志倶楽部のメンバーのうち、第6回総選挙より前に議員の経験がある者は以下の4名であった。選出された選挙区と共に付記した所属会派の変遷を見て分かる通り、5名中の3名が、  を引いてある、山下倶楽部の出身者だ。

 

久米民之助 群馬1区 山下倶楽部→憲政党→議員同志倶楽部→中立倶楽部

佐藤里治  山形1区 立憲自由党→協同倶楽部→東北同志会→中央交渉部→有楽組→同盟倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党→実業団体→進歩党→憲政党→憲政本党→議員同志倶楽部→甲辰倶楽部→大同倶楽部

高梨哲四郎 東京6区 山下倶楽部→憲政党→憲政本党→議員同志倶楽部→中立倶楽部→中正倶楽部→甲辰倶楽部→大同倶楽部→立憲政友会

広瀬貞文  大分4区 国民協会→国民倶楽部→公同会→同志倶楽部→憲政党→憲政本党→議員同志倶楽部→中立倶楽部

和波久十郎 三重3区 山下倶楽部→憲政党→憲政本党→議員同志倶楽部

 

山下倶楽部は実業家や地価修正派が結びついた会派であったから、彼らはそのうちの地価修正派であったと考えられる。彼らは皆、選挙区の地価が高い議員達だ(実業家の比率も低いと言える―『中小会派の議員一覧』第6回総選挙参照―)。なお、和波に関して尾崎行雄は、彼が財産家、門閥家であったことから、買収されたのではなく勧誘に困って、とりあえず中立の立場に転じたのだと推測していた(1899年10月4日付読売新聞)

1899年6月4日付の読売新聞は、臼井哲夫、高梨哲四郎、初見八郎、塩谷五十足らが組織した議員同志倶楽部が主旨書及び宣言を発したとして、それらを紹介している。主旨書は、国家の大事を権勢の争奪の犠牲にしているとして、政党を私党と批判している。宣言は、清における勢力圏の確定を急務だとしている。宣言はまた、福建省の不割譲が破られることを危惧し、清に同省における鉄道敷設権、鉱山発掘権を要求すべきだとしている(主旨書、宣言の一人称はそれぞれ「吾輩」、「余輩」)。高梨(高梨哲四郎『明治三十一年三月臨時総選挙ニ於ケル高梨哲四郎ノ主張』)、初見(第6回帝国議会で上奏案について対外硬派と同じ投票行動をとっている-表③-C参照-)、議員同志倶楽部に参加した塩谷五十足は対外強硬派であった(註3)から、同派にも、そのような面が表れたのかもしれない。

注意しなければならないことがある。『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部は、議員同志倶楽部の結成を、読売新聞とは異なる1899年11月21日としており、初見の参加を認めていない。初見を、憲政本党を離党して三四倶楽部を結成した34名のうちの1人としている。報道で議員同志倶楽部の結成、初見の同派への参加を確認することができないため、『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部に準じておく。

議員同志倶楽部の結成から約10ヶ月後、1900年9月15日に立憲政友会が結成された。伊藤系と自由党系が合流したものであった、つまり政界縦断の一つの頂点でもあったこの新党は、衆議院の議席数が分裂前の憲政党のそれに及ばないとしても、首相となり得る、薩長閥の最大の実力者の1人を党首とし、自由党系丸ごとと、他の勢力からも一部の参加が見込まれていたことから、結成される前から、かつてない強力な政党になることが確実であった。

中立派がキャスティングボートの一角にかろうじて手をかけていたのに対して、まとまりをほぼ完ぺきに維持した自由党系は、キャスティングボートを行使し、立憲政友会、さらには同党中心の、第2次伊藤内閣を出現させたのである。第2次大隈内閣以降、改進党系、山県系、伊藤系と、自由党系が味方した勢力が発足させていた(第2次山県内閣は例外だが、事実上はそれに近い―『キーワードで考える日本政党史』第6章④参照―)。そして第2次伊藤から第2次山県までの全ての内閣が、自由党系の協力を得られなくなった(得られなかった)ことで倒れている。

立憲政友会結成のおよそ半年前、1900年3月13日付の東京朝日新聞によれば、憲政党の星亨は、帝国党、中立倶楽部との合流を志向していた。中立倶楽部というのは、議員同志倶楽部か、同派と日吉倶楽部の双方を指していると考えられる。記事が、議員同志倶楽部に属していた高梨哲四郎について、「自ら中立派の領袖を以て任じ」ているとしているからである。記事は、高梨が星の構想に関わっているとする。吏党系、中立派は、この構想に与しない場合、星らによって切り崩される可能性が高かったと言えるだろう。実際に記事は、憲政本党が切り崩されることを予想し、同党がそれを警戒していることを伝えている。星が伊藤に党首就任を依頼したように、当時まだ、自由党系は自ら直接状況を動かすことはできなかった。それができるような存在となるため、キャスティングボートを権力に変えようとしていたのである(そうなればもちろん、状況によっては、別の勢力がキャスティングボートを握る存在となり得る)。

薩長閥対民党という対立は、双方が拒否権を有していたことから、対等な面もあった。しかし伊藤系と自由党系による政界縦断と、それに対抗する勢力という構図になると、拒否権を有していない改進党系の憲政本党は、不利であった。立憲政友会が衆議院の過半数を上回ることになっても、貴族院の非政友会勢力は拒否権を持っていた。しかし同院が性格上、それを貫徹することが難しかったのは、後の第4次伊藤内閣の増税について、伊藤が天皇の勅語の力を借りると、反対していた多数派の議員達が賛成に転じたという、例が示す通りである。憲政本党は、立憲政友会の結成前にはまだ衆議院の第1党であった。しかし、すでに自由党系の憲政党に対して不利な状況に陥っており、議席数においても、1900年4月には、憲政党に4議席差にまで迫られていた。

以上から、立憲政友会がそれまでの政党、会派と比べて、圧倒的に有利な立場を得て船出したことが、改めて分かる。だから第3極の諸勢力にとっては、まとまって同党に参加することが得策であったと考えられる。

確かに、第3極の勢力が伊藤系と自由党系を中心とした新党に参加すれば、党内で埋没する危険はあった。しかし伊藤は実業家を重視していたし、自由党系も星亨を中心に、実業家からの支持を拡大しようとしていた。

仮に、伊藤が薩長閥の他の有力者たちと明確な対立関係となれば、異なる状況となる可能性もあったが、それでも、立憲政友会に参加しなかった第3極の諸勢力が、参加するよりも有利な立場を得ることができたとは、考えにくい。吏党系の帝国党は、山県が首相に就けば有利な立場になったであろうか。それまでの吏党系の扱い、後の桂内閣期の吏党系の在り様を見れば、そうとはとても言えない。

憲政党結成の時とは異なり、帝国党、日吉倶楽部、議員同志倶楽部、つまり第3以下の全ての会派が、立憲政友会への参加者と不参加者に分裂した。帝国党(党結成後3名が加入、1名が離脱、1名が当選無効となり19議席となっていた)は、3名が立憲政友会の結成に参加、3名が結成後の同党に参加した(第15回帝国議会会期終了日の1901年3月24日までの間)。他に1名が無所属となって、12名が残留した(国民協会から帝国党に改組された当時まで遡って見ると、⑱で述べた通り、吏党系から立憲政友会に移ったといえる議員はもっと多い。また1901年9月21日には補欠選挙当選者が1名あって、13議席になっている。『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部では、1901年11月7日に無所属の並河理二郎が立憲政友会入りしたことが記されているが、帝国党の結成に参加したとある並河が、同党を離れたことについて記されてはおらず、帝国党の増減にも並河の移動が反映されていない)。日吉倶楽部(再結成後に2名が加わり10議席に)は3名が立憲政友会結成に参加、3名が結成直後(結成月の9月中)に同党に参加、4名が残留した。議員同志倶楽部(2名が死去して10議席に)のうち、2名が立憲政友会の結成に参加し、8名が残留した(立憲政友会結成後に1名が議員辞職をして7議席に)。第2党の憲政本党からも、15名ほどの立憲政友会参加者が出た(参照。立憲政友会結成時の、帝国党、日吉倶楽部、議員同志倶楽部からの参加者は、8月に離党した帝国党の早川龍介を除き、皆9月の移動だが、憲政本党については、9月以降に限ると、結成に参加したのが6名、結成後、衆議院議員の任期満了までは、12月16日離党、翌1901年4月6日加盟の1名。9月以前についてはどこで区切るかが問題となるが、である程度具体的に述べたから立ち入らず、「15名ほど」とした。立憲政友会の結成に参加した尾崎行雄の憲政本党離党は、1900年8月27日である)。

立憲政友会は衆議院の過半数を上回り、第2次山県内閣が退陣すると政権を得た。第3極は再びしぼみ、そこに残留した議員達は、まとまってもキャスティングボートを行使することが出来ない状況に陥り、展望を失った。遅くとも1901年12月10日(第16回帝国議会の開院式当日)には、日吉倶楽部と議員同志倶楽部は消滅していた。第15回帝国議会の会期終了(1901年3月24日)と共に解散したと考えられる。

なお、帝国党、日吉倶楽部、議員同志倶楽部の、立憲政友会参加者と残留者を比較してみたが、特に傾向を見出すことはできなかった。帝国党は山口、大分両県内選出の全議員が立憲政友会に加わっており、熊本県内選出議員は全員が残留している。この影響で帝国党は、所属議員の約半数(6名)が熊本県内選出、つまり熊本国権党系という政党になった。また、約4分の1の3名(並河理二郎が離れるまでは約3分の1の4名)が島根県内選出議員であった。

他に強いて傾向らしきものを挙げるなら、次の通りである。日吉倶楽部から立憲政友会に移った議員6名(日吉倶楽部を脱して帝国党を経た並河を含めると7名)のうち、半数の3名は同志倶楽部以来のメンバーではなかった。つまり結成後の加入者であった。彼ら3名は全員山下倶楽部の出身者であったが、彼ら以外の3名(同4名)を見ると、山下倶楽部出身者は1名(同2名)のみであった。日吉倶楽部全体で見れば、山下倶楽部出身者7名(同8名)中、4名(同5名)が立憲政友会に行ったことになる。一方、議員同志倶楽部から立憲政友会へ行った2名は、山下倶楽部の出身ではなく、同派10名中の山下倶楽部出身者3名は、誰も立憲政友会に行っていない(ただし高梨哲四郎が、後に大同倶楽部を経て同党に加わった)。筆者は、日吉倶楽部を中立実業派、議員同志倶楽部を一般的中立と分類しているが、実際の議員達の経歴を見ても、山下倶楽部系のうち、実業派が立憲政友会入りしたという面は、多少なりともある(『中小会派の議員一覧』第6回総選挙参照)。

立憲政友会という、薩長閥の要人を党首とし、かつ衆議院の過半数を上回る議席を誇る優位政党の誕生、それが薩長閥全体の、真の同意を受けて結成されたわけではなく、立憲政友会と、同党に否定的な山県系等との優劣がどのようにつくかが、なお不透明な状況は、日吉倶楽部、議員同志倶楽部の両派を、立憲政友会に懸ける議員と、中立として様子を見ようとする、あるいは中立の立場を変える気がない議員に分けた。帝国党と憲政本党からも、立憲政友会の結成に参加する議員が現れた。吏党系の国民協会と中立実業派の合流は実現せず(『キーワードで考える日本政党史』第6章⑩、補足~吏党刷新、帝国党への道~参照)、双方は結局、それぞれ分裂したわけである。

吏党系の残部は、2大民党による新党にも、伊藤新党(実現に至らなかった第5回総選挙後と、立憲政友会の結成に至った第6回総選挙後)にも参加しなかった議員達であったと言える。中立派の残部は、必ずしもそうではない。中立実業派の日吉倶楽部はそうだと言って良いのだが、例が少ない。議員同志倶楽部の残部のおよそ半分は、2大民党による憲政党に参加している(憲政本党、憲政党―自由党系―、主に前者の離党者による会派だから当然だが)。

しかし、立憲政友会に、その結成後も含めて参加しなかった帝国党、日吉倶楽部、議員同志倶楽部の議員達は、政界縦断の動きと一線を画す立場を明確にしたのだということは、言えるだろう。そもそも、政党(的なもの)に属そうとしていなかったのだとしても、単なる民党ではない、薩長閥の中心人物の1人を党首とする政党であっても、参加しなかったのだから、ほとんど同じことである。伊藤系と自由党系による政界縦断の動きが、党内の一体性の強化という、立憲政友会の内部に関する課題となったものを除けば完結し、他に本格的な政界縦断の動きは、前兆すらなかった。立憲政友会の結成に参加しなかった第3極の議員達が、それとは別の縦断を待っていたとは言い難い。だから吏党系も、中立実業派も一般的中立も、政界縦断派とそうでない勢力に分かれたのだと、言って良いと考えるるのだ。それらの縦断不参加者達が結集するとしても、また別々の道に進むとしても、衆議院の勢力がある程度整理され、一つ先の段階に進んだことは間違いない。

中立派等の第3極よりも、自由党系がキャスティングボートを握っているという面が強まっていたところ、政界の中央に、自由党系を土台とし、衆議院の過半数を上回る立憲政友会が出現したことによって、これに参加しなかった中立派の議員達は、中央にいては、見えないに近い存在となった。それでも中立でいた方が無難だという議員も当然いたであろうが、存在感を示すには、右か左へ移動し、立憲政友会に対する評価、政界における立場を明確にした方が良い、という状況となった。

帝国党はもちろん、右に行くしかなかった。つまり山県系に準じて、従来の、政党が閣僚、ましてや首相を出すことに否定的な立場を維持し、元老の伊藤が党首を務める政党、それが政権を得ようとすること、得ることに反対する姿勢を採るしかなかった。そして実際、そのようにしたといえる。貴族院の多くと同様に、第4次伊藤内閣の増税に反対したからである。

中立派は、そのような宿命も背負っておらず、統一性にも非常に乏しかったから、右へ左へと、小さく揺れるような形になった(『キーワードで考える日本政党史』第7、8章参照)。しかし、その主流となっていた実業派が、実業家層の利益、あるいは市部の利益の代弁を期待され得る存在であったから、細々と生きながらえることもできた。それが、立憲政友会の分裂による過半数割れ、立憲政友会の先祖返りによる、市部を代表し得る大政党がないような状況の再現によって、存在感を増すことになった(『キーワードで考える日本政党史』第10~11章で見る)。それは偶然などではなく、必然であったと思うが、中立派自体が、市部の利害を代表する存在として十分であったわけではない。結局は、郡部寄りの自由党系に対抗する、市部寄りの第2党の形勢が必要になり、中立派は、系譜としては吏党系と合流をした上で、そこに参加した(立憲同志会の結成と、桂の死に寄る性格の変化について、『キーワードで考える日本政党史』第11章で見る)。