日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
イギリス

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※19世紀については、特に君塚直隆『イギリス二大政党制への道』を参照した。

イギリス国教会でない、カトリックの国王を認めるかという問題について、貴族院と庶民院に、容認派のトーリと反対派のホイッグが形成され、それが政党へと発展していった。

トーリ(後の保守党)  :保守主義、王権尊重、保護貿易。国教徒、地主などが支持

ホイッグ(のちの自由党):自由主義、王権制限、自由貿易。非国教徒、商人などが支持

国王が信頼できる人物を首相に任命、18世紀前半は、ハノーヴァー王朝の誕生を支持したホイッグの首相が続き、政党同士を比べるのなら1党優位とし得る状況であったが、後半にはその傾向が弱まり、むしろトーリが首相を出している期間の方が長くなった。そんな中、離婚問題、妻の死により国王の人気が下がったことが、イギリス国教会が主流のイギリスにおいて、カトリックを容認する、トーリ内自由主義派は外務大臣のポストを得て、次にホイッグ右派と連立政権を形成した(トーリの全党的な支持を得られなかったために変則的な連立となった)。その次の首相もトーリが出し、カトリック開放問題を棚上げする形をとることで、通常の単独政権に戻った。腐敗選挙区の問題に関し、保守的なピール内務大臣と対立してカトリック容認派閣僚が辞任、同派はプロテスタント派との協力の是非で分裂状態となったが、カニング派としてまとまって、トーリを脱した。彼らとホイッグの要求により、カトリック解放法が成立した(それまでカトリック教徒は公職に就けなかった)。カトリック解放法反対派(ウルトラトーリ)はトーリを脱した。国王即位に伴う総選挙でトーリが第1党を維持するも過半数には達しない状況下、王室費に関する法案に反対するホイッグの動議が可決され、1830年、ホイッグとウルトラトーリ(トーリに反発していた)、カニング派(ホイッグに合流)の連立政権が誕生した。前国王ほどホイッグを嫌っていなかった新国王の即位により、政権交代が実現したのであった。選挙法改正法案(都市部選挙権拡大、腐敗選挙区整理)が成立し、改正後の総選挙でホイッグが過半数を大きく上回った。アイルランド国教会の収入の福祉への転用について、政教分離の立場から反対したホイッグ党右派の一部が離党し、ダービ派を結成したものの、ホイッグ単独政権が維持された。同党左派の起用に国王が反対したことで、トーリに政権を換えた。国王が保守的な庶民院を欲したために総選挙が行われた(1835年)。結果は保守党となったトーリが204、ダービ派が86、ホイッグ218、急進派90、オコンネル(アイルランド分離)派60であった(定数は658)。保守党・ダービ派対ホイッグ左派・急進派・オコンネル派という構造となっていたが(ただしホイッグ右派は急進派等との連携には反対していた)、このブロック同士を比べれば後者が過半数を上回り、第1、2党だけを比べても、ホイッグが保守党より多くなった。保守党の政権維持が困難になったことで、1835年、ホイッグ内閣が成立した。有権者の判断が国王の意向を覆したのだといえる。新国王即位に伴う総選挙でホイッグの第1党、3派による過半数は維持されたが、ホイッグ内閣の保守党との妥協によってキャスティングボートを失ったダービ派が保守党に合流し、同党が第1党になった。ホイッグを中心とする3派の合流は実現しなかったが、1837年の総選挙ではホイッグが過半数を獲得した。不作を受けた穀物関税引き下げが、農業関係からの働きかけを受けていた保守党、ホイッグ右派の反対で否決され、総選挙につながった。ここでは保守党が単独過半数を獲得し、関税引き下げに積極的なピールの、保守党内閣が成立した。アイルランド飢饉を受け、穀物法廃止を実現したが、保護貿易を志向する議員の多い保守党内の反発から総辞職、ピール派が保守党を脱した。ホイッグに政権が移ったものの、1847年の総選挙でホイッグが単独過半数を得られず(保守党227、ピール派91、ホイッグ298、急進派40、計656)、ピール派が、協力を求める内閣と再統一を求める保守党の間で、キャスティングボートを握った(ピール派はピールが1950年に死去した後も存続した)。ラッセル首相は、かつて反対していた労働者に対する参政権付与に意欲を見せ、ホイッグ左派、ピール派、急進派の支持を得るも、ホイッグ右派が反対した。自由貿易主義に基づく砲艦外交のパーマストン外相の更迭によって、ホイッグ内は、パーマストン派(右派、対外強硬派)とラッセル派(左派)の分裂状態に陥った。次に、ダービの保守党内閣が成立したが、総選挙で保守党が第1党になるも過半数には届かず、所得税増税を財源に含む予算案が、ホイッグ、ピール派、急進派の反対により否決、ダービは後継にホイッグのランズタウンを推したが、ランズタウンはピール派(勢力は縮小していた)のアバディーンを推薦し、ピール派、ホイッグ、急進派の連立政権が誕生した。次のパーマストン内閣も、ホイッグ、ピール派の連立であった(パーマストンは元カニング派)。1857年、アロー号事件について政府を批判する動議が保守党、ホイッグラッセル派、ピール派の賛成で可決され、総選挙となったものの、ホイッグがむしろ単独過半数に達した。与党内反主流派の反対で重要法案が否決されると、首相の推薦によって保守党内閣が成立した。翌1859年の総選挙で保守党は第1党になったものの、過半数には届かず(保守党306、ピール派23、ホイッグ285、急進派40、計654)、保守党に対抗すべく、ホイッグ、ピール派、急進派が合流して自由党を結成、内閣不信任案を可決させ、自由党内閣が成立した。

1865年、保守党への政権交代が起こったが、同党も、自由党と競うように改革を進めた。1868年の総選挙では野党の自由党が過半数に達し、総選挙の結果を受けて政権が代わった(首相は左派-ピール派出身-のグラッドストン)。1872年の総選挙では保守党が過半数を上回り、同党の第2次ディズレーリ内閣が成立した。グラッドストン自由党内閣とディズレーリ保守党政権が交互に出現する時代であった。この頃には自由党が消極財政、保守党が帝国主義と(その恩恵も活かした)社会政策という傾向が見られる。1880年の総選挙では、反対に自由党が過半数を上回り、同党の第2次グラッドストン内閣が成立した(保守党238、自由党349、アイルランド国民党65、計652)。予算案成立に失敗した1885年、政権が保守党に変わったが、総選挙で自由党を約15議席上回る程度にとどまり、アイルランド国民党の支持を得て何とか過半数の基盤を得た。しかしアイルランド国民党は、アイルランド自治に同意した自由党と連携し、1886年に、自由党左派による、第3次グラッドストン内閣が成立した。アイルランド自治法は、保守党が反対しただけでなく、自由党右派、急進派から反対者が出て否決となり、反対者は自由統一党を結成した。重要法案否決を受けて行われた1886年の総選挙では、保守党が第1党となるも、過半数には達しなかった(保守党316、自由統一党79、自由党190、アイルランド国民党85、計670)、このため、自由統一党が閣外から協力する、保守党内閣が成立した。1892年の総選挙では、反対に、自由党が第1党となるも、過半数に達しなかった。それでも自由党単独の、第4次グラッドストン内閣が成立した。アイルランド自治法案は下を通過するも、上院で否決、庶民院解散の是非について自由党内でもめ、総辞職した。次の自由党のローズベリー内閣も、自由党がローズベリーの自由帝国派と、小英国主義派に分裂状態となり、総辞職をした。こうして1895年、保守党と自由統一党の連立政権が発足、少数与党であったために総選挙が行われ、保守党が過半数を上回った(保守党340、自由統一党71、自由党177、アイルランド国民党82、計670)。1900年の総選挙でも圧勝したが、この選挙では、労働代表委員会が2議席を獲得したことが目を引く。この頃、保守党と自由統一党の一体化が見られ、統一党と称するようになった。ただし自由統一党の組織は存続し、その後、保守党に吸収される形となり、党名も事実上保守党となった。帝国内特恵関税派と、自由貿易派が対立していた自由統一党との一体化が進んだことで、保守党の系譜では、保護貿易派と、自由貿易派の対立が激しくなった。保守党は分裂を回避するため、そして自由党の分裂を期待するため、内閣総辞職を決めた。こうして自由党内閣が成立したが、自由党は自由貿易でまとまり、翌1906年の総選挙で圧勝した(保守党157、自由党400、労働代表委員会-同年労働党に-30、アイルランド議会党―アイルランド国民党の後継―83、計670)。この当時の自由党(と言う以上に同党のロイド・ジョージ)には社会民主主義的な性格があり、税の累進性を強化しつつ、社会政策を充実させた。1910年、予算案など、金銭関係法案を庶民院のみの通過で、他も庶民院で3期可決されることで成立可能とする議会法案が争点となった総選挙の結果、自由党と保守党が並んだが(保守党272、自由党272、アイルランド議会党84、労働党42、計670)、アイルランド議会党、労働党の協力を得て多数派となり、法案は成立し、アイルランド自治法も成立した。

第1次世界大戦が始まると、自由党に、保守党、労働党を加えた挙国一致内閣となった。徹底抗戦派のロイド=ジョージらが自由党を離党した(彼らが連立自由党、アスキスらの残部が独立自由党と呼ばれる)。労働党も抗戦派のヘンダーソン派と反戦のマクドナルド・スノウドン派に分裂した。そして1916年、連立自由党、保守党、労働党マクドナルド・スノウドン派によるロイド・ジョージ内閣が成立したが、労働党マクドナルド・スノウドン派が連立を脱し、同党の再統一が実現した。ロイド・ジョージと保守党党首が内閣支持派に推薦状を出した1918年の総選挙は、クーポン選挙と呼ばれる。結果は、連立与党523(保守党382、連立自由党127、国民民主労働党―愛国社会民主主義政党―9、労働党4、無所属1)、独立自由党36、労働党57、シン・フェイン党―アイルランド独立強硬派―73、他18、計707となった。普通選挙制(ただし男性が21歳なのに対し女性が30歳以上)、アイルランド独立が実現した。またロイド・ジョージ首相は、非労働党・非社会主義勢力が合流して中央党を結成するという考えを持っており、当時議席数の上で優勢であった保守党は、これらに反発していた。単独で過半数を上回っていた同党は連立を離脱し、同党の内閣が成立した。1922年の総選挙は、保守党344、自由党(アスキス派)62、国民自由党(ロイド・ジョージ派)53、労働党142、他14、計615となり、長い歴史を持つ保守、自由両党による2大政党+αの体制が崩れた。自由党は1926年に再統一されたが、不振を脱することはなかった。総選挙では保守党が第1党の地位だけは守ったものの(保守党258、自由党158、労働党191、他8、計615)、自由貿易志向の労働、自由両党が倒閣に動き、1924年、自由党が閣外協力する、初めての労働党内閣が成立した。しかし同年の総選挙では保守党が圧勝し(保守党419、自由党40、労働党151、他5、計615)、政権を奪還した。自由党の退潮は、保守、労働両党による2大政党制への以降を印象付けた。男女普通選挙制が導入されて迎えた1929年の総選挙では、労働党が過半数には届かなかったものの、第1党に返り咲き、同党による第2次マクドナルド内閣が成立した。世界恐慌の中、緊縮財政を採ったことで、失業手当削減に反発したヘンダーソン内相が辞任した。そして国王の仲裁により内閣は、労働党、保守党、自由党の一部による挙国一致内閣となった。1931年の総選挙の結果は保守党470、自由党国民政府派(挙国一致内閣参加派)35、独立自由党(ロイド・ジョージ派)4、自由党(アスキス派)32、労働党国民政府派13、労働党52、他9、計615となったが、同一の挙国一致内閣(マクドナルド内閣)が続き、1935年保守党、自由党国民政府派、労働党国民政府派による内閣が成立、同年の総選挙は、保守党387、自由党国民政府派33、自由党21、労働党国民政府派8、労働党154、他12、計615という結果となった。この内閣の下、アイルランド自治国の独立が実現した。同一の枠組みの内閣が3代続き、その3代目は、1940年成立のチャーチル内閣であった。

第2次世界大戦における対ドイツ戦勝利の後、1945年の総選挙は保守党197、自由党国民政府派11、自由党12、労働党国民政府派2、労働党393、他25、計640となり、労働党に政権が移った。その後は、次のとおりである。

1951年 保守党内閣

1964年 労働党内閣

1970年 保守党内閣

1974年 労働党内閣

1979年 保守党内閣

1997年 労働党内閣

2010年 保守党、自由民主党連立内閣

2015年 保守党内閣

労働党政権が評価されたことで、保守党も社会保障政策を重視した。1981年、左傾化する労働を脱した議員たちが社会民主党を結成、1988年に選挙協力をしていた自由党と合流し、社会自由民主党を結成した。同党は同年中に自由民主党へと改称した。合流前の、1983年の総選挙において、2党の選挙連合は、第2党の労働党を得票率で約2.2%しか下回らなかったが、小選挙区制下では23議席(自由党17、社民党6)しか得られなかった。

社会保障重視の政治が、国の借金を増やしていたことから、サッチャー率いる保守党は新自由主義に舵を切り、政権を奪還、労働党も、ブレアの下、新自由主義を取り入れた「第三の道」を採り、政権を奪還した。しかし2大政党が緊縮路線をとると、それに対する不満も高まり、2010年の総選挙では保守党が政権を奪還するも過半数に届かず、第2次大戦後初めての連立政権となった。その次の2015年の総選挙では、労働党が強かったスコットランドで、スコットランドの独立を唱える社会民主主義政党である、スコットランド国民党が、それまで1ケタの議席しか得られていなかったところ、スコットランドの選挙区の大部分を独占して56議席を得るほどに躍進したため、保守党が単独政権を復活させる一方、労働党が退潮した。2005年に62議席、2010年に57議席を取り、好調であった自由民主党は、8議席に後退した。国民投票の結果、EUから離脱することとなったため、それを進める上で力を強めようと、保守党内閣が庶民院の総選挙を実現させたが、左傾化した労働党が有権者の不満を吸収して復調し、保守党は第1党の地位を守ったものの過半数を割り、北アイルランドの、イギリス帰属維持を主張する、保守党よりも保守的な民主統一党(10議席)の閣外協力を得て、かろうじて政権を維持することができた。しかし離脱案について保守党内すら一致できず、2019年に離脱強硬派に首相が交代した上で、野党の合意を得て総選挙が行われた(保守党内閣は3分の2が必要な正式な手続きでは解散できず、過半数ですむ新法成立によって解散を実現させる方針を採った)。結果、離脱を巡って政治が停滞することに対する懸念もあったことから、保守党が過半数を上回り、2回目の国民投票を行うとした労働党は大敗した。スコットランド国民党は議席を増やした。この過程において、2大政党では多くの離党者が出た。党首交代後の保守党は多くの議員を除名した。それ以前に、左傾化していた労働党では、党首のEU離脱志向(再度の国民投票に消極的な姿勢)、反ユダヤ主義的傾向に反発し、同党を離党した議員達が独立グループを形成していた。保守党を離れた、合意なきEU離脱強硬に反対する議員達も加わったが、総選挙で議席を得られなかった。この独立グループ等の離党者を吸収して議席を倍増させていた自由民主党も、総選挙では元の通りに半減して11議席となった。総選挙では地域政党の他、緑の党が議席を得る一方、EU離脱強硬派のブレグジット党(独立党離党者が2018年に結成。保守党との競合を避けて候補者を絞った)、独立党は議席を得られなかった。

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