2.キーワードで考える日本政党史

第3極・実業派の動き・キャスティングボート(④⑤⑦⑧⑩⑪)~対外硬派の合流、内閣の交代による実業派の再編とその性質~

第3極・実業派の動き・キャスティングボート(④⑤⑦⑧⑩⑪)~対外硬派の合流、内閣の交代による実業派の再編とその性質~:国民協会を除く対外硬派の諸勢力が合流して進歩党を結成する約2ヶ月前、1895年12月28日(第9回帝国議会開院式当日)の衆議院の勢力分野は次の通りであった。定数は300、欠員はなく、151で過半数となる。

・第2次伊藤内閣寄り:自由党106、実業団体28・・・計134

・対外硬派:立憲改進党52、立憲革新党40、大手倶楽部24、帝国財政革新会4、

中国進歩党4・・・計124 ※間もなく離脱する国民協会31を含めて・・・計155

・無所属:11

ここからいくつかのことがいえる。まず、国民協会が対外硬派に含まれる場合、同党がこれを離脱する可能性が高ければ同党が、そうでなければ会派に過ぎず、政党より一体性に乏しかった大手倶楽部がキャスティングボートを握っていたということになる。12月27日付の読売新聞は、「第九議會に於る朝野両黨の勝敗ハ國民恊會の向背如何によりて岐るる事なるが」としている。後者の場合、大手倶楽部の議員達は、キャスティングボートを利用して、実業家層の利益となる政策の実現を、内閣に求めることもできた。しかしそれは、対外硬派としての立場を犠牲にすることと引き換えに、ということになる。この動きに出た時に、十分な同調者を内部に得ることができない場合には、実業団体と組むという方法もあった。ただしいずれにせよ、キャスティングボートをうまく活用するには、大手倶楽部内の一定数の議員がまとまって動くことが必要であった。

大手倶楽部の可能性について論じてはみたが、実際には、同倶楽部がキャスティングボートを握ることはなかった。理由はもちろん、国民協会が対外硬派を離脱したからだ。この場合にも、大手倶楽部と実業団体が脱落者をほとんど出すことなく組み得れば、実業家中心の会派がキャスティングボートを握ることは可能であった(第2次伊藤内閣と対外候補のそれぞれの陣営に近い、無所属議員もいた)。しかし一体性に乏しい勢力が、他の、差異があり、やはり一体性に乏しい勢力と、離脱者をほとんど出さずに協力するというのは、非現実的なことであった。

1894年以降条約の改正が成り、内地雑居も現実のものとなると、これを改正前に戻そうとする極端且つ非現実的な立場を採ろうとするのでもない限り、大手倶楽部が対外硬派である意味は薄くなった。大手倶楽部が結成される前にすでに、イギリスとの間の領事裁判権の撤廃は実現しており、関税自主権の完全な回復という課題は残ったが、不平等条約の改正は大きく前進していた。そのような状況下、対外硬派の次の柱は、清に対する姿勢を巡るものとなった。そして対清開戦は当然、彼らが支持することであった。

大手倶楽部と実業団体の議員達の職歴を見ると、関税について、双方に明確な利害の差異はなかったように思われる。双方に同じ業種の議員がいたからだ。当時の衆議院の議事録等を見ても、条約改正に伴う関税率の改定に関する、双方の対立を見出すことはできない。関税政策については、業種ごとに利害が異なる場合が多々あるから、調整するとすれば双方の会派内で調整する必要性の方が高かったであろう。しかし調整がなされた痕跡は見当たらない。また大手倶楽部には農業を営む議員が実業団体に比して多かったから、同倶楽部内の、彼らと、実業派の議員達との利害の差異の方が、同倶楽部の実業派と実業団体との間の差異よりも大きかったとも、考えられる。

その実業団体についても触れておかなければならない。実業団体は、国民協会の抜けた対外硬派を再び過半数にすることができる規模ではあっても、第2次伊藤内閣支持派を、自らと自由党だけで過半数に届かせることはできない規模であった。実業団体は第2次伊藤内閣寄りの実業派と、内閣の要人の足元の選挙区から選ばれた政府支持派である、山口組、紀州組との連合体という性格を持っていたから、まとまりを維持して柔軟な姿勢を採ること、つまり第2次伊藤内閣寄りという立場を弱めることは、難しかったはずだ。

以上から、大手倶楽部が、第2次伊藤内閣側の実業団体に歩み寄るという可能性は理屈の上ではあり得たといえる。しかし、大手倶楽部の結成前後に進んだ条約改正はまだ、立場を明確にし過ぎることを避けようとする者を多く含んでいたと考えられる実業家中心の会派にとっての、再編の機会とならなかった。さらに終戦後の遼東半島の還付は、対外硬派を硬化させる出来事、つまり実業団体の実業家と大手倶楽部の実業家が組むことを難しくする出来事であった。

ただし、いつの時代も、野党化には離脱者が付き物である。ほとんど挙国一致的な体制下にしか存在したことがなく、初当選の議員も多かった(25名中14名)大手倶楽部は、政府を追及することについて動揺を見せた。読売新聞は、経営問題を後にして責任問題を先にすることを、国家のために採らないという議論が、同倶楽部に多いと報じている。内閣を追及することよりも、戦後経営に関することを重視すべきだと考える議員が、同倶楽部には多かったのだ。政府を弾劾する対外硬派の上奏案の採決前日、1896年1月8日付の東京朝日新聞は、責任派(対外硬派のことだといってよい)の調査によるものとして、上奏案の賛成予定者の数を次のように報じている。立憲改進党52、立憲革新党36、大手倶楽部6、中国進歩党4、帝国財政革新会4の、無所属を除いて合計102、他に無所属3、4人。結果はどうであったかといえば、記事の予想に近い、103対170での否決となった。つまり、国民協会が賛成に投じなかっただけではなく、大手倶楽部の18名ほど(約4分の3)と、立憲革新党の4名ほどが賛成票を投じなかったのだ。

実業家中心の会派の再編の種はここにあった。そして再編の機会は、この件の延長線上、野党色を再び強めた対外硬派による、進歩党の結成にあった。また、第2次伊藤内閣から第2次松方内閣への、内閣の交代は、もう1つの重要な機会となった。進歩党の結成は、政党に属すことに否定的な議員が多かった大手倶楽部に、内閣の交代は第2次伊藤内閣寄りの実業団体に、対応を求める出来事であったからだ。こうして再編は行われた。どのようなものであったのか、見てみよう。

遼東半島の還付は、日清戦争が齎した挙国一致的な風潮を崩した。対外硬派は還付を決めた政府を弾劾する上奏案を提出した。彼らは合流に向けて本格的に動き出したが、すでに述べた大手倶楽部だけではなく立憲革新党にも、戦後経営を優先すべきだと、対外硬派の対政府強硬姿勢に否定的になる議員が現れていた(小宮一夫「党首なき政党の模索―立憲革新党論―」-『日本立憲政治の形成と変質』第七章-182頁)。彼らと、政党員となることに否定的な大手倶楽部の実業家(1896年2月19日付東京朝日新聞)、そして自由党の一部の議員達が、それぞれ母体を脱して1896年2月、対外硬派の合流より先に、議員倶楽部を結成した。立憲革新党を脱して議員倶楽部の結成に参加した議員5名のうち4名が宮崎、鹿児島両県内の選挙区から選出されていたから、出身が同じ薩摩閥に自ら寄ったか、切り崩されたのだと分かる。

議員倶楽部は結成時、対外硬派、中立硬派を自負した(例えば1896年2月21日付読売新聞が会派結成の動きを伝え、その参加者等から、それが議員倶楽部の結成となったことがわかる。会派結成は同22で確認できる。前者には「対外硬の主義を執り」とある)議員倶楽部が1896年12月20日に再結成される当時、同倶楽部は、第2次松方内閣を、第9回帝国議会で同倶楽部が「協賛を与えた前内閣未遂の大業を継承したるもの」と評した(1896年12月20日付東京朝日新聞)。つまり再結成前後共に、全体として議員倶楽部は、時の内閣に寄って、戦後計画を支持する勢力であったということができる。また、再結成直後の議員倶楽部は議長選において進歩党の候補を推した(1896年12月21日付読売新聞)。

実業家中心の会派は、党議拘束のようなものがある、あるいは事実上ある集団ではなかったため、曖昧な立場を採ることができた。しかし、性質の異なる他の勢力との合流については、会派として参加するのかどうかを明確にしなければならなかった。明確にしないということは不参加だと受け取られる。つまり会派としては不参加を決めたというのと同じであるし、受け身の体勢のまま分解されることにつながる。そして、その再編が重要なものであればあるほど、自らの影響力を低下させる危険がある。だから大勢力の再編への動きは、(中立)実業派を大きく揺さぶるものであったのだ。

自由党内では、買収の疑惑も付きまとった自党の長州閥への接近、妥協に対する反発が一部に起こっていた。そこには後藤象二郎の手が伸びていた(1896年1月19日付東京朝日新聞)。『板垣退助君傳記』によれば、立憲改進党と(民党系だが)鹿児島県内選出の議員を含む立憲革新党の合流により、大隈と松方の「握手」が必然となった(第4巻257頁)。ただし立憲改進党の鹿児島県内選出議員4名のうち、合流に参加したのは2名と、後に河島醇―合流には不参加―の議員辞職に伴う補欠選挙で当選した有村連だけである)。閣僚辞任に追い込まれており(第2章⑩参照)、自らの朝鮮改革構想を実現させることも伊藤に受け入れられなかった(大町桂月『伯爵後藤象二郎』739~744頁)。後藤象二郎は、敵対していたはずの対外硬派を扇動し、自身の女婿であった岩崎弥之助を、松方と大隈の媒介者とすることに成功した(『板垣退助君傳記』第4巻258~259頁)。伊藤系と自由党系との政界縦断的な協力に板垣の入閣という自由党の成果を見た立憲改進党(大隈周辺)、伊藤系の影響力の拡大を見た薩摩閥、そして自由党の一部と対外硬派に追い込められ、展望を開く必要のあった後藤の思惑が一致し、第2の政界縦断的な協力関係の構築が進んだのだ。薩摩閥、大隈、進歩党内の旧立憲革新党系の一部という、九州出身者同士の接近が、始めから重要な要素となった動きでもあった。議員倶楽部は立憲改進党とは違い、第2次伊藤内閣に戦いを挑もうとする勢力ではなかった。しかし薩摩閥主導の第2次松方内閣が成立すれば、双方は共に、野党にはならずに、伊藤系と自由党系の縦断に対抗し得たのである。双方は結局、それでも対立関係となったのだが、それには不可避となった地租増徴を進歩党が一体的に受容することができなかったことと共に、薩摩閥の不統一と、薩摩閥と進歩党のボタンの掛け違いがあった(本章(準)与党の不振(⑤⑪⑫⑭)参照)。

自由党を脱して約1ヶ月から1ヶ月半後に議員倶楽部の結成に参加したのは、ここまでに述べた過程などにおいて、薩摩閥と近くなった議員達であったのだろう。1896年1月19日付の東京朝日新聞には、自由党を離党しようとしていた議員14名が挙げられている。次の通りだ(選挙区のあった府県、所属政党、会派の遍歴は筆者が付した)。離党の時期、その後の所属会派は様々だが、ほとんどが親薩摩閥の会派に参加したことが分かる。

永井頴雄   広島県 自由党→議員倶楽部→新自由党→公同会→新自由党

佐々木高栄  広島県 自由党

富永正男   広島県 自由党→議員倶楽部→新自由党→公同会

江碕均    愛知県 自由党→国民協会→国民倶楽部→公同会

長谷川亀一郎 愛知県 自由党→議員倶楽部→新自由党→公同会→新自由党

伊藤徳太郎  千葉県 自由党→立憲政友会

直原守治郎  岡山県 自由党→公同会→新自由党

森輝見    香川県 自由党(江崎、森本と同日に離党)

深山聳峮   三重県 自由党→公同会→同志倶楽部(第5回総選挙後)

依田道長   山梨県 立憲自由党→自由党→議員倶楽部

野口褧    埼玉県 立憲自由党→自由党→議員倶楽部

江橋厚    長野県 立憲自由党→自由倶楽部→自由党→議員倶楽部

森本省一郎  長野県 自由党→日曜会

島津忠貞   長野県 立憲自由党→自由党→公同会

彼らのうち、実際に離党したのは12名であり、その中の10名が、親薩摩閥の会派に参加をしている。記事は、分裂の動きの背後に、後藤象二郎がいることを指摘している。また、ここで名の挙がっている野口褧、江橋厚の自由党離党については、1896年1月26日付の読売新聞が後藤の関与を指摘している。大町桂月の『伯爵後藤象二郎』にも、松方正義が(遼東半島還付に反発する)與論と政見を同じくしていたこと(松方は南進重視であり、遼東半島の割譲を要求することに反対していた)、後藤、松方、大隈が「自ら相結ばざるを得ざる時勢」となったことと共に、後藤が自由党の議員を勧誘したことが記されている(758、760頁)。同著は後藤が遼東半島還付に憤ったとし、後藤が各派の議員等と交渉して連合同盟組織に尽力したとしている(755頁)。もちろん、閣僚を辞した後藤にとって、遼東半島還付が影響力の低下を食い止める一つの機会であったという面もある。

脱落者を除いた対外硬派(立憲改進党、立憲革新党の多く、大手倶楽部の一部、帝国財政革新会、中国進歩党)は1896年3月、合流して進歩党を結成した。党首は置かれなかったが、事実上は大隈が指導者であった。この進歩党は衆議院において、自由党に数議席差まで迫る勢力となった。地租以外の増税に関する法案が次々と可決された、第9回帝国議会の終盤のことである。

議員倶楽部は公同会の結成に参加し、進歩党の結成に際して無所属となった元大手倶楽部の議員の一部は、1897年1月27日に実業同志倶楽部を結成した。実業団体に属した議員達は、実業同志倶楽部と日曜会(1897年2月結成)と無所属に分かれた。1897年1月8日付の東京朝日新聞は、松本重太郎、田中市兵衛、原善三郎ら20余名の実業議員が実業倶楽部のようなものを設置しようとしていると報じている。原は実業団体に属していたが、松本、田中は補欠選挙の当選者であり、会派に属したことがなかった。3人とも実業同志倶楽部の結成に参加しているから、この集会が同倶楽部に発展したことは確かだ。同1月20日付は、議員倶楽部(河島醇の一派が組織したものだとしている)と実業団体(田中市兵衛、松本重太郎らの糾合により成立したとしている)が数回の交渉により合同の内議を遂げ、46名となるらしいことを報じている。結局、議員倶楽部と実業団体が合流するには至らず、次に見る再編の過程を追うと、議員倶楽部の一部、主に大手倶楽部出身者が実業団体と合流したといえる。

当時は金融ひっ迫が深刻であったが、田中市兵衛らは、日本銀行大阪支店による金融救済を働きかけて実現させている(1896年10月27日付東京朝日新聞)。これは第2次松方内閣期であったから、彼が同内閣の戦後経営を支持した実業同志倶楽部の結成に参加したことは自然なことだといえる。

これらの会派については史料が乏しく、再編の意図を確認することはできない。そこで再編の動きをさらに細かく見ることで、議員達の意図を探りたいと思う。大手倶楽部(24名)の進歩党不参加者17名のうち、11名が議員倶楽部の結成に参加し、後に1名がこれに加わった。2名が同じ対外硬派の脱落者といえる国民協会に加わり、議員倶楽部に遅れて参加した1名を含む4名が無所属となった。国民協会に加わった2名のうち1名は実業同志倶楽部の結成に参加した。そして無所属となった4名のうちの3名が、他の会派を経ずに実業同志倶楽部の結成に参加した。なお、議員倶楽部の結成に参加した議員11名のうち、5名が実業同志倶楽部に、2名が進歩党に(この2名は進歩党不参加者に数えたが、議員倶楽部を脱して進歩党の結成に参加している。ただしうち1名は議員倶楽部に復帰)、1名が国民協会に加わった(ここでいう「加わる」とは、結成に参加することも含める)。

まとめると、大手倶楽部の進歩党不参加者は、多くが議員倶楽部に参加し、その約半数が、大手倶楽部解散後無所属となっていた議員達の過半数と、実業同志倶楽部を結成したということになる。議員倶楽部に残る議員が少なく、実業同志倶楽部の結成に参加した議員、つまり中立実業派を形成した議員が多かったことがポイントである。

立憲革新党は最大で42議席であったが、2名が実業団体に移り(うち1名が進歩党、1名が日曜会の結成に参加)、40名となった。この中で進歩党に参加しなかった11名のうち、5名が議員倶楽部を結成した(うち3名は公同会、1名は実業同志倶楽部の結成に参加する)。そして6名が無所属となった(うち2名が議員倶楽部に加盟し、3名が実業同志倶楽部の結成に参加した)。

つまり、立憲革新党の進歩党不参加者の多くが議員倶楽部に参加し、議員を辞職した河島醇を含む2名以外がこれに留まった。そして同党の進歩党不参加者の一部は実業同志倶楽部に参加したのである。進歩党に参加した議員を含めて、議員達が別れて行った先は大手倶楽部と同様であっても、比率は異なるのである。

議員倶楽部は、大手倶楽部離脱者11名、立憲革新党離脱者5名、自由党離脱者3名、東洋自由党系の無所属1名の、計20名によって結成され、大手倶楽部出身の2名が離脱して進歩党の結成に参加、同じく大手倶楽部出身の1名が議員辞職、1名が死去した。そして、第10回帝国議会の開会に向けて改めて結成された際に、大手倶楽部系の2名の離脱が確定し(1名が実業同志倶楽部の結成に参加、1名が国民協会に加盟)、進歩党の結成に参加した2名のうちの1名が戻った。立憲革新党系の1名の離脱も確定した(後に実業同志倶楽部へ)。一方で再結成は、国民協会を脱した4名、無所属の5名(うち1名が実業団体、1名が大手倶楽部系、2名が立憲革新党出身)を加えて、23に議席を増やすものであった。ただし明確に解散したわけではない議員倶楽部は、議員を入れ替えつつも継続したのだと、捉えることもできる。同倶楽部にはその後も、実業団体出身者2名(うち1名は日曜会を経て)、自由党出身者3名の参加があった。一方で離脱者も7名出た。大手倶楽部の出身であり、実業同志倶楽部の結成に参加した4名、自由党から移って来たばかりであったが、新自由党の結成に参加した3名である。これによって、議員倶楽部に残る大手倶楽部出身者は、一時的に進歩党に参加した1名を含む、2名のみとなった。大手倶楽部の多数派であった進歩党不参加の議員のうちの半数強が、実業同志倶楽部の結成に参加したのである。

こうして21名となった議員倶楽部からは、議員辞職をした2名(自由党、立憲革新党の出身者1名ずつ)、無所属となった1名を除く18名が、公同会の結成に参加した。この公同会の結成には、以前議員倶楽部を脱して新自由党の結成に参加した3名も、他の新自由党の議員達と共に参加している。無所属となった1名も、結成後の公同会に加盟した。議員倶楽部の系譜は、より明確な親薩摩閥となっていったのである。

時をさかのぼって実業団体を見る。同派の解散を直接確認することはできないが、第2次伊藤内閣期最後の議会である第9回帝国議会の閉会後、消滅したのだといえる(解散前に3名が自由党に移っている)。そしてメンバーのうちの6名が、大手倶楽部系9名(うち5名は議員倶楽部を、1名は国民協会を経ている)、立憲革新党系4名(うち1名は議員倶楽部を経ている)、帝国財政革新会離脱者1名(同会の他の4名は全て進歩党の結成に参加)、会派に所属した経験のない無所属2名と共に、実業同志倶楽部を結成した。つまり、実業団体の一部が、進歩党にも議員倶楽部にも不参加の、あるいは議員倶楽部を脱した、元対外硬派の議員達と合流したのである。対外硬派の敵役ともいえる陸奥系と、長州閥の足元の山口県内から選出された議員達が対外硬派離脱者との合流に加わらず、陸奥系の一部を含む7名が、自由党離党者、進歩党離党者(元帝国財政革新会)の各1名と日曜会を結成した。自由党、進歩党、国民協会、議員倶楽部にも1名ずつ入った(自由党入りは岡崎邦輔)。

実業同志倶楽部は第2次松方内閣期、戦後経営に関する政府の提案を支持する議員達によって結成された会派である(青野権右衛門『日本政黨變遷史』314頁。1896年12月21日付読売新聞は「實業家代議士」と称せられる議員達が、「実業の發達を計らんが爲め現内閣を授くる」意向で実業団体を組織しようと奔走していることを報じている。この記事で挙げられた議員12名のうち、8名が実際に実業同志倶楽部に参加している)。松方が伊藤よりも消極財政志向であり、実業家に当時期待されており、営業税の増税などに反発していた実業派の支持を得やすい面もあったから、実業同志倶楽部は、第2次松方内閣の成立に際して、中立実業派が仕切り直されたものであったという以上に、参加した議員にとっては積極的なものであったのかも知れない(後に浮上した地租増徴も評価されるはずであった)。だが、同倶楽部の結成に参加した実業団体の議員等について、伊藤系、そして薩摩閥と、時々の優勢な勢力に寄っていたのだということもできる。なお、南野道親のように、結成後の実業団体に加わり、第2次伊藤内閣に協力していた自由党に移り、第2次松方内閣が成立すると、「商業上の都合」によって、内閣と協力関係にあった議員倶楽部に移った(1897年1月7日付東京朝日新聞。ただし議員倶楽部入りについては報じられていない)という例もある。実業同志倶楽部は、第2次松方内閣支持派の議員倶楽部に、合流を働きかけたこともあったようだ(1897年1月21日付読売新聞。議員倶楽部にも異存はなかったという)。しかし、同内閣を支持する公同会の結成には参加しなかった。

日曜会の中には、対外硬派の戦列に加わっていた議員も1名いる。しかしその1名である佐竹正詮は、対外硬派の戦線(立憲革新党)を早期(1895年12月)に離脱して、結成後の実業団体に加わっている。1896年3月27日付の読売新聞は佐竹について、佐藤里治と共に、「是迄常に政府黨と運動を共にし居る」としている(記事によれば山形県正義会は、進歩党に加盟するため、所属していた佐藤と佐竹に、-政府党と行動を共にし続けるのか-進退を決すべきだという最後の通知書を送り、回答次第で-引き続きそうするならば-両者と絶交することにしていた。2人は実業団体に加わっており、佐竹は後に日曜会の結成に加わって、進歩党には加わらなかった。しかし佐藤は実業団体から進歩党に移った-後に憲政本党を脱して議員同志倶楽部、甲辰倶楽部、吏党系の大同倶楽部に参加した-)。

日曜会に属したことのある議員の、会派の変遷は次の通りである。第5回以後の総選挙で当選したことのある議員に○を付した。結成後に実業団体に加わった、地価修正派の板東勘五郎がいることが目を引くが、日曜会に地価修正派の議員が多かったというわけではない(地価が高い地域の選出は大田、山本-共に和歌山県-、橋本-東京-、板東-徳島-)。なお、同会は実業同志倶楽部と所属議員の職を比較すると、実業派としての色がやや薄い。なお、小幡は結成の約2週間後に離脱しており、他に離脱を確認できる議員はいない。

○石谷薫九郎 実業団体(第4回総選挙後)→日曜会→憲政党→憲政党→立憲政友会
小幡儼太郎 実業団体(第4回総選挙後)→日曜会→議員倶楽部(再結成後の参加)

○大田信一  実業団体(第4回総選挙後)→日曜会→公同会→自由党→憲政党(旧)
倉島松男  自由党→実業団体(第4回総選挙後)→日曜会
佐竹正詮  同盟倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党→実業団体(第4回総選挙後)→日曜会
橋本省吾  帝国財政革新会→進歩党→日曜会

○板東勘五郎 実業団体(第4回総選挙後)→日曜会→山下倶楽部→日吉倶楽部→立憲政友会→大同倶楽部
森本省一郎 自由党(第2次伊藤内閣との連携に否定的であった議員達の1人であった)→日曜会

○山本隆太郎 実業団体(第4回総選挙後)→日曜会→公同会→山下倶楽部→立憲政友会

日曜会で第5回総選挙後も当選をした議員は4名だが、全員が自由党系に合流している。また、日曜会の小幡儼太郎は、自由党の会派に属すことはなかったが、自由党系に近かったようだ(伊藤之雄「自由党・政友会系基盤の変容―和歌山県を事例に―」305頁表1は、小幡を自由派としている)。

実業団体の一部が、第2次伊藤内閣と対立関係になった対外硬派の大手倶楽部を脱した議員達と合流し、一部が無所属となり、さらにその一部が別に会派を結成したのである。日曜会の議員達が対外硬派の離脱者との合流に参加していなかったこと、陸奥系(大田信一、山本隆太郎)を含んでいたこと、第5回総選挙後も議員を務めた4名全員が、自由党または立憲政友会に加わったことから、同会は、伊藤と自由党による政界縦断の動きと親和性のある勢力であったと考えられる(自由党を離党していた倉島、森本が親自由党であったというのは不思議に思えるが、対立していた土佐派の力が弱まったことで、そうなったのかも知れない)。

実業団体系で、実業同志倶楽部にも日曜会にも参加しなかった約17名のうち、第5回総選挙後も当選したことがあるのは8名である。そのうち7名が立憲政友会に参加しており、そのうちの4名が立憲政友会の結成以前に自由党系に加わっている(その中の2名は実業団体が存在している期間に自由党に移った。この2名の他に1名が、同時期にやはり自由党に移動した)。当時の陸奥系の議員には、日曜会に参加した者を含めて、自由党系に入る議員が多い。山口県内選出議員はそうではないが、同県では第5回総選挙で、伊藤との対立が和らいだ国民協会が復調し、その国民協会の山口県内選出議員達は、後に伊藤系と自由党系との連合体であった、立憲政友会に、国民協会の系譜(吏党系)を離れて参加する(第5、6回総選挙後の国民協会の山口県内選出議員は共に7名であるが、うち5名が双方に当選しており、立憲政友会に参加している)。実業同志倶楽部にも日曜会にも参加しなかった実業団体の議員達も、伊藤系と自由党系による政界縦断の動きと親和性があったのだと考えられる。1896年11月14日付の読売新聞は、「無所属議員中長州議員及紀州議員は先輩に対する義理上より新内閣を助けるを得ざるやも知れない」としている。つまり実業団体出身の山口、和歌山両県内選出の議員達は、第2次伊藤内閣と同じように第2次松方内閣を支えるような存在ではなかったのだ。同12月21日付は自社で調査した結果として、現内閣派を進歩党94名、準進歩党3名、中立議員倶楽部24名、実業団体16名の計137名、非内閣派を自由党102名、国民協会30名、紀州組4名、長州組4名、計140名としている。また、中立議員倶楽部というのがここで議員倶楽部としているもの、実業団体というのが、間もなく(1907年1月27日に)結成される実業同志倶楽部のことであるのが分かる。

実業同志倶楽部の議員のうち、第5回総選挙後も当選したことのある議員は8名いるが、立憲政友会を含めた自由党系に合流する議員は1名に止まる(自由党と進歩党が合流した憲政党に参加し、その分裂後は憲政本党に参加した1名は当然除く)。実業同志倶楽部に属したことのある議員のうち、第5回総選挙後も当選したことのある議員は次の通りである。○内は第5回以後で当選した総選挙、その次に記したのは、その総選挙の時、あるいは後に所属した政党、会派である。

木村誓太郎  ⑤山下倶楽部、⑥憲政党、憲政本党、⑦憲政本党

小坂善之助  ⑦立憲政友会

佐々木政乂  ⑥中立倶楽部、⑦-

竹村藤兵衞  ⑤山下倶楽部

谷澤龍蔵   ⑤山下倶楽部、⑦帝国党、⑨帝国党、大同倶楽部

前川槇造   ⑤山下倶楽部、⑥同志倶楽部、日吉倶楽部、中立倶楽部

松尾寛三   ⑤山下倶楽部

渡辺新太郎  ⑫-

改進党系と合流している議員も1名に過ぎず、多くが中立会派に参加している(そこから吏党系に進んだ議員も1名いる)。なお日曜会で第5回総選挙後に当選した4名のうち、中立会派に属したのは、山下倶楽部に属した板東勘五郎だけであった。繰り返しとなるが、1895年12月25日付の東京朝日新聞が、実業団体のうちの紀州派5名、山口派3名、目黒貞治が常に自由党の事務所に出入りしていると報じていること、同じく繰り返しとなるが、原善三郎、佐藤昌蔵、目黒貞治らの団体の密約に、「第九議会で万一解散となれば自由党と同じく再選の運動を為すこと」とあることからも、原、目黒らの実業団体が、自由党と近かったことが窺われる。対外硬派の戦列に加わっていた大手倶楽部は当然、会派としては立憲改進党に近かった。つまり実業家中心の2つの会派には、2大民党のうちのどちらに近いのかという差異もあったのだ。ただし原は、自由党と対立関係にあった第2次松方内閣寄りとしてスタートした、実業同志倶楽部を結成した。

以上から、強硬になり、政党化へと進んだ対外硬派の共闘を脱して、政権を握る薩摩閥にも特別には接近しようとしなかった実業家等の進歩党不参加者が、実業団体系の一部と合流し、中立実業派の会派が再編されたことが分かる。実業団体系では、対外硬派の敵役ともいえる陸奥系と、長州閥の足元の山口県内選出議員、その他の一部が、この対外硬派の戦線離脱者との合流に加わらなかった。そしてこのうち、陸奥系、その他のそれぞれ一部が、日曜会を結成した。実業団体は、第2次松方内閣寄りの中立(実業同志倶楽部)と、より厳正な中立(無所属となった山口、和歌山両県内選出議員と、和歌山県内選出議員の一部を含む日曜会)に分かれたのである。前者は、内閣が代わっても政府寄りの中立という立場を維持し、後者は多くが伊藤系、自由党系と比較的近く、新内閣との距離をやや広げたと考えられるのである。

注意しなければならないことがある。それは、「第2次松方内閣寄り」と「親薩摩閥」が異なるということである。実業同志倶楽部は、第2次松方内閣の戦後経営を支持した。だからといって、薩摩閥以外の勢力が中心となる内閣であった場合、同倶楽部がその戦後経営を支持していなかったということには、当然ならない。対外硬派であった大手倶楽部の多くが、第2次伊藤内閣と対立することに消極的であったことを考えれば、むしろ、支持していたと考える方が妥当である。政策的にも、伊藤と松方の考えが完全に一致していたわけではなくても、薩長閥政府であることに変わりはない両内閣の戦後経営に、大きな差異が生じるということは考えにくかった。確かに第2次伊藤内閣の戦後経営は、松方が蔵相を辞任した後、軍拡が強化され、新たに大量の公債を発行しようとする、より積極的なものとなった。そして募債に行き詰まり蔵相が辞任した。しかし、それは薩長閥の総意に近い政策であった。中立実業派の議員達が、松方辞任後の第2次伊藤内閣に対して期待はしぼんでも、明確に反対する姿勢を示していたことを、確認することもできない。また実業同志倶楽部が、親薩摩閥の諸勢力の合流、つまり公同会の結成に参加するということもなかった。

このことを念頭に置くと、実業団体系の分裂には、第2次松方内閣寄りの中立(実業同志倶楽部)と、より厳正な中立(無所属となった山口、和歌山両県内選出議員と、和歌山県内選出議員の一部を含む日曜会)に分かれたのだという以外に、もう1つの面があったということが分かる。中立実業派が、伊藤系、自由党系と比較的近い中立の勢力(山口、和歌山両県内選出議員と、和歌山県内選出議員の一部を含む日曜会)と、特定の勢力に寄らない、つまり時々の政権に寄る傾向のある中立の勢力(実業同志倶楽部)に分裂したという面である(第2次松方内閣成立当初は松方に期待する実業家が多かったが、彼らのうちで伊藤に寄っていた議員達は、やはり時々の政権に寄っていたのだと評価すべきである)。実業団体の中で、政界縦断支持・容認の傾向が強い議員達が、対立関係にあった対外硬派の一部との再編に参加しなかったことで、時の政権に寄る傾向を持たない中立実業派(と無所属)と、持つ中立実業派に、実業派がより明確に整理されたのだといえる。

実業団体分裂の2つの傾向を整理すると、図④-Bのようになる。

 

図④-B:実業派の再編と中立性

・中立と捉えられる会派を□で囲み、政府寄りという面が、(ないとまでは断言でいないという意味で)とても小さい場合、つまり中立派であるなら、厳正中立といえる場合、「会派名」で示した。

※日曜会が比較的厳正な中立だというのは筆者の判断であり、同会がそのようなことを掲げていたというわけではない。

 

図④-B:実業派の再編と中立性

中立派を□で囲んだが、実業団体は自ら明言していたわけではないものの、限りなく準与党に近かった。これまでに見てきた通りである。

実業団体と大手倶楽部は明確に対立する陣営に位置していたわけだが、それが遼東半島還付の影響を受けた対外硬派の野党色の強化、その延長にあった進歩党の結成を契機に崩れた。崩れた背景には、条約改正の実現、戦後経営に対する高い関心によって、対外硬軟が対立する必然性が乏しくなったこともあった。議員倶楽部に参加した大手倶楽部出身者は、政府(≒伊藤系)と対立することに消極的であったわけだが、彼らには「親伊藤系」ではなくても「薩摩閥と近い」という拠り所が、おそらく薩摩閥、後藤象二郎、他の議員倶楽部参加者達によって、用意された。

実業家中心の会派は、一方の再編を経て、内閣寄りの中立と、内閣寄りではでない、中立を標榜する会派が分立する形に変化したのである。2つの会派の差異は、第2次伊藤内閣寄りの中立と、対外硬派の一角を占める勢力が分立していた時より、小さくなった(対外硬軟の差異が完全に消失したわけではなかったが、伊藤系と近いのか、薩摩閥と近いのかという差異の方が重要なものとなった)。そして内閣の交代が、双方の再編を伴い、一部の議員の内閣に対する立場を、入れ替えたのである。

内閣が交代したといっても、薩長閥による内閣であることに変わりはなかったのだから、薩長閥の不統一がなければ、立場が入れ替わる議員がいるはずは本来ない。だから、実業家中心の会派の再編の要因に、薩長閥の不統一があったといっても、過言ではないといえる。

実業家中心の会派の再編は、第2次松方内閣寄りの中立と厳正中立への分化、そして伊藤系、自由党系と親和性のある勢力と、時々の政権に寄る傾向のある勢力への分化という、2つの段階から成っていた。このことは、再編の性質を不明瞭なものとした。中立という大きな括りの中に、親伊藤系、親薩摩閥、親自由党系、また視点を変えれば、時の権力に寄ろうとする議員達、少なくとも表面的には厳正な中立であろうとする議員達が、その時の外部の情勢によって、異なる壁で区切られて存在している状態になったのである。その区切りが政策によるものであれば、新たな課題が浮上することで実業派、中立派が仕切り直されるということに、意義を認めることができる。しかし再編は、これまで見た通り、そのようなものではなかった。

ただしこの再編には、1つ有意義であったといえる面がある。それを確認するためには時代を遡らなければならない。

帝国議会開設当初の中立派と言えば、独立倶楽部の系譜であった。それが分裂、無所属議員との合流を含めた再編をしながら、和歌山県内選出議員(陸奥系の紀州組)を除いては、会派に注目して見た場合、対外硬派として野党陣営に移った。確かに移ったのだが、政務調査所などは対外硬派の中心であった。むしろ、国民協会全体や立憲改進党が、内閣の中心であった伊藤系の自由党系との接近を見て、対外硬派の陣営に移り、そのことが対外硬派の野党的な面を強めたのである。ここで言う野党的というのは、単に条約改正に限って内閣に反対するのではなく、内閣と全面的に争うということである。

国民協会は、伊藤系が中心となった内閣さえ倒れれば、再び薩長閥政府支持派に戻ることができた。立憲改進党は、薩長閥政府を窮地に陥れることで、野党としての力量を誇示することができたし、それを自らが中心となる政党内閣の実現という、困難な目標の達成につながる、1つの段階とすることができた。非2大民党系・非吏党系の対外硬派の議員達は、この2つの勢力、立憲改進党と国民協会に裂かれた。

結成時の大手倶楽部のメンバーを見ると、第3回総選挙で当選しているのは、25名中8名である。その中の2名は会派、大日本協会・政務調査所派に属していた。第2回総選挙で当選しているのは3名である。その中の2名は会派、政務調査所に属していた(1名は第3回総選挙の当選者と同じ植田理太郎)。当時は、総選挙における議員の入れ替わりが、政党以外では特に激しかった。だから2名という数を軽視することはできない。大手倶楽部は第3回総選挙後の中立実業3会派の対外硬派寄りの議員による会派であると当時に、第2回総選挙後の一般的中立のうちの、対外強硬派の流れも一定程度組んでいたのである。同倶楽部は無所属の対外強硬派が集まった会派であったのだから、当然と言えば当然だ。

その大手倶楽部から、2名が国民協会に移り、政務調査所、大日本協会・政務調査所出身の2名を含む8名が、立憲改進党との合流(進歩党の結成に)に参加したのだ。これによって大手倶楽部は消滅し、所属議員は散り散りになった。しかし実業同志倶楽部の結成によって、旧大手倶楽部系25名のうち、国民協会に移った2名のうちの1名を含む9名が、9名ではあるものの、再度固まり(その中に進歩党参加者はいなかった)、しかも伊藤系・自由党系寄りの傾向を持っていた実業団体の一部と1つの会派になった。

つまり実業同志倶楽部の結成は、対外強硬派の一般的中立、対外強硬派の中立実業派、対外強硬派でない中立実業派の合流であったのだ。個々の議員を見た場合、一般的中立の会派に属していた者はいなかったが、会派の離合集散に注目した場合、新たな中立実業派の箱に、薩長閥の対政党・衆議院に関する方針などの不統一、第2党の再編による拡大を背景に、立場を変えたり、分裂したりした中立派が集まるという動きが実現したのである。中心となったのは実業派の議員達であったから、実業家層の利害の代弁の必要性から中立実業派が発展し、その発展が結果として、一般的中立の系譜を吸収するものとなったという方が正確だ。

確かに、無所属となった中立派等が多かったために、「箱」は小さく、実業団体系が分裂したことで、中立実業派の分立も改まらなかった。しかし分化と同時に、結集の前兆は確かに見られたのである。それは、対外硬派の第2次伊藤内閣への対抗・第2党の第1党への対抗を背景とした実業派の分化が、進歩党の結成、条約改正の実現と戦後経営に対する関心、税制等に関して実業家の利害を代弁することの必要性が高まったことによって収まったからだと考えられる。中立実業派の分立が完全には解消されなかった背景には、薩長閥の不統一があった。

最後に、実業家を中心とした会派の再編成を、規模に注目して改めて評価したい。かつての中立派、当時の実業派の結集の一段階とし得る再編として、実業団体、大手倶楽部という、当時は解散していた2つの会派を横断する形で、新会派、実業同志倶楽部が結成された。しかしそれは22名と、旧2会派の1つよりも小さな勢力に留まった。そして実業団体系は少なくとも3つに分かれ、もう1つ、小規模な中立実業派が誕生した(結成時9議席、間もなく8議席となった日曜会)。実業家中心の会派は2つのままであり、2つの相違は以前よりも不明瞭なものとなった(帝国財政革新会を含めれば3つから2つに減ったということになるが、同党は進歩党の結成に参加した後、中心人物の田口らが進歩党を離れて同志会を結成したのだから、そのような見方をしたところで、あまり意味はない)。また実業家中心の勢力は、民党(立憲改進党を中心とした野党の合流と、自由党)に議席を削られただけではなく、無所属に変わる議員も少なからず出たことで、議席数の上では、横断的な再編のメリットを打ち消されるだけのダメージを負ったのだといえる(一体性を要求しない会派には少数精鋭も何もないから、「ダメージ」と言って良いと思う)。

つまり、実業家中心の会派の再編は、議席を減らした上に1つにまとまることも出来ず、失敗に終わったと評価せざるを得ない。もっとも、議員達が失敗に終わったことを認識していたことは確認できない。このことにも、当時の実業家中心の会派の問題点が現れているのだと思う。

ただし分化と同時に、実業家中心の会派が、分化から集合へと転換する前兆ともいえる動きが見られ、また実業派が一定の存在感を維持していたことも確かである。1896年12月17日付の萬朝報は、議長選について「進歩黨ハ自由黨國民恊會及實業派の形成と意向とをつきとめたる上にて」と、実業派を挙げている。1897年11月5日付の同紙は、公同会が、「早くも自由黨、國民恊會、實業派等の議員に向つて増税賛成の交渉を始め」たとして、実業派を挙げている。しかし、これらの記事が掲載された当時、中立実業派がどのような理念、政策を持った会派であったのかということは、報道されていない。この点が変化するのが山下倶楽部であった(第5章参照-⑦等-)。