1.政権交代論

補足~吏党刷新、帝国党への道~

補足~吏党刷新、帝国党への道~

ここでは、いつの間にか、事実上の国民協会による帝国党の結成に落ち着いた、隠れた新党構想について見る。つまりは、帝国党が結成される過程の一部を見るという面もある。具体的には、1899年に入って浮上した「国憲党」なる新党構想、そしてそれと国民協会とが合流するという構想である。「国憲党」が結成されたことは確認できないが、ここでは「国憲党」を結成しようとする構想、人物達のグループを、「国憲党」と呼ぶこととする。

伊藤新党への参加に否定的になった国民協会は、1898年6月、伊藤の新党構想の挫折、憲政党内閣の成立を見て、薩長閥、元老を頼れないと考え、自然消滅を避けるため、第6回総選挙後に解散し、同志を糾合し、内閣反対の一団体を結成することを決めた(1898年7月1日付読売新聞)。国憲党構想は、このこととリンクした、吏党の刷新を目指す構想であったと考えられる。国憲党の発起人は、農商務次官の斉藤修一郎、前県治局長の荒川邦蔵だと報じられた(1899年1月31日付読売新聞)。彼らは日吉倶楽部と合流しようとしていたようである。1899年2月1日付の読売新聞は、日吉倶楽部が国憲党加盟について、その組織後に答をなすとしたが、同時に、「目下の處にてハ」加盟しないと回答することに決したと報じている。同8日付は、国憲党が各党員、特に日吉倶楽部を熱心に勧誘していたことを報じている。また同紙は、これより先の1月6日、国民協会解散後の新政党に、島田三郎と田口卯吉が入党すると伝える者があるとしつつ、それを否定している。2月6日付の東京朝日新聞は、新政党が、日吉倶楽部を党付属の議員倶楽部にしようとしていると報じている。しかし、実際にはそうならなかった。

村瀬信一氏は、新党計画の史料上の初見を、1899年1月13日付の佐々友房宛薬袋義一書簡であるとして、次の部分を引用している(村瀬信一「帝国党ノート」56頁)。この時には、第2次山県内閣が成立している。つまり薩長閥政府が復活している。

昨朝出発昨夜長野市着、林久右衛門の周旋にて一二重立と会談致候処人気宜し、本日小阪と会見の筈に御座候。実業家資産家真の有志家はまだ沢山有之、新政党設立に付気遣ひ等は無用に御座候。是非地方に出掛候様致し度候。

小阪とは、長野1区の選出で、実業団体(第2回総選挙後)、実業団体(第4回総選挙後)、実業同志倶楽部に属していた元衆議院議員(後に立憲政友会衆議院議員)の、小坂善之助ではないだろうか。金融業を営み、衆議院議員にもなるような小坂であったから、書簡の「実業家資産家真の有志家」には当てはまっている。いずれにせよ、国民協会が実業家等と合流することに熱心であったことは窺える。村瀬氏は次に、1月22日付の品川宛大岡育造書簡を引用している。そこには内輪の同意を得るために時間をかけたことで、敵方に防御線を張られたという記述があり、順調に進んだのではないことが分かる。村瀬氏は次のように推測している(村瀬信一「帝国党ノート」56~57頁)。

入閣を果たせなかったのは国民協会自体の非力に主因があり、故に入閣実現のためには協会の刷新が必要、といったような論理で協会内部の合意が成立し、新党計画が案出されたのではないだろうか。斜陽イメージの濃い国民協会の拡張、というよりは新党を前面に押し出した方が勧誘の対象である地方名望家に訴える力が大きい、との状況判断がその際に働いたのかも知れない。

新吏党と呼び得る新党結成の構想が、実業家中心の会派との合流を目指したものであったことは確かだろう。吏党系と(中立)実業派に分裂した中央交渉部を、会派ではなく、政党として復活させるという面が、新党構想にはあったと言えるのだ。当時は、自由党系も吏党系も、そして親薩摩閥も第2次山県内閣を支持しており、同内閣に明確に対抗しようとするのが、改進党系と、貴族院のごく一部くらいであったから、このような新党の結成は、大規模な再編にはならないとしても、国民協会が野党であった時、2大民党が共闘していた時など、吏党系が厳しい状況にあった時と比べれば、容易であったと考えられる。

この新党構想には、伊藤系の金子堅太郎が、中心的な人物として関わっていたようだ。1899年2月4日付の東京朝日新聞によれば、国憲党という名称と事務所が決まった新政党、その樹立を斡旋していたのは以下の人々であった。地域的な偏りなどを見出すことは出来ない。

・衆議院議員(帝国党に参加した議員には  を付し、()内には後の動向などを記した)

憲政党所属   中辰之助(元山下倶楽部。立憲政友会へ)

日吉倶楽部所属 原田赳城並河理二郎(第3回総選挙後の独立倶楽部、山下倶楽部出身。帝国党に参加するも立憲政友会へ)、中村栄助(大成会、自由倶楽部、巴倶楽部出身。立憲政友会へ)、村瀬庫次(山下倶楽部出身。中立倶楽部へ)

無所属     塩谷五十足(憲政党―分裂前後とも―出身。議員同志倶楽部、立憲政友会へ)、深尾龍三(山下倶楽部出身)、大須賀庸之介(自由倶楽部、自由党、独立倶楽部―第2回総選挙後―同盟倶楽部、立憲革新党、議員倶楽部、公同会、憲政党、憲政本党出身。帝国党に参加するも立憲政友会へ)、江角千代次郎(実業団体―第4回衆議院議員選挙―、日曜会、山下倶楽部出身)、板東勘五郎(再結成後の日吉倶楽部、立憲政友会へ)

・非衆議院議員(最後の三間正弘以外は以前か後に衆議院議員となっている)

南條文五郎  後に帝国党衆議院議員

成田直衛   元大成会、協同倶楽部、国民協会衆議院議員。後に帝国党衆議院議員

畑隆太郎   後に帝国党衆議院議員

松沢光憲   元中央交渉部、国民協会衆議院議員

五十嵐力助  元協同倶楽部、中央交渉部、国民協会衆議院議員

湯本義憲   元大成会、中央交渉部、国民協会衆議院議員(岐阜県知事となった一八九七年四月に無所属に)

桑原政    元山下倶楽部衆議院議員、後に壬寅会、中正倶楽部衆議院議員

矢島八郎   元国民協会衆議院議員、後に中央倶楽部、立憲同志会、憲政会衆議院議員

白井遠平   元大成会、東北同盟会衆議院議員、後に立憲政友会衆議院議員

川村淳    元山下倶楽部衆議院議員、後に立憲同志会、憲政会衆議院議員

西野久右衛門 元山下倶楽部衆議院議員

斉藤信太郎  元山下倶楽部衆議院議員

渡辺又三郎  元協同倶楽部、独立倶楽部(第一回総選挙後)、中央交渉部、山下倶楽部衆議院議員

三間正弘   衆議院議員であったことがないので他の経歴を記すと、陸軍、石川県知事

衆議院議員の参加者は、当時の所属を見ると、主に日吉倶楽部や無所属の議員達であったようだが、実際に帝国党に参加したのは日吉倶楽部の2名、無所属の3名に過ぎず、日吉倶楽部の1名は立憲政友会の結成後、同党に移っている。衆議院議員ではなかった参加者のうち、以前に衆議院議員であった者達には、当然ながら吏党系の出身が多い。同時に、山下倶楽部の出身者も少なくないことが分かる(西川を除き大方実業家であったと言える―『中小会派の議員一覧』第5回総選挙参照―。第12回帝国議会で地租増徴案に賛成したのは、桑原、川村、反対したのは斉藤、渡辺―山下倶楽部離脱後無所属として―、西野は投票していない―衆議院事務局編『帝国議会衆議院議事速記録』一三315~316頁―)。新党構想が、吏党系と中立実業派の糾合という面を持っていたことを示していると言える構成だ。同じ2月4日付の読売新聞には、次のようにある。

  目下金子堅太郎、齋藤修一郎、荒川邦藏、西野久右衛門氏等が計畫しつつある國憲黨の組織由來と聞くに元來發起者等ハ昨年山縣内閣成立の際政黨に依るが如く又依らざるが如く踏跙逡巡せしと見て大に奮起すると同時に既成の政黨ハ國家の仇敵にして又藩閥ハ國家の怨敵なりと思量し此等の弊害と除去して下情と上達せしむるの手段を取り細民を救濟して純良なる國家社會主義を布及せんとて寄々恊議する所ありしに其後議大に熟し遂に一の趣意書を作り又網領を定むるに至りしが~略~目下の處にても無所属より十三名の賛成を受け又國民恊會員も固人として五六名賛成し居れりといへり

◎國憲黨の政網

國憲黨の創立趣意ハ別項に記載するが如くなるが尚ほ其政網を聞くに左の如し

一、憲法に服從し萬世一系の天皇に對し忠順を盡す事

二、憲法の規定に依り固人の自由を保護伸張する事

三、政治上の自由を完成する爲め地方の自治分權の制度を確定する事

四、敎育ハ國体に適合するを以て本旨とし其普及を計る事

五、運輸其他交通機關ハ漸次國有となす事

六、労働社會の安全を保護し窮民救助の方法を設くる事

七、農商工を奨励し國民経濟の發達を計る事

八、政費と民力との平均を保ちて財政を鞏固にする事

九、軍備ハ列國の均衝に願み財政の許す限り之を擴張する事

十、外交ハ平和を主とし彼我同等の權利利盆を主張する事

十一、憲法の保障に依り外教の侵入を妨けさると同時に我國固有宗教の發達改良

の事業を助くる事

右の中第六の勞働社會の安全と保つ事並に第十一の宗教上の改良が大眼目にて先づ賣藥業者の保護職工保護等に力を盡す見込なりといへり

国憲党結成の動きは、山県系、吏党系に限定されたものではなかったことが分かる。国憲党構想は、伊藤の2つ目の新党構想(第5回総選挙後)の後、3つ目の新党構想(立憲政友会の結成に至った)の前である。2つ目の新党構想は政界縦断型とはいえない、民党以外の勢力を糾合するものであったから、吏党系を刷新するような構想に金子が関わっていたことは、不自然なことではない。宣言、綱領について2月7日付の同紙は、発起人にも考えがあり、変更の可能性があることを記しているが、上の2月4日付は、新党構想のイメージを変える記事である。政綱を含めて2月4日付を見るに、文字通りの国家社会主義では全くない。運輸、交通機関を国有化するだけで社会主義だというのなら、これを何度か策した自由党系も社会主義だということになってしまう。しかし労働者、窮民に目を向け、当時の既存の政治勢力を批判するという姿勢に、社会民主主義的な面を見ることが、出来なくはない。吏党系が右の極を担うべき勢力であったことと合わせて考えると、昭和期の右翼的な会派(国民同盟、東方会)と社会大衆党との合流構想が思い出され、国家社会主義という言葉にも納得させられる。政府が何でも決めるという点で国家社会主義は、少なくとも当時の日本において、山県系の志向に反するものではなかった。国憲党が吏党系の刷新を目的とした構想であったことは、これから見ていく通り間違いなさそうであるから、国憲党の少なくとも一部には左、つまり権力者達よりも国民の側にあることを装って支持を広げようとする意図があったということもあるだろう。「自由」を謳っていることも、実業家、他の国民の参加、支持を促すためであったように思われる。その「装い」を本気にしていた人物もまた、構想の参加者の中にはいたのかも知れないが。

およそ10日後の、2月16日付の読売新聞には次のことが記されており、国憲党があくまでも、解散、つまり刷新に抵抗する者も少なからずいたらしい国民協会の、新党構想実現のための別動隊であったということが窺われる。

・国民協会がしきりに反対論を吹聴して、国民に忠実であることを装っている。

・国民協会が地位を守って将来党勢を張ることは到底望み得ない。

・国民協会の主立った者は政党内閣を是認するものとは事を共にし難いと公言し、強みを吹聴しており、その解散も容易でないと思われる。

・国民協会の名を以てしては新政党が成立し難いことから、国憲党なる一派が別立し、これで地盤を作ろうとする内心がある。

・国憲党は遠からず結党式を挙行すれば、国民協会が合同の名の下に解散するはずだ。

吏党系とその周囲が、有権者に支持を広げることができていなかった吏党系のイメージを、一新しようとしたということも分かる。先に紹介した進歩的な傾向は、やはり、その一環として浮上したのだろう。薩長閥政府寄りであるのに野党的に振る舞ってみたりするより、薩長閥政府寄りという立場で、国民の支持を得られる政策を掲げるべきだということではないのだろうか。社会政策を唱えることは、納税資格を満たした、当時の有権者を満足させることを優先する民党に対抗することにはなっても、薩長閥政府と対立することには必ずしもならない。事実上、吏党系が一応は薩長閥政府の政党であり、薩長閥が上から、有権者に限らず国民を助けるという立場を採ることは、できたからだ。ドイツ帝国の宰相ビスマルクなど、無産政党に対抗して社会政策を導入した、非政党内閣の例もある。

とりあえず、もう少し事態の推移を追う。3月2日付の読売新聞は、党統一のために首領を置くことに内定したと伝えている。3月6日付では、国憲党が難産の模様だが、11日にはいよいよ発起人会を開き、首領には西郷従道を推そうと、斎藤修一郎、金子堅太郎、荒川邦蔵、西野久右衛門らが申し込んだものの、承諾を得られていないということが報じられている。党首は決定していなかったものの、新党結成に向けて、少なくとも後退はしていないように見える。ところが3月7日付の同紙には、国民協会との交渉をまだ経ていないため、新政党の結党式が未定だと記されている。同時に機関誌の発行が準備されていることも記されてはいるが、国民協会との連携すら不十分であったのなら、国民協会以外の関係者が理想を語り合っていたに過ぎなかったようにすら、見える。3月10日付になると、国民協会の大岡育造らから1つの条件が持ち出され、議論がまとまらないため、荒川、斎藤が急いでいるものの、組織する運びに至っていないこと、協会からの回答次第で、直ちに創立委員会を開き、主義、綱領を議定し、結党式は遊説の後の5月になるとされている。この記事は、新党に参加する衆議院議員の数について、国民協会17、無所属6、組織後入党の見込がある者が約10名いるとしている。つまり、事実上国民協会系を多数派とする新党の構想であったから、その運命が同党にかかっていたのは当然である。また記事は、憲政党を脱して新政党に加入する者が数名あるともしている。しかし、衆議院の議席数に限っていえば、第3回総選挙で大敗した後の国民協会の議席数(32)に戻る程度の、決して大規模なものとは言えない再編の構想であったようだ。無所属の、または中立会派に属する実業家の議員の参加も、広がる気配を見せていなかった。

国憲党構想には、ここで大きな変化が見られる。金子が手を引き、代わりに国民協会と熊本国権党の要人であった佐々友房が、中心人物の1人となったことである。3月12日付の読売新聞が、国憲党(この記事では国憲黨ではなく「国権黨」となっているが、同じ構想を指していると思われる)から金子が手を引き、大岡、元田も「顧みず」、佐々の一派のみが熱中し、四分五裂の有様だとしている。1899年4月10日付の東京朝日新聞は、金子の談話を載せている。それによれば、政党の樹立に奔走する人々が皆旧来の友人であり、金子は彼らと政事の話をしただけで、新政党の創設に尽力したことはなかったのだという。談話において金子は、株式取引所の事業に専心尽力する決心だとしているが、1ヶ月後には渡米のために株式取引所の理事長を辞任しようとして、慰留されている。佐々の関与は、村瀬氏の研究によっても確かめられる。村瀬氏は、「佐々友房関係文書」の新党結成に関するものを引用し、国民協会の改称でない、拡大強化された新政党の結成、国民協会のそれへの合流という路線が敷かれていたことを指摘している(村瀬信一「帝国党ノート」57頁)。「新政党」とは国憲党であり、「拡大強化された」というのは、それまでの吏党系よりも、ということであろう。これまでに挙げた報道によっても、それが分かる。以下は村瀬氏が引用しているものの1つ、新党に関する3案である。

第一案 国民協会を解散し新政党と合同組織を為す事

第二案 国民協会より代表者三五名を出し新党と主旨綱領等を議定し協会の同意を得て速に解散の手続を為し結党に従事する事

第三案 国民協会より仮に個人の資格を以て三五人新政党に加入し共に主唱者の名義を以て全国に移し機を図り結党の手続に及ふ事

国民協会との合流の仕方が課題となっていたことが分かる。文書が書かれた時期がいつなのかは分からないが、佐々が合流に積極的であったことは間違いない。なお、村瀬氏は福島県の白井遠平が、秋田県の元国民協会衆議院議員、成田直衛に宛てた、1899年2月11日付の書簡を引用している(村瀬信一「帝国党ノート」58頁)。そこには、奥羽人が新党に加盟するには後ろ盾が必要だが、役人根性の政府の人々ではあてにできないということが、記されている。白井は上に見たように、国憲党構想に関わっていた。新党構想をさらに進める段階に入った当時の、白井の不安が吐露されたものだと言える。村瀬氏は、白井の不信が間もなく、文官任用令の改正によって裏打ちされたとしている。政府は新党構想の後ろ盾になるどころか、その可能性を狭めたのである(文官任用令の改正には、激しかった政党の猟官運動への対処という面もあったが、それについても、対民党策の巻き添えになったということである)。しかし吏党系は、薩長閥政府の超然主義を支持するのであれば、それを甘受せざるを得なかった。

1899年5月8日付の読売新聞は、大岡の一派が1898年に憲政党との合併を唱えたものの、品川に属する佐々が反対したとしている。他の報道などから、憲政党とは、分裂後の、自由党系による憲政党だと言える。一部の、一県一党を目指すような地域的な動きは別としても、国民協会に2大民党の合流に加わろうという声があったとは考えにくい(それならば、星亨の構想―本章第3極(⑱)参照―とも一致する)。1899年1月12日付の東京朝日新聞は、自由党と国民協会の合同論を「随分久しきもの」としている。また双方が「同一軌道を履」んでいるとしている。大岡らは、伊藤系と自由党系の合流が現実味を増す前から、自由党系との合流に前向きであったようだ。国民協会の内部は、(どちらかといえば)吏党系の刷新を志向する者達と、自由党系との合流を志向する者達に分かれていたのだ。1899年の3月といえば、文官任用令の改正等が行われた月であり(28日)、第2次山県内閣に対する協力に、憲政党の不満が高まった時期である。伊藤も文官任用令の改正等に批判的であったから、金子が伊藤に準じて、国民協会を土台とする新党の結成から手を引いたという可能性がある。与党化を志向(註1)し、伊藤と近くなっていた大岡育造(註2)らが、国民協会所属でありながら、同党を土台とする新党構想を顧みなかったということにも頷くことができる。

3月19日付の読売新聞では、再び、以下の通り、構想の進展が報じられている。

國民恊會の解体問題ハ久しく決せざりしも一方にハ例の國憲黨よりの勸誘あり恊會中又既に方針の決定するものありしを以て遂に過般來屢々内部の交渉を經たる上愈よ昨日午後一時より在京代議士の總會を開き左の決議を爲したり

一、本恊會ハ部署を定め廣く同志を天下に求め新政黨の樹立を期する事

一、前項の目的を達する爲め同志團体並に有志に對し交渉委員を設け諸般の恊議を

爲す事

一、在京代議士及び常議員ハ交渉委員の恊議に與る事

~略~右交渉委員ハ明日より夫々恊議の上豫て交渉中なる國憲黨並に中立倶樂部の方面に向て交渉を開始する筈なりといふ

中立倶楽部が何かは分からない。時期的に見て衆議院の中立会派、日吉倶楽部のことであるか、同派を含む中立派のことではないかと思われる。3月22日付の読売新聞では次のことが報じられている。

・新政党の主義綱領は、同志者から選抜する創立委員によって決定されるが、国家主義は党の特有として標榜し、国力の発達を眼目とする。

・国憲党の発起者は、国民協会の新政党樹立の決議を見て交渉する準備をした。

・新政党と国憲党とは合同すべきものだが、双方の発起人等には面識のない者もあるから、両派の懇親会が開かれるだろう。

・新政党の加入者は意外に多くなると創立者が断言した。

・衆議院の解散があれば好機会だが、歳費増加のため、次の議会も無事済むだろう。このことも頭痛の種だと創立者は語った。

※議員歳費の増額に反対した衆議院会派は憲政本党のみであったが、日吉倶楽部からは、島田三郎、前川槇造、片野篤二、鈴木総兵衛の、11名中4名もの反対票が出た(田口卯吉も含めると12名中5名となる)。

最後の点は、自由党系の憲政党(議員歳費の増額は、第2次山県内閣に対する協力の見返りとして、憲政党が求めたものであった)と薩長閥政府が協力した場合、吏党系にとっての有利な機会が失われるということであり、吏党系の境遇、弱点を自ら良く示したものだといえる。自由党系(憲政党)は単独では衆議院の過半数に届かず、吏党系はキャスティングボートの一角を握っていた。それでも、存在感を示すことは出来なかった。議席数の少なさもあるが、第2次山県内閣・薩長閥を支持することが当然の政党であったからだ(厳密には、山県系を支持するのが当然の勢力であり、薩長閥政府を支持するのが当然の勢力に、戻っていたからだ)。そうであっても、少しでも多少議席を増やし、吏党系の影響力を強めたいというのが、吏党系刷新の意図であったのだろう。同じ3月22日付の読売新聞は、山県が猟官等を恐れて、憲政党と匹敵する新政党を計画したとしている。そうであれば国憲党構想は、第2次松方内閣期における公同会の結成と同じく、連携相手の民党を牽制する道具であったか、牽制する道具に変えられたのだということになる。山県系が新党の結成に積極的であったということを確かめることはできない。しかし第2次山県内閣支持派、つまり憲政党と国民協会、鹿児島県内選出議員だけでは衆議院の過半数に届いていなかった。鹿児島県内選出議員は、会派すら形成していなかった。他の無所属議員や、日吉倶楽部の一部の支持を期待することもできたが、国民協会等による新党の結成によって、衆議院における支持基盤を、より確かなものにしようとしていたとしても、不思議ではない。この点も、第2次松方内閣と同様であったと考えられる。同内閣期との共通点が多いということは、薩長閥のどの勢力が内閣の中心となって、民党の一方と組むことに成功しても、同じ課題を背負うことを意味する。これを解決したのは、伊藤系の、自由党系等との合流であった(それでも問題が解決されたわけではない―第8章④⑤等参照―)。村瀬信一氏は、複数の書簡の内容を根拠に、「山県内閣が何らかの了解と支持を国民協会に与えていたことも事実らしい」としている(村瀬信一「帝国党ノート」57頁)。山県自身が積極的ではなかったとしても、周囲に多少なりとも積極的な人物がいたということ、吏党系が自力で拡大することには期待していたということはあったのだろう。

3月23日付の読売新聞は、国民協会の院外者の総会が、新政党組織に関する同党の決議を是認し、一時も早く樹立すべく、注意書を送って運動を幇助することに決定したと報じている。そして国民協会と関係が深い曽祢荒助と西郷従道が加盟するとしても、政府は新政党に対し、これまでの国民協会と同様の態度をとるとしている。帝国党は結成当初、西郷を党首にしようとして失敗した(村瀬信一「帝国党ノート」61~62頁)。上に述べた議席数を増やすこと以外にも、薩長閥の実力者を党首に担ぐことは、吏党系にとっては有効であった。しかし、西郷が元帥となって、政党の党首になれなかったというような理由はあったとしても、それを実現させることができないことこそ、薩長閥のバックアップを十分に受けられずに不振に苦しむ、吏党系の姿を示す事象であった。吏党系が刷新されても、それが以前の吏党系よりも良い待遇を受けることはなさそうだということは、当時徐々に明確になってきていたのだといえる。山県は第2次山県内閣成立当時、憲政党からの閣僚起用に踏み切っていたとはいえ、その後憲政党からの閣僚の採用を拒否したことからも分かるように(その理由は内閣がすでに組織されているということであったが、山県は政党員を直ちに官吏に登用することを欲さなかった―升味準之輔『日本政党史論』二304頁)、超然主義にこだわっていた。だから新政党に対して、国民協会と同様の態度をとるのは自然なことであった。

3月24日付の読売新聞は、新政党の懇親会について報じている。国民協会からは佐々友房、元田肇、河北勘七、薬袋義一、大野亀三郎、大岡育造、国憲党からは斎藤修一郎、荒川邦蔵、西野久右衛門、松沢光憲、渡辺国武らが参加したのだという。記事には次のようにもある。

側面攻撃  新政黨ハ最初に國憲派が主張せし如き狭隘なる野暮な理屈ハ止めて成るべく大風呂敷を廣げ實業家ハ勿論中立無所属等の連中ハ風を望んで靡き來たり自進両黨中の不平連を引つける樣微穩なる側面攻撃をなす方針なりとか

新政黨の効能  從來の國民恊会ハ漸く二十名内外の代議士を有するのみなるも尚ほ進自両派の間に介立して能く漁夫の利を占め居バ之を擴大すれバ天下を三分して能く中正を保ち國政上至大の効能あらんと創立者は吹き居れり

まさに3党鼎立構想である。漁夫の利を占めたとはいうものの、20議席程度では、影響力を十分には行使できないと考えられていたことが分かる。単独でキャスティングボートを握っておらず、第3会派の地位すら何度も失っていたのだから無理もない。主に中立実業派が憲政党への参加と不参加に分裂した影響により、当時国民協会は第3会派となっていた。しかし次の総選挙を待たずして、他により大きな会派(三四倶楽部、中立倶楽部)が誕生することで、吏党系は実際に、第5会派にまで転落するのである(つまり吏党系の刷新が不発に終わったということだが、ここで結論を述べる訳にはいかない)。3党鼎立構想(第4章(準)与党の不振(⑤⑪⑫⑭)参照)を実現するためにも、再編による一定程度の規模拡大は不可欠であった。記事に見るように、実業家が乗り得るような中道的な性質、中立性を備えて、つまり主張、立場をマイルドなものにして、初めて新政党は、鼎立構造の一角を担う第3党になり得ると考えられていた。それは中央交渉部の分裂前に戻ろうとすることでもあった。2大民党を切り崩す意図もあったようだが、それは伊藤系の政界縦断志向とは異なる、第2次松方内閣期の民党切り崩しと同様の志向であったと言える。

山県-吏党系は、中立実業派を連携相手とすることについても、政界縦断的な動きについても、伊藤系の後塵を拝していた。特に後者については、民党の一部を取り込もうという、当時は有効性が否定されていたに近い手法を採ろうとするものであった。それは、2大政党(2大民党)の一方の支持を得る政権、あるいはそれを基盤とする政権が、野党第1党などの、他の政党に切り崩しを仕掛けるという、第13回帝国議会以降に有効となった切り崩し(本章第3極(⑩⑬⑱)参照)とは、性質が異なる。山県系は、自由党系と本格的に接近すること(政界縦断へと進むこと)を拒んだため、以前第2次松方内閣が、進歩党を味方としつつ、別に自らの政党をつくろうとした失敗例と類似する方法しか、本来採ることができなかった。第13回帝国議会での成功は、憲政党(自由党系)の星が、政権の当事者であるかのようなスタンスで動いたことに助けられたものであった。伊藤系の後塵を拝していたというよりも、山県系はスタート地点の付近で足踏みをしているような状態であった。衆議院に対する策に関して伊藤系を抜かない限り、伊藤系の政界縦断構想が再び動き出し、山県系、吏党系の動きを凌駕することは避けられなかった。

その後、新党となるべきものの組織が進められた(1899年3月28日付読売新聞。加盟者する衆議院議員を国民協会20、日吉倶楽部1、憲政党8、憲政本党6、無所属2名としている)。松平直正内務次官は各府県知事に書面を送り、新党組織に十分力を与えるように勧誘し、憲政党の感情を害したという。そしてそれを山県に確かめられ、事実無根と弁解したらしい(3月29日付読売新聞)。本当であれば、吏党系の苦しさを絵にしたような事象である。薩長閥支持派でありながら、公認された存在ではないという、吏党系が以前から味わっていた苦しみである。薩長閥政府が、吏党系よりも自由党系に気を配らざるを得ない状況の、犠牲者としての苦しみでもある。さらに、国憲党系が主導している状況に反発した国民協会の院外者が、反政府を標榜すべきだと、同党の中心的な人物であった佐々友房に迫った(3月31日付読売新聞)。さらに文官任用令の改正(3月28日)により、猟官目的の加入予定者が躊躇するようになったのだという。猟官だけが目的の参加者をどう評価するかは別として、政府支持派であることで得られるはずの、吏党系の魅力の1つがますます霞んで、参加者を減らしたことは確かなようだ。その後、「国憲党」に関する報道は皆無となった。理由は以上のことだけではないと思われる。当時、政界は重要な転換期に入っていたのだ。それはもちろん、以下に述べる自由党系と伊藤系の動きによる。

自由党系は1900年5月31日に山県首相に提携の打ち切りを通告し、伊藤博文を担ごうとした。伊藤も事実上自由党系をその勢力の中心とせざるを得ない、新党構想に着手していた。薩長閥は再び、吏党系に影響力を誇り、政党に否定的な山県系と、政界縦断へ進む伊藤系との、分化を顕在化させたのである。1899年1月6日付の読売新聞は、憲政党内において、土佐派が伊藤を、松田、杉田らが西郷従道を首相に担ごうとしており、前者となれば長谷場純孝(当時無所属)らが反対側に立つと予想している。しかし、実際には憲政党、つまり自由党系は伊藤を党首とする新党、立憲政友会にまとまって参加し、第4次伊藤内閣を支え、長谷場ら鹿児島県内選出の親薩摩閥も同様であった。松田らとの分裂もなかった。伊藤と自由党系の新党への歩みは、それだけ強力なものであったということができる。

薩長閥の不統一が顕在化し、伊藤系と自由党系による政界縦断の仕切り直しが現実的になるという状況を前にして、中立的な立場を採ろうとすることの多い、政党に属さない実業家の議員達が、第2次山県内閣を支持する新政党に多数参加する可能性は、大きく低下したと考えられる(第2次松方内閣期の公同会の結成にも、実業同志倶楽部の議員が1名しか参加しなかった)。

1899年7月4日、国民協会は解散し、同党の議員達は翌5日、帝国党を結成した。国民協会19名のうちの、河北勘七以外の山口県内選出議員6名を除く13名が、旧日吉倶楽部系2名、憲政党離党者1名、無所属3名(江角千代次郎―島根3区、湖西銀行頭取―、山下倶楽部出身の深尾龍三―大阪6区、農業等―、第2次山県内閣農商務省農林局長就任に伴い国民協会を離脱していた和田彦次郎―広島4区選出、農業―)を加えて帝国党になった。中立実業派からの参加は、実業家ではあったものの、日吉倶楽部の他の多くの議員達のように市部の選出ではなかった2名(島根2区の並河理二郎と同6区選出の原田赳城)に留まった。山口県内選出の議員が抜け、外部からの参加者が、和田を除いて実質5名と少なかったため、帝国党の議席数は、国民協会と同程度のものにしかならなかった。その5名のうち2名は、第7回総選挙を待たず離党した(自由党系の憲政党を脱して参加していた山内が、1900年12月22日に無所属に、並河が1901年11月7日に立憲政友会へ)。それでも、結成の26日後に千葉県内選出の憲政本党離党者3名の加盟を得て、19議席から22議席となった(2区の四宮有信、3区の大須賀庸之助―自由倶楽部、自由党、第2回総選挙後の独立倶楽部、同盟倶楽部、公同倶楽部、立憲革新党、再結成後の議員倶楽部、公同会、憲政党、憲政本党と歩んでいた-、7区の星野助左衛門)。しかし結局は、立憲政友会参加者等が離党し、憲政本党から移って来た3名のうちの2名が離党した(立憲政友会の結成に参加した大須賀と、憲政本党に戻った四宮)。なお、奈良県の憲政本党にも、帝国党に移る議員(本間直、中山平四郎)があるという風説があった(1899年7月29日付読売新聞)が、切り崩しが失敗したのか、実現しなかった。第7回総選挙の前の最後の、第16回帝国議会の会期終了日(1902年3月4日)の帝国党の議席数は、わずか13であった。帝国党結成直後の懇親会には、山県首相、桂陸相、山本権兵衛海相(薩摩閥)、松方蔵相が病気、または差し支えがあって欠席したが、他の大臣は列席したようである(1899年7月9日付読売新聞。出席した西郷の語るところに基づいている)。これをどう評価するかは難しいが、山県系も帝国党に直接、大っぴらに関わることを避けたということは確かであり、その点で同党は、以前の吏党と同様の存在に留まった。

以上をまとめれば、吏党系の刷新計画は迷走を続け、その過程において伊藤系が手を引き、結局は国民協会が、伊藤系に切り崩された山口県内選出議員の分を外部から補充して改称したに過ぎない、意義に乏しい再編を行うにとどまったのだということになる。帝国党は国民協会が改組したものであったとして問題はないが、帝国党の幹事には元田肇と共に、国憲党の齋藤修一郎が就き(幹事長は佐々友房)、国憲党の樹立を斡旋していた非衆議院議員の中に、上で見たように、後に吏党系の衆議院議員となる者もいたから、国憲党と合流したとすることもまた、できる。なぜ意義に乏しい再編になったのかといえば、やはり、構想が薩長閥に重要視されていなかったからだろう。それは憲政本党党報第8号49頁の、以下の記述を見ることで想像できる。

國民恊會は自ら其藩閥の隷屬にして世人の厭惡する所たるを知悉せり、此に於てか新奇の工夫を案出し、以て人目を瞞過するの間に一大膨張を爲さんと企望せり、故に佐々は金子齋藤の徒に説けり、故に大岡は島田田口の徒に説けり、其他の末派連は夫れ々々相應の末派を説き廻れり、而して大岡は見事に失敗して全く田口島田の徒に排斥せられたり、而して佐々は稍々成功して金堅齋修の徒を奮起せしめたり、世の所謂國憲黨なるもの之れなり、~略~此に於て大岡更らに一策を案出し、渡邊國武を起して首領に戴かんと欲す、佐々大に之を賛し、大岡をして説かしむ、渡邊乃ち答て曰く、長州三尊にして新政黨に意あらば、與に犬馬の勞を執るべし、大岡乃ち去りて先つ伊藤氏に説く、伊藤氏一言の下に叱責す、辭して山縣氏に至れば氏の語亦た賴むべからざるものあり、流石の大岡も之を聞くや厭色あり、

新党構想は薩長閥の要人から起こったものではなかったようだ。そして最初に働きかけを受けた薩長閥要人は、伊藤博文であったらしい。これらのことは、上で見た報道と、少なくとも矛盾はしない。吏党系や実業派を土台とする新党構想に見切りをつけ、政界縦断志向に戻っていった伊藤系が冷淡になっても不思議はない。