日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第7章

第7章

①選挙制度

衆議院議員選挙法の改正(第6章⑪参照)により、府県単位の大選挙区制となった(さらなる同法改正により、新たに人口3万人以上となった市、人口要件を満たしており、新たに市制が導入された市が独立した選挙区となり、横浜市の定員も1から2に増えた)。多くの県で、選挙区が郡部と1人区(小選挙区)の市部に分けられ、市部選出の議員が増えるようにされた(大都市は定員が複数の、単一の選挙区であった)。定員は381(市部50他の、57の1人区を含む109選挙区)となっていたが、新設の北海道の郡部、沖縄全1区では選挙の施行に至らなかったため(北海道の市部は実施)、衆議院議員の合計は376名となった(54の1人区を含む105選挙区)。細かく見れば、市部の定数は東京市が11、大阪市が6、京都市が3、横浜、名古屋、神戸の3市がそれぞれ2、他の47市がそれぞれ1、計73であった。郡部の定数は、北海道、沖縄県を除く45府県を合わせると計296。他には北海道の市部である札幌、函館、小樽の3区、佐渡、隠岐、対馬、(奄美)大島の4島の定員がそれぞれ1であった。これで合計376議席である。これに、例外的に3つの1人区に分けられていた北海道の郡部、定数2の沖縄県の郡部を含めれば、本来の381となる。選挙区の定員が多い場合、民党系の2大政党が複数の候補を立てる選挙区が多くなるとしても、無所属や小党派の候補に、以前より有利となるはずであり、それが薩長閥側の、改正の狙いであった(ただし当時は人物で選ぶ風潮が強かったため、小選挙区であっても、地元に影響力を持つ無所属候補は当選できた)。選挙区が広いと、1つの選挙区に、同一政党の候補者が複数いることになる。同士討ちになると不利であるのはもちろん、政党のまとまりにも悪影響となる。こうして、同一選挙区内の同じ党の候補者が、票を集める地域を分けるという、以後定着する手法が見られた。選挙権は直接国税10円以上に下げられ、有権者は全人口の約2%となった。被選挙権の納税資格は撤廃された(納税資格は衆議院議員全員にとって低いハードルであったわけではない。買収も頻繁であった当時、有権者の増加、郡部にある選挙区の広域化によって、選挙費用は増加した。

 

②選挙結果

立憲政友会190、憲政本党90、帝国党17、新潟進歩党7、三四倶楽部6、

無所属66(→壬寅会18)、計376

衆議院議員の任期切れによる総選挙であった。立憲政友会、政友本党、帝国党とも議席を増やしたが、定数も増えていたため、状況に大きな変化はなく、立憲政友会が過半数を上回る状況も変わらなかった(第16回議会会期終了日と選挙結果の議席占有率を比較すると立憲政友会約51.7%→約50.5%、憲政本党24%→約23.9%、帝国党約4.3%→約4.5%)。同党では、新人議員の比率が約6割と高くなり、それは当時としては、驚くほどの水準ではなかったものの、地盤が弱く資金を必要とする新人議員を中心に、山県-桂系に近い姿勢を採る議員が増えることにつながった。憲政本党は、定数が増えたにもかかわらず、分裂の影響でなお、、結成時の議席数を大幅に下回っていた。三四倶楽部は総選挙を組織的に戦う状況にはなく、当選者もわずか6名であった(総選挙前は30)。

 

③壬寅会と同志倶楽部の結成

1902年10月、中立の無所属議員が壬寅会を結成した。その際、井上角五郎が薩長政府寄りの中立会派を結成しようと動いたが、壬寅会に参加する議員達は呼応せず、厳正中立の会派として、これを結成した(1902年10月11日付萬朝報)。井上らは会派の結成を試みた(1902年11月19日付萬朝報)が、実現しなかった。12月には、三四倶楽部と新潟進歩党が同志倶楽部を結成した。

 

④衆議院議長選挙

第17回帝国議会(1902年12月)の衆議院議長選挙において、憲政本党は、同党と同じく与党ではなかった立憲政友会の、片岡健吉衆議院議長の再選を支持した(当選)。副議長にも立憲政友会の所属で、国民協会出身の元田肇が再選された。壬寅会は、議長を(第1党の)立憲政友会から出すことに異論はないとし、副議長は候補を問わず公平に、適当な人物を選出すべきだとしていた(1902年11月26日付萬朝報)。

 

⑤地租増徴継続問題と立憲政友会革新運動

第1次桂内閣は日英同盟がもたらした信用によって外債募集に成功した。行財政整理は省庁の抵抗を受け、桂総理が熱心ではなかったこともあり、事実上失敗した。桂総理は、海軍拡張を中心として拡大した、歳出を支えるための地租増微継続案を、1902年12月に提出した。共に野党色を強めていた立憲政友会と憲政本党は、加藤高明の仲裁によって連携した(木下恵太「第十六・十七議会期における憲政本党」97~100頁)。両党は、地租増徴によらない、行財政整理による海軍拡張を唱えた。2大政党等の、衆議院の大多数が地租増徴に反対したことから、桂総理は同院を解散した。ところが議会閉会後、桂総理と伊藤立憲政友会総裁は、地租の増微によらない、行財政整理や公債による海軍拡張で、秘密裏に合意した。立憲政友会では、党の組織改革(総裁独裁を改める)を求めて、革新運動が起こっており、執行部は板倉中、久保伊一郎、関信之助、龍野周一郎、持田若佐の衆議院議員5名を除名した。これにより立憲政友会は、衆議院の過半数をわずかに割り込んだ。壬寅会の一部は、地租増徴継続の撤回、海軍拡張計画の繰り延べを建議しようとしていた(1902年12月22日付萬朝報)が、話がまとまる前に、衆議院が解散された。

 

 

補足~壬寅会の結成による中立実業派の刷新~

 

補足~同志倶楽部結成の経緯~

 

 

選挙制度の影響2大民党制第3極(②)~市部と郡部~

 

第3極(③④⑤)~壬寅会~

 

第3極連結器(③)~同志倶楽部~

 

(準)与党の不振(⑤)~順境にあったはずの吏党系~

 

1列の関係(⑤):伊藤個人は当然ながら自由党系ではなかった。しかし、自由党の系譜にあると言える立憲政友会の総裁であった伊藤が、行財政整理を要求しつつ、桂と合意をしたことには、1列の関係が良く表れている。憲政本党は、ロシアに対して第4次伊藤内閣(政友会内閣)よりも強硬的であり、行財政整理に取り組む姿勢を見せた第1次桂内閣に好意的であった。しかし、第1次桂内閣(山県-桂系)の関心が、同党よりも、衆議院の過半数を上回る立憲政友会にあったため、内閣支持派として影響力を持ち、展望を開く道が閉ざされ、憲政本党は、立憲政友会との野党共闘を選ばざるを得なくなった。政界のキャスティングボートはやはり、立憲政友会が握っていた。現実的であり、議席数に恵まれた自由党系に度々先を越される、あるいは抜け駆けをされることは、自由党系よりも理想主義的で、第2党であることが多かった、改進党系の宿命であった。

 

2大民党制(⑤)~野党としての優位政党~

 

 

 

 

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