2.キーワードで考える日本政党史

第6章 ~1898年8月、第6回総選挙~

①選挙結果

憲政党263(→自由党系の憲政党112、改進党系の憲政本党138)、

国民協会20、無所属17(→同志倶楽部10)、計300

初めての政党内閣、それも圧倒的な1党優位の状況下での総選挙であった。優位政党であるだけでなく、政党内閣の唯一の与党となった憲政党は、結成時からの議席上の優位、当時の勢いによって圧勝し、同党1党が、衆議院の定数の約85%を得るという結果となった。同士打ちを避けるために前職を優先する、自由党系と進歩党系の選挙協力も行われたが、全体的にはうまく機能せず、自由党系と進歩党系の同士打ちが多発した。

 

②政党内閣の姿勢

憲政党内閣が進めようとした行政整理は、官僚の抵抗、積極財政志向の自由党系と、消極財政志向の進歩党系との思惑の相違などから、難航した。大隈と同じ肥前出身の松田大蔵大臣は、自由党系でありながら行政整理に積極的であったが、下級官吏削減と少しの俸給減額がなされるにとどまった。薩長閥でも、進歩党系の路線に否定的な者が多く、大隈総理は、日清戦争後の積極財政路線を大きく転換することができなかった。板垣内務大臣が、自らの管轄下にあった警視庁の廃止を阻止するなど、自由党系が、進歩党系中心の改革を阻んだという面がある(警視庁は薩長閥の牙城として、民党に敵視されていた)。閣僚数では進歩党系が自由党系よりも多かったが、財政(整理)について、陸海軍両大臣を出す薩長閥と、自由党系の方が、進歩党系と自由党系よりも近いという面もあった。進歩党系が積極的であった政務と事務の分化も、党員がより多くのポストを求める中、自由党系が自由任用を主張したことから挫折した(現在の各省の政務次官のような勅任の参与官を置き、参事官が参与官に移行することとなった。参事官というポストは政党員の就官に使われていたが、事務次官にも資格が必要とされていたわけではなく、政党内閣となったことで、政党員が就いていた)。自由党系は私設鉄道の買い上げによる国有化を主張していた。戦後恐慌に苦しむ実業家などに、それを求める声があったが、民業が圧迫されるとして、進歩党系が反対した。公債募集が難しい状況下、第1次大隈内閣(憲政党内閣)は、地租増徴によらない、酒造税、所得税の引き上げ、砂糖税の新設、たばこの専売価格引き上げなどによる歳入増を策した。ただしそれでも、地租増徴の回避は困難であり、自由党土佐派、関東派は、地租増徴容認の姿勢を固めていく(旧山下倶楽部系の一部や田口卯吉、進歩党系の島田三郎も地租増徴を支持していた)。政党内閣らしいこととしては、教職員、学生の政治運動を禁止する通達、省令の廃止(尾崎文部大臣)があった。

 

③憲政党の分裂

1998年10月に、進歩党系の尾崎行雄が文部大臣を辞任した。日本が共和政であったなら三井か三菱が大統領候補になるという、金権政治を批判し、むしろ共和制を否定した演説について、共和制を引き合いに出すこと自体を、(その志向を持っているのではないかと)問題にされたためであった。進歩党系に批判的な自由党系や薩長閥が、ことを大きくしたのであった。自由党系では、星駐米公使が、大隈総理大臣兼外務大臣の指示を事実上拒否して帰国、進歩党系との分離を策して動き始めた。自由党系は、尾崎の後任の文部大臣のポストを求めた。自由党系は、大隈が外務大臣の兼務を続けていたことに反発しており、自由党系の関東派を中心に、入閣者がなかった同派の星を外務大臣とすることを求める声があった。自由党系の土佐派は、同派と近い、伊東巳代治(伊藤系)の就任を期待していたが、全党ではなく自由党系だけが望むのでは難しく、伊東にもその意思はなかった。そのような状況下、大隈総理は、自由党系の同意なしに、進歩党系の犬養毅を文部大臣に就けた。これが自由党系と進歩党系の対立を決定的にした。党の総務委員4名の中で、入閣した進歩党の犬養が不在であったことを利用して、自由党系の2名は、協議会を開くことを決め、その協議会を党大会にして、解党を決定した。そして自由党系による新党である、憲政党が10月中に結成された。進歩党系は、板垣内務大臣ら自由党系閣僚に辞表を出され、憲政党という名前も使えなくなった。内務省が集会及政社法により、解党決議を無効にするための党大会を、すでに解党していることを理由に、つまり自由党系の主張通りに禁じたからである。進歩党系は間もなく(11月に入っていた)、憲政本党を結成した。旧進歩党を継承し、同時に残留派という面を持っていた憲政本党は、衆院勢力で憲政党を上回って、第1党となった。持論の民党共闘路線を、古巣の自由党系に壊された河野広中らの同志倶楽部系は、憲政本党に参加し、河野は党総務委員となった。また、自由党系の憲政党には、伊藤系で、かつて大成会、協同倶楽部、中央交渉部の衆議院議員であった末松謙澄、後藤系であった井上角五郎(中央交渉部分裂後は、第4回総選挙後の一時期実業団体に属した以外は無所属であった。外資輸入、鉄道国有、軍拡、民業振興で憲政党と一致し、中立でいる必要なくなったとしている-『井上角五郎先生伝』250頁-)、陸奥系であった岡崎邦輔(独立倶楽部、紀州組、第4回総選挙後の実業団体に属してきた)、本来自由党系の土左派であった大江卓、竹内綱(共に第1回)が入党した。井上、大江、竹内は、薩長閥政府と妥協して、1891年に立憲自由党を脱した者達であり、伊藤系として挙げた者達を含め、井上が衆議院議員、末松が貴族院男爵議員であった以外は当時、帝国議会の議員ではなかった。

 

④第1次大隈内閣の退陣と第2次山県内閣の成立

憲政本党単独政権では衆議院において過半数に届かず、そもそも大命(組閣の命令)が、大隈1人にではなく、大隈と板垣の2人に下っていたことから、第1次大隈内閣は、成立当時の正当性を、当時の基準で見た場合には、失っていた(憲政本党が衆議院第1党であり、同党を上回る規模の野党連合すらなかったのだから、現在で言えば正当性がある)。このため、第1次大隈内閣は総辞職を余儀なくされた。政党に否定的な山県系、第2次松方内閣で協力関係が破たんした薩摩閥が特に進歩党系に否定的であったことから、貴族院など、他の機関の支持を得ることが難しく、支持基盤となるべき衆議院ですら過半数に届いていなければ、内閣の存続は難しかった。そして1898年11月、第2次山県内閣が成立した。山県は憲政党(自由党系)との提携を策したが、山県が板垣を内務大臣、星を司法大臣に就けようとしたのに対し、憲政党が4つの閣僚ポストを要求したため、実現しなかった(升味準之輔『日本政党史論』二303頁)。その際国民協会は、とりあえず2名の入閣で折り合うよう、憲政党に働きかけた(1898年11月7日付萬朝報)。その国民協会のみを衆議院における基盤として船出した第2次山県内閣であったが、山県は国民協会の領袖、和田彦次郎衆議院議員を農商務省の農務局長とする以上に、同党を優遇することはなかった。そして、議会対策上政党を無視することができず、憲政党との協議を続けた。第2次山県内閣は、内閣の方針に憲政党の網領を採用し、同党の鉄道国有化、選挙権拡張の主張を採用すること、同党との連携と、超然主義の不採用を公表することを約束、11月中にも提携は実現した。薩長閥側が憲政党を援助することも、提携の事実上の条件であった。こうして衆議院に、憲政党、国民協会、無所属議員による、過半数の基盤が一応は形成され、内閣は議会を乗り切れることとなった。ただし、それはあくまでも無所属の多くを、内閣支持派に数えた場合であり、確かなものではなかった。山県は、憲政党の求めていた陸軍、海軍両大臣を除く閣僚の入党(憲政党からの閣僚の採用に代わる案)、地租増徴の先延ばしについては同意しなかったから、火種も残った。

 

⑤同志倶楽部の結成

1898年11月、無所属議員が同志倶楽部を結成、12月に日吉倶楽部と改称した。基本的には、地租増徴に反対するなど、野党的な立場を採った。第13回帝国議会では憲政党、憲政本党、無所属の一部と共に、1898年12月、営業税法を改善する法案を提出した。これは衆議院では修正の上で可決に至ったが、薩長閥政府が否定的であり、貴族院で審議未了となった。

 

⑥衆議院正副議長選挙

1898年11月召集、12月開会の第13回帝国議会(特別・通常会、~1899年3月)からは、各会派が役員と所属議員数を届け出るようになった(川人貞史『日本の政党政治1890-1937年』109頁。また第12回帝国議会からは、特別委員を議長が指名する際、あらかじめ各会派の議員数に応じて按分して候補者を決め、議長がそれを指名するようになった)。衆議院の議席は第15回帝国議会より部ではなく会派ごととなるが、帝国党(国民協会の後継政党)はそれに反対していた(1900年12月21日付東京朝日新聞)。政府と憲政党が提携する前のことであるが、国民協会は、憲政党の片岡衆議院議長の再選を助け、国民協会の元田副議長も再選された。

 

⑦第2次山県内閣の超然主義、地租増徴と憲政党

第2次山県内閣の課題は、先送りとなっていた地租増徴であった。全国の大物実業家達は1898年12月に地租増徴期成同盟会を結成していた(渋沢栄一、岩崎弥之助、大倉喜八郎、藤田伝三郎、安田善次郎らの他、馬越恭平、大江卓、片岡直温といった、衆議院議員経験者も)。憲政党(自由党系)にも、地租増徴に反対する議員は少なくなかった。同党では、政務調査会、代議士総会が地租増徴が不必要であるということを決議し、要人では松田正久、杉田定一、つまり九州派(九州派、つまり松田派は、杉田の北陸信越派に影響力を持っていた)が地租増徴に否定的であった。政権奪還を願う憲政本党(改進党系)は、地租増徴に反対はしていたものの、薩長閥と対決することには腰が引けていた。結局、地租増微は可能な限り小幅にとどめ(制定時は3%、1877年に2.5%、政府案が本来4%であったものを、5年間に限り3.3%に。ただし一律1.5%の引き上げを、田畑0.8%、市街宅地2.5%とし、市街宅地は5%となった)、あとは他の増税によって埋め合わせるということで、内閣と憲政党の合意がなされた。星はこの際、監獄費を国庫支弁とすること、議員歳費の増額を山県に呑ませた。監獄費の国庫支弁は民力休養への薩長閥側の対案として、第1次山県内閣期にすでにあらわれており、次の第1次松方内閣が帝国議会に提出していた(村瀬信一「「吏党」大成会の動向」62頁)。こうして地租増徴案が、状況の変化によって生じた不平等を、引き下げによって是正する田畑地価修正案と共に成立した。この際、日吉倶楽部入りした田口卯吉、憲政本党から日吉倶楽部に移った島田三郎らも同調した(田口の日吉倶楽部加盟は『議会制度百年史』によれば第14回帝国議会開会当時であるが、萬朝報、塩島仁吉編『鼎軒田口先生傳』164頁では、この当時から日吉倶楽部の所属であるとされている。1898年12月20日付の読売新聞は日吉倶楽部を、『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部の10名より2名多い12名とし、田口を、その所属のように扱っている-もう1名は1898年12月21日に憲政本党を脱し、翌年2月6日に日吉倶楽部入りをした島田三郎だろうか-)。酒税増税、醤油税増税、葉煙草専売価格の引き上げ、営業税増税、所得税法改正(法人所得税導入など)の、各増税案も成立した。この際、憲政党の星亨は、キャスティングボートの一角を握った党内の地租増徴反対派をけん制するためにも、憲政本党の切り崩しを策した。具体的には、実業家の小山田信蔵に、横浜の埋め立て許可を見返りに議員を買収させ、期待していた数には至らなかったものの、5名の離党届が集まった(升味準之輔『日本政党史論』二317頁)。憲政本党は、貴衆両院の議員等による地租増徴反対派の大懇親会が、集会及政社法によって解散させられたことに反発したが、元田衆議院副議長は同党議員の発言を許さず、紛糾した議場からの退場を命じるという、強圧的な姿勢を採った。この時片岡議長は欠席していたが、退場を拒否した憲政本党の議員達は、懲罰委員会において出場停止処分となった(『日本歴史大系』4近代一907頁)。山県総理は議会閉会後の1899年3月、文官任用令の改正により、奏任以上の文官を文官高等試験の合格者とし、親任官(国務大臣、公使、知事等)を除く勅任官について、奏任官からの昇進を原則とするなどして、政党員が官僚となることを難しくした。また文官分限令によって、親任官、大臣秘書官を除く官僚の身分保障を強め、政党内閣が再度出現するなどしても、官僚の入れ替えを政党が思いのままに行えないようにした。さらに、以上に関する改正を、枢密院諮詢事項とした。一方で文官任用令の除外例を拡大し(各省大臣秘書官、各省官房長―陸、海軍両省以外の次官を廃止して事務担当の総務長官、政務担当の官房長を新設―等)、改正の責任者たる内務次官などを辞職させることで、憲政党に一定の配慮をした。以上について伊藤博文は、官僚機構が閉鎖的になること、新たなポストの設置を含むことから、否定的であった(官僚が質に関係なく保護されるという面もあった)。さらに山県は1900年5月、政党が軍に影響力を持たないように、軍部大臣現役武官制を導入した。これによって、陸軍大臣と海軍大臣には、現役の軍人しか就けなくなり、軍部が大臣を辞任させて後継を出さないことが容易になった。後継がいなければ、内閣は存続できなくなるから、軍部の影響力は非常に強くなった。官制は天皇大権事項であり、以上について、法案の成立は必要なかった。これらに強い不満を持った憲政党はしかし、憲政本党に対する優位を獲得することを最優先とした。それは府県会、郡会の複選制(町村会で選挙)、高額納税者議員(大地主の互選)の廃止、つまり直接選挙への変更、そして地方選挙を有利に戦えるよう、薩長閥の協力を得ることであり、実現に至った。第13回議会において法案が成立し、1899年9月から10月にかけての選挙で憲政党、つまり自由党系は、内閣(薩長閥)の協力も得て、憲政本党(改進党系)に大差をつけた。

 

⑧憲政本党の不振

地租増徴反対派が賛成しやすくなる無記名投票となったことに反発して、地租増徴案の採決を棄権した憲政本党は、党内の強硬派を抑えるために、陸軍の軍備縮小を含む政費節減による、地租、醤油、郵便の3税復旧を求めた。その消極財政志向を採った同党が、福岡県若松港浚渫費補助追加案を提出したことについては、否決されただけではなく、同党に近い実業家への利益を図るものだと批判された。第14回帝国議会(通常会、1899年11月~1900年2月)における、予算案全部に反対するという、政費節減を求める憲政本党の尾崎の発言について、憲政、帝国両党が、予算に皇室費が含まれるため、不敬に当たると批判した。尾崎は、皇室費は予算案の一部ではないという見解を示して反論した。尾崎の発言を取り消させる決議案は、中立、無所属に賛成が広がらず、否決となった。憲政本党は、地租条例、郵便条例、醤油税則の各改正案を提出したが、いずれも125票前後の賛成、154~159票の反対で否決された。憲政本党の議席数は120弱であったから、党外に5名程度の同調者しか得られなかったことになる。この憲政本党の消極財政志向は、憲政党の利益誘導志向に比して、有権者層の支持も得られなかった。軍縮志向も、列強諸国による清国分割が進む中、同党に勢いを与えることはなかった。

憲政本党は、憲政党と帝国党(自由党系と吏党系)の協力、その後の、衆議院の過半数を上回る立憲政友会の結成(憲政党等)によって、1901年に立憲政友会が野党に転落するまで、常任委員の配分などでも、とても不利な状況が続く。

 

⑨日吉倶楽部の再結成、憲政本党の分裂と議員同志倶楽部の結成

日吉倶楽部は1899年3月に解散したが、同年11月に再結成された。憲政本党内には、選挙区の地価が高いために、地租の負担が重かったことから、地租増徴回避よりも地価修正を重視する議員がおり、彼らの一部は離党して地租増徴、地価修正に賛成した。彼らの中には政府側に切り崩された議員もいた。彼らは1899年11月、議員同志倶楽部を結成した。同派には、憲政党の離党者3名も含まれていた(このうち、憲政本党から憲政党に移っていた1名を含む2名が地租増徴に賛成に、1名が反対に投じている)。憲政本党は12月、内閣による議員の買収等を批判して、官紀振粛に関する上奏案を提出したが、党外に支持を得られず否決に至った。無所属議員が約30名いたのに対して、日吉倶楽部も議員同志倶楽部も10議席程度であり、憲政党と帝国党(本章⑩参照)の議席数の合計が過半数に20以上届かない状況下であっても、キャスティングボートを握るのは難しい状況であった。

 

⑩帝国党の結成

1899年7月の、品川の枢密顧問官就任による会頭辞任もあり、国民協会は解散を決め、山県系中心の第2次山県内閣下の、やや有利な状況を利用した、新党の結成に動いた。そして同月中に、無所属議員を加えて帝国党を結成した。しかし大岡育造ら山口県内選出議員は、伊藤の新党構想を聞いて参加を取りやめた(『未刊翠雨荘日記 : 憲政史編纂会旧蔵』第一巻525頁)。このため結成時の帝国党の議席数は、解散時の国民協会と同数にとどまった。また帝国党結成者は西郷従道を党首に迎えようとしたが、西郷が元帥となっており、また閣僚の入党を求めていた憲政党(自由党系)に配慮する必要があった状況下、実現に至らなかった(村瀬信一「帝国党ノート」61-63頁)。

 

⑪選挙法の改正

第3次伊藤内閣が挫折した選挙法の改正は、続けて試みられた。その最大の問題は、市部の優遇であった。同内閣の案をほぼ引き継いだ第2次山県内閣の案は、市部を独立した選挙区とし、議員を郡部の人口12万人に1人に対して、市部は8万人に1人とする(前回は10万、5万)ものの、8万人未満であっても1人とするというものであった。他には選挙権の納税資格が地租5円以上、または地租以外の直接国税3円以上、被選挙権の納税資格5円以上(前回は廃止)、選挙権20歳以上(前回は25歳以上)、そして大選挙区単記制無記名制であった(前回の記名制維持が、権力を握る薩長閥よりも、むしろ地域に浸透している民党の方が有利になると考えられた可能性がある)。大選挙区(1つの都道府県を1つの選挙区とする)にして、さらに候補者1名にしか投じられない単記制にすれば、大政党、つまり民党の、同じ政党の候補者同士の競合が起こり、小選挙区制や大選挙区連記制に比べ、議席を伸ばしにくくなると考えられた。地租増徴期成同盟(第4章⑯または本章⑦参照)の中心でもあった渋沢、大倉、安田、大江らが、1899年1月に衆議院議員選挙法改正期成同盟を結成していた。各党派に市部優遇反対の議員がいる状況下、憲政党関東派の星亨は、実業家の憲政党に対する支持獲得のため、選挙法改正の実現に、むしろ積極的に動いた。第13回帝国議会において、衆議院では納税資格を地租以外の直接国税についても5円以上とし、単記制を制限連記制に(完全連記と半数連記が否決されて定数の3分の2の連記に)、無記名制を記名制に、市部優遇の度合いを下げる修正をした(10万人に1人としながら、市部については10万人未満でも1人は選出されることとした)。この際憲政本党は、選挙制度の改正を、政府が議会を操縦しやすくするためのものだとして、市部の優遇について憲政党よりも厳しい姿勢を採り、完全連記制を主張した。この第13回議会では貴衆両院が一致できず、法案は成立しなかったのである(貴族院は大選挙区単記無記名制、直接国税10円以上、または地租以外の直接国税7円以上、郡部10万人に1人、市部5万から8万まで1人、8万人以上は8万人ごとに1人、5万未満は市部としない、選挙権25歳以上とした。伊藤の案を山県系の真意に沿って保守的に修正したという面もあると考えられる)。伊藤は一貴族院議員として同院で演説するなど、積極的に動き、同院は結局、原案に戻す方向の修正を加えた。しかし衆議院と貴族院の合意は成らず、法案は成立しなかった。第14回帝国議会(1899年11月~1900年2月)では、3万人以上の市を独立した選挙区とし、選挙権を直接国税5円以上、または地租以外の直接国税3円以上に変更し、被選挙権の納税資格を撤廃する政府案が出された。衆議院が選挙権を直接国税5円以上、選挙区制を小選挙区記名制(市部は独立した選挙区とし、60の2人区は連記。小選挙区制維持は憲政本党が主張していたが、自由党系の変化に順応していなかった憲政党員にも支持されていた)。貴族院は納税資格を選挙権、被選挙権とも直接国税10円以上、選挙権25、被選挙権30歳以上、大選挙区単記制、市部5万人から10万人で1人、10万人増えるごとに1増、郡部14万人に1人とし、人口5万人未満は市部としないこととした。結局、星が市部独立の実現を重視して貴族院に歩み寄り、直接国税10円以上、人口3万人以上の市を独立した選挙区とし、市部、郡部とも人口13万人に1人(市部は3万人以上でも1人)とした。こうして法案は、1900年2月に成立した。なお、選挙権については、政府案は20歳以上としており、衆議院もこれを支持していたが、貴族院の修正通り25歳以上のままとなった。被選挙権については衆議院側の希望通り納税資格がなくなり、衆院選における立候補が容易になった。郡部と人口の多い市部が大選挙区単記制となり、大政党(つまり民党)は薩長閥のもくろみ通り、同士打ちを余儀なくされ、薩長閥政府を(事実上)支持する議員も多い第3党以下の勢力が、議席を増やす可能性が高まった。以後、同士打ちを避ける方法として、選挙区内を独自に区切って各候補の地盤とする手法が定着していく。また、1900年2月に治安警察法が成立した。かつて自由民権運動を取り締まることを想定してつくられた集会及政社法を、民党にとっても、新たな「下」からの脅威となり得る労働運動等を取り締まるために改めたものであった。民間の協同組合を保護し、中間利潤を排除するための産業組合法案も成立した。同案は第2次松方内閣期にも提出されたが、貴族院で審議末了となっていた。公債による鉄道国有化に関する法案は、国有化のペースなどが決められていなかったことから、賛成派の憲政、帝国両党内からも批判が起こり、成立に至らなかった。

 

⑫憲政党の政権離脱

1900年5月、憲政党(自由党系)は、同党からの入閣、または閣僚(陸郡大臣、海軍大臣以外)の同党への入党の、いずれの要求も受け入れられないことを不満とし、政権を離脱した。山県は、一度成立した内閣の人員変更は容易ではないとして、憲政党からの入閣を否定していた。閣僚の憲政党への入党も、薩長閥の多くにとって受け入れられるものではなかった。野党第2党となった憲政党は6月、総理大臣就任の可能性も高い長州閥の実力者、伊藤博文に党首就任を要請したが、断られた。しかし伊藤は、自らが切り開いた政党による政権運営という道を、自ら政党を結成して歩もうと、新党結成を模索していた(3つ目の新党構想)。伊藤にとってその新党は、幅広い勢力を集めた、党利党略では動かないものでなくてはならなかった。

 

⑬立憲政友会の結成

伊藤博文は憲政党への入党は拒んだものの、同党との提携には前向きであった。そして、政策よりも勢力争いに没頭していた政党の改革、実業派の参加を期待して、新党の結成に動いた。伊藤は、特定の層や地域の利害を代弁する存在というよりも、国家の発展を第一に考える存在としての、政党を志向していた。伊藤は以前、独自の新党に、切り崩した自由党系等を加える考えを持っていたが、伊東巳代治に止められていた(佐々木隆『明治人の力量』218頁)。伊藤に新党組織の際の協力を求められた憲政党は、新党参加を決めた。しかし伊藤は憲政党に限らず、広く参加を求めた。憲政本党は、自らが主導権に程遠いことを悟っており、参加しなかった。政党に否定的な山県の系列にあった帝国党も参加しなかった。憲政本党からは8月、伊藤新党への参加を決めた尾崎行雄が離党した。尾崎は対外硬派として展望を開こうとした憲政本党の変化(本章⑯参照)に否定的であり、伊藤に切り崩されたのであった。そして9月、憲政党が解党し、同党と長州閥伊藤系による立憲政友会が、無所属となっていた鹿児島県内選出議員と山口県内選出議員の全員(帝国党の結成に参加していた山口県内選出の1名も、1900年内に立憲政友会に移った)、憲政本党、帝国党、日吉倶楽部、議員同志倶楽部のそれぞれ一部の参加も得て、衆議院の過半数を上回る勢力として、結成された。山県が否定的であり、岩崎弥之助が憲政本党寄りである中、有力な実業家、貴族院議員の参加は少なかった(井上馨も外部から協力するに留まった)。実業家の多くは、政界が整理され、対立が小さくなることは歓迎しても、自らがその中の特定の勢力に属すことには、否定的であった。立憲政友会の結成が、薩長閥と民党の激しい対立を終わらせるものであるかどうかも、まだ分からない状況でもあった。強い権限を持つ総裁に伊藤が就き、政治綱領を含む趣意書の内容と人事を、独断的に決定した。党の役員は、伊藤系、憲政党系、憲政本党系、帝国党系から万遍なく採用された。実際は、伊藤を除けば、自由党系の星の主導という面が強かった。板垣退助は、そのような立憲政友会には参加しなかった。

 

⑭憲政本党と対外硬派

清では、義和団を名乗る結社が排外運動を起こしていた。1900年6月、清はこの動きを認めて列強諸国等に対し宣戦布告をした。日本を含め宣戦布告を受けた国々が出兵し、事態は収まった。欧米よりも清に近く、活躍の機会を得た日本の影響力は強まったが、ロシアが満州から撤兵しようとしないという、難しい展開となった。この北進事変は、再び対外強硬派の勢力を大きくした。具体的には、1900年9月、近衝篤麿、頭山満らが、国民同盟会を結成した。帝国党、そして神鞭知常、平岡浩太郎といった対外強硬派の議員を含んでいた憲政本党の衆議院議員達も参加した。衆議院は、過半数を上回る立憲政友会と、対外硬派が並び立つような状態になった。

 

⑮第4次伊藤立憲政友会内閣の成立

立憲政友会の結成を見た第2次山県内閣は総辞職をし、1900年10月、第4次伊藤内閣が成立した。これにより、山県系等、政党に批判的であった議員達が多かった貴族院は、多くが政党内閣の出現に反発し、改進党系と比較的近かった三曜会系、懇話会系も含め、反伊藤内閣でまとまった。第4次伊藤内閣の閣僚は、立憲政友会の衆院議員では、自由党系の実力者達が入閣した。具体的には、松田正久(九州派)が文部大臣、星亨(関東派)が逓信大臣に、当時は議員ではなかったものの、前後長く議員であった林有造(土佐派)が農商務大臣に就いた。しかし、東京市会に影響力を持っていた星は、市会に関する疑獄事件で、憲政本党などの追及を受け、12月に辞任した。後任には、同月新設の立憲政友会幹事長であり、次の第7回総選挙で議席を得ることとなる、原敬が就いた。伊藤系として立憲政友会に入ったという面があるが、原は伊藤系の中心人物の一人とまでは言えず、陸奥系であったことから、党内で伊藤系と自由党系の間に立つことができた。

 

⑯政友会内閣と貴族院の対立、憲政本党の分裂と三四倶楽部の結成

第4次伊藤内閣は、第15回帝国議会(1900年12月~1901年3月)に酒造税、麦酒税、砂糖消費税、海関税の増税法案を提出した。流用した軍艦水雷艇補充基金の補てんを含む北信事変に関する費用の他、公債支弁事業への代替財源とすることも目的とした策であった。1900年12月、大隈が党総理に就いた憲政本党は、財政への影響、対外強硬姿勢との整合性(大隈自身は対外強硬派ではなかったが)を考え、増税に否定的であった姿勢を転じて賛成した。しかし、反伊藤感情の強い貴族院(立憲政友会の貴族院議員は少なく、山県と近い多数派、そして改進党系と近い勢力が同党の敵に回ったため、大部分が内閣に批判的であった)、帝国党が反対した。彼らは、増税を軍事目的に限ることを主張していた(帝国党はさらに増税を期限付きとする法案を日吉倶楽部から帝国党結成に参加した原田赳城、無所属としてそれぞれ選挙結果の更正、補選当選で議員となったばかりで、後に中立倶楽部の結成に参加する天野若圓―かつて大成会所属―、金森吉次郎と提出している。1901年2月15日付の東京朝日新聞は中立派の賛成を得て提出したとしているが、中立会派に属していた議員がどれだけ賛成していたかは、分からない)。これらを受け入れることができなかった伊藤総理は、詔勅によって、貴族院に賛成をさせ、法案を成立させた(1901年3月)。また伊藤総理は、勅選議員を一部枢密院に移すことで削減し、さらに任期を定め、枢密院の機能を内閣更迭などに限る、貴族院・枢密院改革を考えた。しかし実現には至らなかった(枢密院は天皇の諮問を受ける機関であるが、総理大臣・内閣の交代には事実上口をはさむことは出来ないから、貴族院に表れた積極性を弱めると共に、枢密院を形骸化する改革であったと言える)。当初反対の姿勢を見せたものの賛成に転じた憲政本党からは、党の方針に反してでも、増税法案に反対する考えであった議員達が離党、1901年2月に三四倶楽部を結成した。三四倶楽部の結成に参加した議員34名のうち、進歩党より前の所属を確認することができるのは16名であるが、そのうち立憲改進党出身者は3名のみであり(新潟県内選出の市島謙吉、室孝次郎と東京12区選出の高木正年)、立憲革新党出身者が6名(軍縮派の中心人物の一人であった鈴木重遠ら)、他の党派の出身が、大手倶楽部出身の2名など、計7名であった。つまり、憲政本党の中心、最大勢力であった立憲改進党系以外に偏っていた。この憲政本党の大きな分裂によって、2大政党の議席数は立憲政友会155議席、憲政本党68議席と、大きく差が開いた。憲政本党は、軍拡に反対して薩長閥との関係をさらに悪化させる気はなく、また間接税の増税には、地租のそれに比して寛容であった。憲政本党、三四倶楽部は再統一を模索した。その際、政策面での妥協、憲政本党の変化を許した党組織を民主化することが問題となった。憲政本党と、同党よりも消極財政志向が強かった三四倶楽部の交渉は、主導権争いの面もあって、進展を見せなかった。

 

⑰第4次伊藤内閣の総辞職と第1次桂内閣の成立

第2次山県内閣の積極財政も影響して財政がひっ迫する中、渡辺国武大蔵大臣は、公債を財源とする事業の中止を主張した。一度対立があり、繰り延べでの妥協がなった後のことであり、行財政整理の断行についてまとまる努力をしながらも、鉄道公債によって建設されていた鉄道の整備を重視していた立憲政友会自由党系、原逓信大臣は反発した。立憲政友会伊藤系の多くも彼らに同調し、渡辺は孤立した。渡辺も伊藤系であったのだが、強硬姿勢を崩さず、閣内不一致に陥った第4次伊藤内閣は、総辞職するに至った。井上馨に大命が下ったが、渋沢栄一を大蔵大臣に得られなかったこと、山県系の桂太郎に入閣を拒まれたこと、政党内閣的なものになりそうになかったことを不満とした立憲政友会自由党系が非協力的であったことから、固辞するに至った。そして、山県系の桂太郎に大命が下った。それは、伊藤系の西園寺公望が桂の次に立憲政友会総裁、総理大臣となるのと同じく、伊藤や山県からの世代交代であった。1901年6月に成立した第1次桂内閣は、閣僚の多くが山県系官僚で、帝国党が準与党であったものの、政党との提携はなかった。無所属には内閣と近くなり得る議員もいたが、帝国党と無所属の全員を合わせたとしても、定数300のうちの40議席であり、過半数には遥かに及ばない状況であった(1901年12月10日の第16回帝国議会における衆議院の開院式当日の議席数を基にしている。日吉倶楽部、議員同志倶楽部は解散している)。桂は、軍事などの国力増強を方針とした。立憲政友会は、党の総裁が元老であるのに、事実上野党であるという、矛盾した立場におかれた。また1901年6月、立憲政友会の星亨が、彼を批判する教育者(剣術家)によって殺害された。星亡き後は、陸奥系の原敬(元郵便報知新聞、立憲帝政党、外交官)が党を主導するようになっていくが、とりあえずは原、松田、尾崎の3人が中心となった。立憲政友会は行財政整理を唱えた(第15回議会提出の増税案への賛成がすでに、財政整理を条件としたものであった)。第1次桂内閣は外債募集に失敗し、1902年度の予算案は、外債募集に失敗し、まだ得ていない北清事変の賠償金を歳入案に含めたものとなった。募債の失敗、ある程度消極財政にシフトせざるを得なくなったことで、憲政本党は同内閣に寄りやすくなった。このことは、同党が薩長閥に最も近い政党となる可能性が高まると同時に、消極財政志向がより強い三四倶楽部との再統一が、困難になることを意味した。立憲政友会は衆議院の過半数を上回っていたが、憲政本党が賛成するならば、立憲政友会の一部を切り崩すだけでも予算案は衆議院を通過する。カギはやはり、同党が握っていた。星の死と伊藤の外遊によってブレーキの弱まった立憲政友会は、尾崎が消極財政志向であり、原、自由党系などが当初より政権奪還を意識していたことから、野党色を強め、行財政整理が不十分であるという立場を採った(実際に、その規模は大きくはなく根本的な者でもなかったが、それでも官僚の抵抗にあった)。衆議院の過半数を握る同党には、内閣側からの切り崩し工作が行われた。そして内閣と妥協すべきだとする立憲政友会議員4、50名が集まる事態となった(1901年12月23日付原日記-『原敬日記』第2巻472頁-)。彼らには、野党的な立場で総選挙を戦うことへの不安もあった。切り崩しによって、予算委員会における政府原案に近い形での予算案可決が実現し、立憲政友会が過半数を割るだけでなく、予算案に賛成した憲政本党が、内閣側に付く可能性が高まった(憲政本党は貴族院の多数派であった山県系、それに近い勢力とつながることによって、衆議院における劣勢を補い、挽回しようとしていた)。この不利な状況下、立憲政友会は新規事業中止の要求を取下げ、公債事業への一般財源の流用を認め、内閣は賠償金の債権の大蔵省預金部への売却代金を引下げ(当初より少なめに見込むこととし)、他に行財政整理の断行で内閣と合意し、予算案は再提出の上、成立した。この過程において1901年12月、内閣(山県-桂系)と独自に交渉をしていた井上角五郎、田健次郎、重野謙次郎が、妥協派の先導者とみなされ、立憲政友会を除名された。同党は1902年1月、党の行政調査局から総務委員会に報告された、行財政整理案を党報『政友』に掲載した(第16号88~89頁)。それは地方官の権限を拡張して官治の統一を図ること、司法制度改革、軍の改革・軍費節約、官吏の削減と増俸、文官分限令、文官任用令の改正を含んでいた。

 

⑱中立倶楽部の結成と三四倶楽部の分裂

1901年12月、解散していた日吉倶楽部と議員同志倶楽部の議員、無所属議員の一部が、会派として、中立倶楽部を結成した(中立倶楽部には、他の中立実業派と比較して、実業家でない議員がやや多いが、山下倶楽部の流れを汲むことから、中立実業派に分類した)。結成翌日、立憲政友会を除名された、井上角五郎が加わった。三四倶楽部は、台湾兵営建築費以外の、1902年度予算における新規事業を認めず、清からの賠償金は特別会計とし、将来の東洋大陸経営に対する基金とすることを唱え、清国事件に関する特別会計法案を提出した。立憲政友会は東洋大陸経営に限定しない内容である他は同様の法案を提出していた。委員会では立憲政友会の案が可決、三四倶楽部の案が否決されたが、立憲政友会が第1次桂内閣と妥協して法案を撤回、三四倶楽部の案は1901年12月26日の本会議で否決された。三四倶楽部では、新潟系(5年間の歳出の平均を次年度の予算削減の程度とすること、双方解散の上での再統一を提案していた)が憲政本党との再統一に積極的であったが、全体的には、公債事業への一般歳入の流入禁止(公債によって事業を積極的に進めることを目指す立憲政友会とは、意図が反対)、基金非補填等、消極財政志向が憲政本党よりも強かったため、実現に至らなかった。同派は憲政本党復帰者と、新潟系、そして残留者に分裂した。憲政本党は、一般財源を公債事業に用いて、募債によらず一般歳入の内に公債事業を抑える立場であり、この点では、第1次桂内閣と三四倶楽部との、間に位置していた。

※三四倶楽部の結成、憲政本党との再統一を模索する動きなどについて、阿部恒久『近代日本地方政党史論』第七章が詳しい。

 

⑲日英同盟条約締結

1902年1月、日本はイギリスと同盟条約を結んだ。一方が第3国と交戦状態となった際、もう一方は中立を守り、一方が2ヶ国以上と交戦になった場合は、他の一方に参戦する義務があるという内容であり、日本がロシアに対抗する上で、同じくロシアを警戒するイギリスは味方となった。日英同盟は、伊藤の下で日露協商路線を採っていた立憲政友会よりも、対露強硬派の憲政本党の主張に近い策であり、第1次桂内閣と立憲政友会の妥協に反発して野党化していた同党は、歓迎した。しかし、日英同盟を前にロシアが一時的に軟化し、満州からの撤兵を約束したことで、倒閣を意図していたわけではなかった国民同盟会は、同年4月に解散、同党は非政友会の一大勢力形成の足掛かりを失った(もともと憲政本党との合流、国民同盟会の政党化には、貴族院の中で改進党系に比較的近い、対外硬派の中心的人物であった近衛篤麿も、否定的であった)。

 

 

補足~貴族院会派~

旭倶楽部:1899年2月、三曜会の近衛篤麿らと、丁酉会を脱した多額納税者議員が結成した会派。旭倶楽部としたが、朝日倶楽部ともされている。

庚子会:1900年2月、懇話会系と月曜会系が結成した会派。

土曜会:1901年12月、旭倶楽部と庚子会が合流して結成された会派。

※憲政党内閣期、同党に対抗するため、茶話会、無所属(会派)、木曜会の一部による集会であった幸俱楽部として、山県系がまとまりを形成した。研究会と協力することが多く、そうなると、貴族院においては圧倒的な勢力であった。改進党系に近い対外強硬派であった懇話会→庚子会、三曜会→旭俱楽部も合流して土曜会を結成したが、1897年7月の有爵議員の互選で敗れていたことなどから、劣勢であった。

 

補足~無産政党~

1897年7月に結成された労働組合期成会のメンバーであった片山潜は、1898年10月に安部磯雄、幸徳秋水らと社会主義研究会を結成した。同会は1900年1月、社会主義協会と改称した。1899年10月に河野広中らが結成した普通選挙期成同盟会(翌年普通選挙同盟会と改称)と交流を持ち、片山、幸徳らが双方に参加していた。普通選挙の実現に向かって、民党系の中でも進歩的な者達と、社会主義者との間には、共闘の芽があった(かつての東洋自由党も、党内に普通選挙期成同盟会を設けていた)。しかし1900年3月公布の治安警察法が労働運動を困難にし、1901年5月に、社会主義協会を母体として結成された社会民主党も、すぐに禁止された。同党は社会主義の実行を目的とし、理想網領として、軍備や階級制度の廃止、土地、資本の公有を、実践網領として、鉄道、電気、ガスの公有、公費による義務教育、労働者や小作人の保護、普通選挙、軍備縮小、治安警察法廃止、貴族院廃止を揚げた。幸徳以外の主要メンバーはキリスト教徒であった。同党の参加者は、綱領を変えて社会平民党を結成したが、これも直ちに禁止された。

 

補足~吏党刷新、帝国党への道~

 

 

選挙制度の影響(①):憲政党は政権党であり、圧倒的な第1党であり、これまで自由党と進歩党を支持していた人々など、有権者の多くの支持も得ていた。このような状況下に行われた第6回総選挙では、小選挙区制が、その効果を、それまでより発揮したように見える。しかし、ライバルとなるような強い勢力が他になかったこともあり、憲政党の議席占有率が、得票率を大きく上回っていたわけではない。つまり小選挙区制の効果が発揮されたのかは、分からない。そもそも敵がなく、同士打ちが多発したのだから、発揮される条件が整っていなかったのだと言える。

 

1党優位の傾向(①)~1党優位の一つの弊害~

 

第3極(①)~山下倶楽部の民党への影響~

 

2大民党制(②③)~克服が困難な構造~

 

帝政ドイツとの差異(②③)~利用される、野党間の対立~

 

1列の関係(②③)~改進党系の弱さ~

 

第3極(②③⑦)~第3極の諸勢力~

 

連結器・第3極(②③)~大憲政党の中の第3極~

 

新与党の分裂(②③)~優位勢力に対抗するための合流~

 

(準)与党の不振(⑩⑬、補足~吏党刷新、帝国党への道~)~帝国党結成~

 

1列の関係(③④⑦⑧)~自由党系星亨の路線~

 

1列の関係(⑪)~民党における農と商~

 

1列の関係1党優位の傾向(⑦他):改革も必要だが、それだけでは、時の要請に応える財源を確保することは出来ない状況であった。つまり増税は不可避であった。このことは、改革を謳いながら財源の捻出に苦しんだ民主党政権なども思い出させる。政党には、国民に負担を求めざるを得ない時がある。ただし薩長閥は、選挙の洗礼を受けるわけではなかった。従来の権力者である薩長閥と、権力を手に入れようと歩む政党との非対称性である。現実的になりながらも、有権者の顔色を窺わなければならない自由党系は不利であったはずだが、薩長閥に接近することで影響力を強め、有権者に利益をもたらすか、利益をもたらすことを期待させることで、それをカバーすることができた。とは言え、それがうまくいかない状況にもなり得たから、衆議院において、少しでも優位にあることは、自由党系にとって必要なことであったと言える。

 

(準)与党の不振(④⑥⑩⑬)~伊藤系にまた苦しむ吏党系~

 

第3極実業派の動き(①⑤⑨)~日吉倶楽部の結成~

 

第3極実業派の動き(⑦)~日吉倶楽部と地租~

 

第3極(⑦⑧⑨)~日吉倶楽部の中立性と島田三郎について~

 

第3極実業派の動き(⑪)~日吉倶楽部と選挙制度、鉄道~

 

第3極野党に対する懐柔、切崩し(⑨⑩⑬⑱)~議員同志倶楽部~

 

第3極(⑩⑬)~中立派の分割~

 

第3極野党に対する懐柔、切崩し(⑩⑬⑱)~中立派の限界~

 

1列の関係(⑦⑧⑪⑫⑬)~繰り返される歴史~

 

(準)与党の不振(⑩)~吏党系の模索~

 

1列の関係(④⑦⑫⑬他)~自由党系に手を焼く薩長閥~

 

1列の関係(⑫⑬):自由党系は、政党を尊重しない山県から離れ、伊藤を党首に担いだ。自由党系の憲政党が第2次山県内閣との提携を取りやめた場合、憲政本党が代わりに準与党となる危険があったが、野党として内閣側と激しく対立しており、消極財政志向を強く持つ議員達を多く含んでいた同党が、分裂せずに、急速に準与党化する可能性は低かった。そうなれば第2次山県内閣は、法案の成立が見込めないという危機に直面する。この憲政本党の民党らしい性質に助けられ、憲政党は衆議院第2党であったにもかかわらず、比較的有利な立場にあった。

 

1党優位の傾向(⑫⑬)~自由党系のイメージチェンジ~:立憲政友会の強みは、薩長閥の権威と、衆議院における多数派という、圧倒的に有利な要素を兼ね備えていたことである。さらにその要素が結びついたことで、それぞれのマイナスイメージは弱められた。それでも政治は権力闘争でもあるから、薩長閥の伊藤系以外、衆議院の自由党系以外からの反発が強まるリスクはあったし、立憲政友会の内部で、伊藤系と自由党系の溝が広がる可能性もあった。星亡き後、第1次大隈内閣に自由党系から入閣した松田、改進党系から入閣した尾崎、陸奥系の原が中心となったことを見ても、立憲政友会の強さ、幅の広さが分かる。2大民党の合流によって短期間存在した憲政党を除けば、衆議院において初めて見られた単独過半数の政党・会派は、自由党系に他党からの参加者が上乗せされたことによって実現した。党員数、衆議院の議席数に注目した場合、立憲政友会は自由党系が拡大した、憲政党の後継政党であったといえる。実を取った自由党系が、改進党系が進歩党になってから、約4年ぶりに改進党系を引き離し、優位政党の地位を確かなものとし(正確には、1901年の憲政本党大分裂―三四倶楽部の結成―で決定的になった)、さらに政界全体の最強の勢力となるための切符を手にしたのだと言える。その場合の障害、ライバルとなるのは、山県系であった。政界は、山県系と自由党系との、対立と協調の時代に入ることになる。

 

1党優位の傾向(⑫⑬)~保守より自由の立憲政友会~:伊藤が、国家を第一に考え、自分に従う政党の結成を模索したことには、薩長閥にとって都合の良い、吏党が大きくなったような、大政党を求めたという面がある。しかし同時に、結果としては、支持層に大きな偏りが無い国民政党の土台づくりと言う面もあったと言える。ヨーロッパの立憲君主制の国家で言うところの保守政党は、薩長閥-吏党系であったと言えるから、それに対抗する自由主義政党を用意するという、面があったと言える。しかし実際には自由党系を制御することはできず、自由党の路線を継いだ立憲政友会は、衆議院の議席数を背景に、政界全体のキャスティングボートを握り、独自に政界の中心へと駆け上がっていった。そして山県系の桂が、立憲政友会に対抗する政党(立憲同志会→憲政会→立憲民政党)を用意することになるのである(その当時の双方の性質などについても第11章で見る)。

 

第3極(⑬)~開けない展望~

 

野党第1党の分裂(⑬)~新党構想と沈む土佐派~

 

1党優位の傾向(⑮⑯)~優位性の強化~

 

1列の関係(⑭⑮⑯)~広がる2大政党の格差~

 

野党再編(⑯):自由党系との合流と分裂を経験した改進党系であったが、なお、党内に旧党派の亀裂を抱えていた。特に党の主導権を握っていた立憲改進党系の犬養毅(犬養の中国進歩党は再編の便宜のために結成されたに過ぎない-第2章連結器(⑧⑪)、第3章②参照―)に対して、立憲革新党の一部、立憲改進党系ではあったものの、その主流ではなかった北陸系等に不満があった。憲政本党を離党するに至ったのは、東北地方選出議員を中心とした立憲革新党系の一部、立憲改進党系の北陸系の一部(新潟県選出に限れば全員)であった。新潟県内選出の離党者は立憲改進党出身者を含んでいたが、同県では、国権派を含む、越佐会から進歩党の結成に参加した勢力が力を持っていた。

 

新与党の分裂(⑰):渡辺は伊藤系であり、長い野党暮らしの末に閣僚となったわけではないから、第4次伊藤内閣の内部対立による総辞職は、「新与党の分裂」とは言い難い面がある。しかし、新たに与党となった勢力が、その志向を貫き難い状況に陥り、動揺したという点では、そのような性格もあった。自由党系(立憲政友会)には、国の財政よりも利益誘導を重視する議員もいたから、財政の拡大を抑えることが必要となる時期には、積極財政志向の立憲政友会が、党内をまとめるのは難しくなる。後の、同党からの政友本党の分裂にも、このことが一因としてあった(第14章で見る)。

 

1列の関係(⑰)~野党となった立憲政友会~

 

政界縦断2大民党制(⑰⑲)~対立軸~

 

第3極(⑱)~山下倶楽部の「縮小再生産」~

 

第3極(⑱)~三四倶楽部~:中立倶楽部が結成された当時、第3極には、他に新たに三四倶楽部が誕生していた。薩長閥寄りの帝国党と民党的な三四倶楽部の間に、立憲政友会と憲政本党があるという構図は、第9回総選挙前から第11回総選挙後、立憲同志会が結成されるまでの4極構造と似ていた。4極構造化自体は必然であったが(第8章『補論』⑰参照)、三四倶楽部は、自由党の離党者を核とする新民党と違い、もろかった。1つには、自由党系が政界を動かす主要因であり、そうではない改進党系の離党者達は、彼らが存在意義を持ちにくい時期に新会派を結成したことがある(『補論』⑮参照)。もう1つには、右から吏党系、自由党系、改進党系、新民党と並ぶとき、自由党の離党者による新民党は、古巣との間に改進党系を挟むものの、改進党系の離党者による親民党は、古巣と並ぶ形になる。権力は右にあり、改進党系(当時は憲政本党)が、薩長閥と協力関係を築く可能性は低いから、改進党系と、改進党系の離党者による新民党は、分裂直後から、連携、再統一することにメリットがある場合が多い。三四倶楽部結成後は、立憲政友会が野党化していったこともあり、憲政本党に、薩長閥政府に接近しようとする傾向もあった。しかし薩長閥が応じることはなく、そのような動きが本格化することはなかった。

 

第3極1党優位の傾向(⑱)~鉄道政策に関して~

 

第3極1党優位の傾向(⑱)~憲政本党と三四倶楽部~