日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
国民党

国民党

国民党:国民党とは、1897年12月に、中江兆民らが結成したものである。中江は第1回総選挙後、土佐派等が薩長閥政府(第1次山県内閣)に寄る姿勢を採ったこと(自由倶楽部の結成)に反発して、衆議院議員を辞した。彼はその後、実業家となったのであるが、第2次松方内閣の総辞職が確実となっていた当時、政界に戻ろうとしたのである。ただし、国民党は『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部には現れていない。開院式の翌日に衆議院が解散された第11回帝国議会、その開院式の2日前に結成され、つまり帝国議会をまともに経験せず、そして初めて迎えた第5回総選挙で当選者を出すことができず、消滅したからである。下に挙げる研究から分かる衆議院議員の参加者は、鈴木重遠のみである。鈴木は愛媛1区(第2回総選挙までは同4区)の選出で、第1回総選挙で大同倶楽部の候補として当選して以来、立憲自由党、自由倶楽部、大成会、巴倶楽部、同盟倶楽部、公同倶楽部、立憲革新党、進歩党、同志会と歩んだ。つまり、当時は同志会のメンバーであった。その後、憲政党、憲政本党と歩み、改進党系を再度離れ、三四倶楽部の結成に参加した。鈴木については、補論で述べた。2度も変化する改進党系を離れ、新民党を結成した、野党的な議員であった。また対外強硬派でもあった。国民党は結成時、衆議院における勢力が僅か1議席であったのだ。しかも唯一の衆議院議員であった鈴木は、党結成の前日に、田口卯吉ら他の進歩党離党者達と、同志会を結成したばかりであった。鈴木は、薩長閥にすり寄ってポストを得ようとする進歩党の姿勢に反発していたし、田口も鈴木も、進歩党が薩長閥の積極財政志向に妥協する姿勢を見せたことに反発していた(補論㉒等参照)。2人は共に憲政党(自由党や進歩党の合流)に参加したが、その分裂以降、田口は中立実業派とし得る会派に属すようになり、筆者が新民党に分類しているような勢力に属すことはなかった。国民党の結成は、共に薩長閥政府に否定的であった鈴木と田口の差異を、はっきりさせるものでもあった。鈴木に関しては、1898年1月24日付の東京朝日新聞が、鈴木が百零一(国民党の機関誌)に頼まれて寄稿しただけで、国民党に参加したのではないとしたことを報じている(註1)。そうであれば、国民党には一度も衆議院議員がいなかったことになる。

下に挙げる研究と当時の報道から分かる、衆議院議員を経験していた、または後に経験する国民党参加者は、次の通りである(註2)。選挙区、所属会派の遍歴も付記した。

中江兆民(中江篤介)大阪4区 立憲自由党

初見八郎      茨城4区(後に同郡部)独立倶楽部(第3回総選挙後)→憲政党→憲政本党→三四倶楽部→同志倶楽部(第7回総選挙後)→立憲同志会→憲政会

高橋庄之助     群馬県郡部 立憲政友会→自由党

小山久之助     長野5区  憲政党→憲政本党

中江には、先に述べた議員辞職の件がある。初見は第6回帝国議会で、上奏案について対外硬派と同じ投票行動をとっている(第3章第3極実業派の動きキャスティングボート(①③⑤)の表③-C参照)。小山は4千円で増税案(≒地租増徴)への賛成を約束したが、実際には反対に投じ(註3)、次の第14回帝国議会において、前金として受け取った2千円の小切手を示し、暴露した件で有名である(註4)。高橋以外は、民党的な立場を採っていたことを確認することができる。また鈴木重遠は、猟官に反発して進歩党を離脱し(補論㉒参照)、後には増税容認に反対して憲政本党を脱し、三四倶楽部を結成した(補論⑮等参照)。以上から、国民党のカラーが見えてきたといえるだろう。

この国民党については、松永昌三氏の『中江兆民評伝』第七章第二節「国民党結成と『百零一』」が詳しい。その一部をごくごく簡単に紹介したい。自由、改進両党の合同、つまり民党進歩派勢力の大合同は、藩閥政府を打倒し政党内閣を実現する大前提であるとの認識から、中江の念願であった。薩派官僚内閣といわれた第2次松方内閣の政策は、大ブルジョアジーの保護に重点がおかれ、地主階級の一層の寄生地主化を促進し、また軍拡を推進した。自由、改進両党が藩閥政権との提携に走り、ただ利権を貪る政党に変質したと考えていた中江には、政治活動に打って出ようとすれば、新しい性格の政党を創立する以外になかった。中江は、明治政府、明治政府と提携する既成政党、その背後にある大資産家(大ブルジョア・大地主階級)に対抗するため、それ以外の国民諸階層の結集を呼びかけた。彼は『太陽』に発表した「国民党の本分」において、提携は一歩二歩と政党勢力を伸ばし、政党内閣の実現を期そうという趣旨ではあろうが、その実藩閥政権の延命に手を貸すものであって、維新前の公式合体論と同様の俗論であり、薩長藩閥は政党に政権を移譲する気は全くないとした。国民党の唯一の目的、本分は、国民的基盤に立つ純然たる政党内閣を擁立することであった。同党の政鋼は、次の七項目であった。

第一条 選挙法ヲ推拡シ普通選挙ノ地ヲ為ス事

第二条 言論出版ノ自由ヲ完全二スル事

第三条 法官ノ独立ヲ鞏固二スル事

第四条 教育ハ普及ヲ主トシ小学ハ無月謝ノ制度二改ムル事

第五条 軍備ハ既定ノ計画ヲ完成スル事

第六条 経済ハ内外ヲ隔離スル堤防ヲ全然撤去スル事

第七条 租税ハ公平二賦課シテ偏重ノ弊無ラシムル事

特徴的なのは、第二条の言論出版の完全な自由、第三条の法官の独立の保障、第四条の小学校授業料の廃止の三項目で、第五条は、兆民をよく知る者から強く批判された。国民党は、国民の生活に根ざした意思に誠実に応え、国民の先頭に立って進むことを宣言した。国民党の機関誌『百零一』の、おそらく第四号の中江兆民の論説は、日清戦争において、日本陸海軍の大光栄が刻まれた旅順口威海衛が、日本政府の無外交のために英露に奪取せられ、日本外交は大恥辱大滑稽だとした。第5回総選挙で当選者を出すことが出来なかった国民党は、憲政党の結成に参加した。

当時の報道にも、国民党は現れている。1898年1月12日付の東京朝日新聞等に、士族の商法が振るわない中江篤介(兆民)が「里心を起して」結成したとある。松永昌三氏の『中江兆民評伝』は、「何もかも中途半端に手を出して効果は全然挙がらないという悪循環に陥入っていた」としている。この「何もかも」には、国民党結成当時に失敗が明らかとなっていた複数の事業と、国民党の結成が含まれている(註5)。初見八郎は各種会社の重役を務め、高橋庄之助は専売特許製瓦株式会社を創立し社長となっていた。鈴木には実業を営んでいたという経歴はない、小山も新聞の刊行以外は同様である。彼らが実業に失敗したことで政治に(再び)手を出したとするのに十分なだけの史料がない。

筆者の分類でいけば、国民党は明らかに新民党に属する。対外強硬姿勢を採っていた点、2大民党に合流を唱えていた点(中江-1900年6月26日付東京朝日新聞-)も、他の新民党の多くと共通している。新民党のうち、自由党の分派は、一定の成功を収め、第2党の刷新に一役買う存在であったといえる(補論⑬~⑰等参照)。しかし国民党を同様に評価することは、とてもできない。2大民党の合流においても、それによってできた憲政党内においても、(旧)国民党系の存在に目を引かれることはない。その原因は、国民党の規模が小さすぎたことにある。自らの役割を果たすには、国民党の議席数はあまりに少なかった。国民党は会派を形成していなかったため、衆議院では同志会のうちの1名という以上のものではなかったし、その1名の国民党員としての存在も、上に見たように確かなものではなかった。院外に強力な勢力があったことも確認できない。まだ日本の議会史上最も厳しい条件の制限選挙であった当時、進歩的な国民党が、(それだけで)有権者を特別魅了する存在であったとは言い難いし、薩長閥に対抗し得る政党は、大きなものが一応あった(第5回総選挙の当時、少なくとも進歩党は野党であった)。薩長閥に否定的な有権者達は、結果として、理想を掲げる小政党(の候補者)よりも、薩長閥との対立と妥協を繰り返した大政党(の候補者)を選んだ。もっとも、第5回総選挙で国民党の候補が立っていたといえるのは、群馬5区の高橋庄之助くらいである。鈴木重遠は、愛媛1区から立候補して同じく落選しているが、愛媛同志会(補論㉓参照)の候補としてであった。

国民党は、他の新民党のような、民党の分派でも、吏党系にルーツを持つものでもなかった。例えば、中江は確かに立憲自由党の出身ではあったが、衆議院議員を辞して同党を離れてから、国民党の結成までに約7年が経っていた。つまり、国民党はそれまでの新民党のように、大勢力を割ることで得られた一定数の議席が先にあり、人物を選ぶ風潮が強かった中で、すでにある議席(前議員の数)を武器に勢力を守り、わずかでも議席を増やそうとするようなことは、できなかった(当時は上に見たように、進歩党の離党者達による同志会すら、そのような意欲が欠けていた)。国民党から学ぶことは、あたりまえのことだが、重要なことである。それは大政党を割らずに、つまり議席0か、それに近い状態から躍進することが、不可能に近いということである。選挙制度等によって、その難易度は多少変わるだろう。しかし様々な選挙制度を経験した日本の議会史を見渡してみても、1992年結成の日本新党など、短期で躍進した例はわずかしか見出せない。稀に見る大躍進を見せた2012年結成の日本維新の会でさえ、民主党やみんなの党のそれぞれ一部を切り崩し、太陽の党と合流して総選挙に臨んだ。国民党が影響力を持とうしていたのなら、同志会をはじめとした、第3極の野党的な勢力と、差異はあっても急いで会派くらいは組むべきであった。有権者の意識を変えることも大切なことであるから、妥協を排したいというのなら、他の勢力と合流せず、地道に活動を続けるべきであった。憲政党の結成に参加せざるを得なかったことは理解できるが、国民党が2大民党の双方を批判していたことも確かである。

註1:1898年1月24日付東京朝日新聞。

註2:鈴木、小山の参加については松永昌三『中江兆民評伝』(下)251、264頁、初見、高橋、小山の参加については、1898年2月7日付東京朝日新聞。

註3:「憲政本黨黨報」第三号55~56頁、1898年12月22日付東京朝日新聞』。

註4:升味準之輔『日本政党史論』二317頁。

註5:松永昌三『中江兆民評伝』(下)第七章第一節に、中江の実業家としての活動についての記述がある。彼が国民党を結成して政治活動を再開させていた時期と、重複しているものもある。引用した部分は250頁にある。

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