日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第8章 ~1903年3月~

第8章 ~1903年3月~

①選挙結果

立憲政友会181、憲政本党84、帝国党17、壬寅会15、新潟進歩党7、

無所属72(→中正倶楽部25、政友倶楽部13)、計376

立憲政友会、憲政本党の2大政党は前職優先の選挙協力をしたが、議席を少し減らした(解散当日と比べると、立憲政友会が5減、憲政本党が9減)。立憲政友会は過半数を8下回った。総選挙前の12月の除名が5名(同じ12月に亀岡徳太郎が壬寅会へ移動)、総選挙後の4月の除名が3名ある(双方とも、第1次桂内閣に寄ったとみられる議員の除名。総選挙前については第7章⑤参照、総選挙後の除名は、板倉中、龍野周一郎、持田若佐)一方、無所属議員の加盟も5名ほどあり、総選挙後初の第18回帝国議会の開会当日には、結局5議席ほど過半数を下回る状態であった。しかしなお、2大政党の合計は、過半数を70議席以上、上回っていた。帝国党、新潟進歩党は現状維持であったが、新潟進歩党以外の三四倶楽部系は壊滅した(憲政本党から出馬した初見八郎を含め、全員が不出馬か落選)。壬寅会は28から15議席に大きく減ったが、吏党系分裂後の無所属議員から成る中立派としては、むしろ総選挙を越えて一定のまとまりを維持し、一定の議席を得る初めての例となった。桂・伊藤合意に従うかどうかで、立憲政友会は揺れたが、党としては合意を承認した。

 

②政友倶楽部、中正倶楽部の結成

第1次桂内閣による切崩し、短期間に衆議院の解散が繰り返されたことによる議員の疲弊もあり、立憲政友会では、野党的な姿勢を採る執行部に批判的な者達がいた。既存の優位勢力であり、さらに直接政権も担っていた山県-桂系に対して、実業上の利害関係から、野党的な姿勢を採りたくない議員もいたと考えられる。執行部に批判的な議員達は、役員公選、重要問題の合議を求めていた、革新派の運動に加わっていた。立憲政友会を総選挙前に除名された5名のうち、第8回総選挙に当選した2名(久保伊一郎と関信之助)、新たに除名された3名が、1903年5月、無所属議員の一部と中立会派、政友倶楽部を結成した。同派は、伊藤の専制を批判していた立憲政友会革新派のうち、山県-桂系寄りであった議員、第1次桂内閣寄りの中立議員から成り立っていた。壬寅会系、他の無所属議員も同月、政友倶楽部結成の2日前に、中立の中正倶楽部を結成していた。同志倶楽部も5月に改めて結成されたが、9名中7名が新潟進歩党の議員であった(他からの参加は、壬寅会系だが新潟市選出の鈴木長蔵、和歌山県の郡部において、無所属として当選した吉村英徴)。政友倶楽部は6月、帝国議会の会期が終了した後、解散した。

 

③衆議院議長選挙と憲政本党の姿勢

1903年5月、第18回帝国議会(特別~6月)では、桂・伊藤合意に反発した憲政本党の協力を得られなかった立憲政友会が、それでも衆院議長・副議長のポストを維持した。議長には片岡が再選され、副議長には杉田定一が選出された。憲政本党は、政府の責任を問う弾劾上奏案の提出と共に、立憲政友会との提携の打ち切りを決議したが、その際、小問題についてだけは交渉を継続するという文言を含め、決定的な決裂を避けた(『立憲政友會史』第1巻245~246頁)。憲政本党は、地租増徴継続反対、海軍拡張賛成という、矛盾し得る姿勢を採っていたが、行財政整理が不十分だとすることでつじつまを合わせ、同様であったはずの立憲政友会が、海軍拡張を容認したことに反発していた。ロシアは1903年4月、約束していた第2期の撤兵を見送った。党内に対外強硬派を抱える憲政本党は、第1次桂内閣を追求する材料を得ると同時に、内部不統一に陥る危険にも直面した。

 

④立憲政友会の分裂と民党共闘

第18回帝国議会が開かれる前の1903年4月、伊藤の説得により、立憲政友会は桂・伊藤合意を承認、桂総理は地租増徴継続案を撤回した。同時に総務委員を廃止して、より多い30名の協議員を設け、その中から総裁が5名までを指名する常務員を設けることで、党内の反発を和らげようとした。総務委員は最高幹部ではあったが、数が多いことで指導力、一体性が弱く、総裁に対する力も弱いものとなっていた。また10名以上いながら、旧自由党の出身者は林有造、星亨、松田正久と、3名に過ぎなかった(自由党系の憲政党に入党していた末松謙澄も総務委員であったが、彼は伊藤系であった)。これは、大岡育三と元田肇の2名を出していた国民協会系とあまり変わらない数であり、旧自由党系には不満があった。この時には、松田、原、尾崎の3名が常務員に就いた。さらに、桂・伊藤合意と無関係の教科書審査事件に関する決議案(収賄事件、弊害のある教科書審査制を存続さていることについて責任を問うもの)、取引所事件に関する決議案(株式取引所の限月を短縮する勅令を、事実上取り消すような省令に関して、取引所法に反し、違憲の疑いがあり、失政だとして責任を問うもの)を、憲政本党とともに可決させた。これに反対であった伊藤総裁は、常務員の辞任を求めた。しかし協議員の反対によって続投が決まった。立憲政友会は、憲政本党の、内閣を弾劾する上奏案には反対したが(123対228で否決)、両決議案については、内閣を問責するのではなく、担当大臣を問責する修正をした上で、賛成したのであった。それでも立憲政友会内の反発は収まらず、第18回帝国議会中に尾崎行雄ら15名以上、閉会後も含めれば、1903年の内に土佐派(片岡、林ら)、小川平吉ら革新派の一部など、65名が離党する結果となった(うち3名は年内に復党)。特に尾崎は、松田、原と共に常務員に就いていた。第17議会で予算案が不成立となり、前年度予算の執行となっていたことから、第1次桂内閣は追加予算案を提出した。積極財政の色が強かったことから、立憲政友会は第1次桂内閣寄りの姿勢を転換して、再び憲政本党と連携、これを大幅に削減させた。憲政本党内では、主に対外強硬派が連携に反対であった。特に玄洋社系の平岡浩太郎(国民協会や公同会、山下倶楽部に属していた)は、憲政本党を山県-桂系に寄せようとしていた(平岡は第17回帝国議会期の代議士総会において、立憲政友会のさらなる分裂を予想し、それが憲政本党の利益になるとして、立憲政友会と連携しても、議席の多い同党を助けるだけで利益はなく、仮に2党の連立政権が成立したとしても、閣僚ポストを2つ得るのが関の山だという見方を示した。このため地租増徴継続の撤回を条件に、他の面では譲歩し、第1次桂内閣に協力するべきだとした―1902年12月21日付東京朝日新聞―)。伊藤は1903年7月、枢密院議長となり、それに伴い立憲政友会の総裁を辞した。立憲政友会の議席数の減少、党首の喪失を見た憲政本党には、立憲政友会との合流を志向する要人もいた(『原敬日記』第2巻続篇102頁―1903年7月16日―。大石正巳について、大隈を引退させた上での合流を辞さない立場であると見ている)。しかし立憲政友会は直ちに、伊藤の推す、公家出身の自由主義者であった西園寺公望(貴族院議員)を総裁とした(西園寺はかつて、中江兆民主筆、松田正久幹事の東洋自由新聞で社長を務めたが、明治天皇の内勅を受けて辞任した)。伊藤の枢密院議長就任は、山県-桂系が、立憲政友会を桂に協力的になるようにまとめられなかった伊藤の、同党総裁辞任、それによる立憲政友会のさらなる動揺、薩長閥が政党とつながっているとも言える状態の、解消を狙った策であった。しかし、立憲政友会からさらなる離党者は多く出たものの、伊藤の総裁辞任は致命傷とはならず、第1党の座は揺らがなかった。西園寺新総裁が、第1次桂内閣に協力的になるように、党内を引っ張ることもなかった。総裁が元老であるという重石の取れた立憲政友会は、むしろ憲政本党と提携する、野党の色を強めた。立憲政友会全体との合意の難しさを痛感しながら、その切崩しによる多数派形成の目処を立てることも出来なかった桂総理は、衆院の再度の解散に傾いていった。

 

⑤同志研究会、交友倶楽部、自由党の結成

1903年12月1日、立憲政友会離党者と無所属議員のうち、立憲政友会、憲政本党の民党共闘路線を採る議員達が、同志研究会を結成した。尾崎行雄、小川平吉ら党人の他、伊藤系官僚の奥田義人が参加し、その誘いを受けた加藤高明も加わった。帝国党、中正倶楽部、同志研究会の有志者が集まり、議会でなるべく同一歩調をとり、立憲政友会を離党した片岡の死去に伴う衆議院議長に、河野広中を推すこととなった(1903年12月4日付萬朝報)。そして憲政本党、自由党となる勢力と交渉した。同志研究会の多く、自由党を結成する議員達は共に、桂・伊藤合意、立憲政友会における伊藤の専制を批判して、同党を離党した議員達であった。12月、「党紀紊乱事件」に揺れていた新潟進歩党は、責任を取って幹事を辞した坂口仁一郎の主導により、憲政本党へ合流(復帰)した(無所属から同志倶楽部に参加した唯一の議員は無所属となった)。これに反対であった坂口以外の衆議院議員(1903年12月1日付東京朝日新聞)が、新潟市選出の壬寅会系であった鈴木長蔵を含め、直ちに憲政本党を脱し(事実上同党に入復党しなかったといえる)、立憲政友会を脱した議員の一部と、12月6日に中立会派、交友倶楽部を結成した(吏党系の出身で、山県-桂系に近い早川龍介、立憲政友会の離党者で、土佐派と合流すると見られた議員も含まれている―1903年10月31日付東京朝日新聞―)。なお、坂口は5月に同志倶楽部を離脱していた。板垣の働きかけにより、立憲政友会離党を見合わせ、党の協議員会を機に立憲政友会を離党した土佐派の議員達は、自由党の再興を目指し、立憲政友会関東派の離党者等と、12月に自由党を結成した。土佐派は自らが自由党系の主導権を握っていた時など、以前は薩長閥との接近を志向していた。このため、直接的には桂・伊藤合意に反発して離党したものの、実際には、党の中心から外れたことへの不満が要因であったと考えられる。彼らと近かった伊東巳代治も、伊藤系の中で影響力が低下したことに不満を持ち、山県に接近していた。自由党は対外強硬姿勢をとった。

3派の結成時の議席数はそれぞれ、同志研究会20、交友倶楽部26、自由党38であった(自由党については、12月の発起人総会をもって結成されたと捉え、その議席数を、22日付東京朝日新聞に掲載された、加盟が決定した前代議士のリストに準ずる)。

 

⑥対露同志会の結成

1903年8月、対露強硬派の国民同盟会が、対露同志会に改組された。憲政本党の対外強硬派はしかし、犬養、大石が抑える同党全体を動かすには至らなかった。対露同志会は国民同盟会と同様に、運動体の域を出ないものにとどまった。新潟進歩党は対露同志会の決議に満腔の同情を表し、極力その遂行に努めることを、党大会において、満場一致で決議した(8月24日付東京朝日新聞)。

 

⑦奉答文事件と衆議院の解散

憲政本党では、対外強硬派の中心人物であった平岡浩太郎、神鞭知常が同党衆議院議員23名を集め、立憲政友会との提携への反対、現内閣を弾劾するような上奏案への反対を申し合わせた(12月7日付東京朝日新聞)。憲政本党との連携に舵を切った立憲政友会は、同党を離党した後、10月31日に死去した片岡健吉衆議院議長の後任を選出する議長選挙(12月5日)の際、憲政本党に統一候補を譲った。選出されたのは、かつて自由党の要人であり、帝国党、中正倶楽部、議員集会所、同志集会所も支持していた、河野広中であった(議員集会所、同志集会所については本章補足参照。同志研究会は任意投票―1903年12月5日付東京朝日新聞―)。しかし、憲政本党が立憲政友会の議員に投じることとなった全院委員長については、憲政本党内の連携反対派の反発があった。帝国党、中正倶楽部、議員集会所、同志集会所が憲政本党連携反対派の神鞭を推そうとした。常任委員長の選挙は、衆議院が解散されたために、実施されなかった。解散の4日前、7日付の原敬の日記には、憲政本党において平岡浩太郎、神鞭知常らが政府使嘱して、立憲政友会と提携して常任委員を定めることを不可とすることを唱えたものの、31対45で否決されたことが記されている(『原敬日記』第2巻続篇130頁)。河野議長は、衆議院の開院式で天皇の勅語に対して読まれる奉答文に、内閣弾劾を盛り込んだ。議員達はそれに気が付かず、奉答文は慣例の通り、満場一致で可決された(河野議長は、事前に各派代表者を招いて奉答文を示し、相談をするという星亨議長以来の慣例を破っていた)。この件は、交友倶楽部の秋山定輔が発案し、同志研究会の尾崎行雄、小川平吉も関わっていた。秋山、立憲政友会を離党していた小川は、第1次桂内閣の対露姿勢を軟弱だとする、対外強硬派であった。対外強硬派ではあっても第1次桂内閣(山県-桂系)寄りの帝国党、第1次桂内閣寄りの中立であった中正倶楽部は、奉答文の再議(内容を改めて、可決させる)を唱えたが、桂総理は予算案の成立を見ないまま、衆議院を解散した。交友倶楽部は奉答文再議賛成の立場を決めたが、同派に参加していた新潟進歩党系は反対した(12月12日付東京朝日新聞)。憲政本党を離党した河野議長は、再議を拒んでいた。帝国党、中正倶楽部、そして自由党を結成する議員達は、佐々友房(帝国党)、井上角五郎(中正倶楽部)の呼びかけによって、連合倶楽部を結成しようとした。しかし、関東派が反対したため成立せず、後に熟議することとなった(1903年12月13日付東京朝日新聞。関東派とは、立憲政友会を離れた、関東地方のかつての星系の勢力を指す)。

 

⑧日露開戦

1904年2月に日露戦争が勃発し、表立った政争は控えられた。

 

補足~離党者が続出した立憲政友会と、対外強硬派の動き~

 

図⑧-A:第5~8回総選挙後の中立派の立ち位置の変遷

 

1列の関係政界縦断の動き(①):伊藤は野党の党首としてよりも、薩長閥政府の一員として振る舞ったことになる。これでは自由党系は薩長閥政府の道具、つまり帝国党とかわらない存在になる。「伊藤新党」のブランド力に惹かれて参加した者達は別として、地租増徴に否定的であったり、非主流派として党のかじ取りに関わることのできていなかった者達が、不満を募らせたのは当然である。伊藤を担ぎ、民党という存在から踏み出そうとしていた、かつての自由党の要人達も、伊藤を利用しようとしたのであって、伊藤に降伏したつもりはなかった。自らの柔軟性で勝ち取ったものではあるが、1列の関係の中で有利な位置にあった自由党系にとって、伊藤の専制と桂・伊藤合意への対応は、度々政権を担うような勢力となるための、試練であった。

(準)与党の不振(①④)~苦しい帝国党~

第3極実業派の動き(②)~壬寅会の挫折と中立派の右傾化~

第3極実業派の動き(②)~市部の田口系~

第3極(②)~政友倶楽部~

第3極実業派の動き(①②)~中立派と市部、山県系~

1列の関係2大民党制(③④⑥)~非優位政党に働く遠心力~

2大民党制1列の関係(④)~増税回避、異なる狙い~

優位政党の分裂(④、補足)~政友会の革新運動と総裁専制の動揺~

優位政党の分裂実業派の動き野党に対する懐柔、切崩し(④)~大都市における立憲政友会の動揺~

1列の関係優位政党の分裂(④、補足)~立憲政友会の分裂~

1列の関係(④)~土佐派の2度目の離党について~

1列の関係政界縦断(④)~縦断型政党の課題~

野党再編(④⑤)~憲政本党と三四倶楽部に関して~

第3極(②)~同志倶楽部~

1列の関係(④⑥⑦、補足)~優位政党が過半数割れした時~

第3極(④、補足)~第3極に訪れた機会、立憲政友会分裂~

1列の関係2大民党制:(④~⑦):~古い対立軸の向こうの改進党系~

第3極野党に対する懐柔(⑥)~対外硬派の2分化~

(準)与党の不振(⑤~⑦、補足)~吏党系の強化~

(準)与党の不振(④⑦)~政友会重視の維持~:第1次桂内閣は、第3極の勢力の多くを味方にすることに成功した。しかしそれらの勢力が、準与党、または準野党として有利な立場にあったとは言い難い。衆議院における状況を劇的に変化させることができない中では特に、桂総理の最大の関心は、やはり立憲政友会にあった。非政友会連合を形成するにしても、憲政本党、中正倶楽部、帝国党、政友倶楽部の全てを内閣支持派としても、さらに合計およそ45名以上を、立憲政友会、同志倶楽部、無所属から手に入れなければならなかった。どう見ても状況を左右するのは立憲政友会という政党、またはその所属の衆議院議員達であり、第3極の勢力が衆議院のキャスティングボートを握り得る状況ではなかった。政界全体のキャスティングボートは、引き続き立憲政友会が握っていたのである。

立憲政友会と憲政本党が連携を維持する場合には、第1次桂内閣はさらなる大規模な切崩しを立憲政友会のみならず、おそらく憲政本党にも仕掛けざるを得ない状況となる。これが成功する場合、第3極の第1次桂内閣支持派、同内閣寄りの勢力は、内閣支持派の中核となる可能性もあった。しかしそうなることが保証されていたわけではないことは、この当時までの吏党系の境遇を見れば想像がつく。

第3極(⑤、補足)~中立派の2極化~:第6章で見た通り、中立の意義は薄まっていたため、第3極は左右に2分されたのだと言える(第3極、中立派の意義の喪失ついては、第6章第3極(②③⑦)、同(⑩⑬)(⑬)(⑱)参照)。この当時について言えば、薩長閥(山県-桂系)と、政党内閣を目指す勢力(立憲政友会・憲政本党)の戦いであり、帝国議会で言えば、前者が主流の貴族院対、後者が主流の、衆議院という構図があった。これには薩長閥、2大政党が基本的には皆参加していた。だから、激しい対立、多数派工作の中では、民党の系譜、あるいは政党内閣というものに肯定的でなければ、前者に与せざるを得なかった。どの大勢力にも寄らないでいるということは、独自の理念がなければ難しく、そのような議員はほとんどいなかったはずだ。補足すれば、既存の大勢力に否定的な議員こそ、選挙の結果に全く基づいていない薩長閥の内閣には、なにより否定的にならざるを得ず、とりあえずは後者につかざるを得なかった。当時は議員ではなかったが、花井卓蔵がそうだと言えよう(第9~12章で見る)。

連結器(⑤):同志研究会は、民党共闘路線を後押しするという、第5回総選挙後の同志倶楽部と同様の役割を担っていた(註)。そして同派がたどった道は、自由党系に離反され、改進党系と合流するという、第2回総選挙後の同盟倶楽部・同志倶楽部~双方が合流した立憲革新等党、順序に違いはあるものの、第5回総選挙後の同志倶楽部と、同様の道を歩んだ(第9章~第10章参照)。新民党の宿命だと言える。

註:加藤については、伊藤正徳編『加藤高明』上巻491~495頁。1903年11月19日付、27日付、30日付、12月1日、2日付の原敬の日記に、加藤が、立憲政友会と憲政本党との連携に関する交渉が進むよう、両党幹部の間に入って動いていた様子が記されている(『原敬日記』第2巻続篇118、121、125、126~127頁。尾崎については、同志研究会結成の前であるが、1903年11月30日付東京朝日新聞に以下のようにある。尾崎は翌月1日の同志研究会結成の中心人物の一人である。

過日尾崎行雄氏一派の中立議員が僅々十數名の協議を以て政進兩大黨に解黨を促し以て新政黨を組織すべしとの決議を爲したるは事甚だ大膽なるに似たれども其實二黨領袖間の黙識を得たる上の動作なるものの如し

1903年12月6日付の読売新聞によれば、新加盟の加藤高明も出席した晩さん会において、次の2項目の申し合わせがなされたという。

一政進両黨の提携を妨ぐる如き行動を避け両黨に紛議を生ずるときハ調停の任に當る事

二議會の諸問題に就てハ成るべく諾種の説を聴き公平に研究する事

1903年12月14日付の読売新聞には、同志研究会の一派が、立憲政友会と憲政本党の間に立って合同を促そうと図り、同派の望月と島田が、早朝から尾崎を訪ねて密議を凝らしたということが記されている。

第3極連結器(⑤~⑦、補足)~同志研究会~

第3極(⑤~⑦、補足)~交友倶楽部~

第3極(⑤~⑦、補足)~自由党~

第3極(⑤⑦)~第3極の変化~

2大民党制第3極(⑦)~全院委員長選に見る対立構図の変化~

1列の関係(準)与党の不振(④⑦)~政界の亀裂と政友会~

第3極2大民党制(⑤~⑦)~奉答文事件とその影響~

第3極(⑤⑦)~4極構造~

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