1.政権交代論

自公連立と公明党

自民党との連立へと進むにあたって、公明党は地域振興券の発行という、効果に乏しい消費刺激策を自民党に採用させた。やり方に差異はあれども、元々ばらまき志向の政党に、ばらまき政策を求めたに過ぎなかったのだが、公明党が自民党から勝ち取った成果として宣伝されるには、充分であったようだ。

ところがその後は、公明党の譲歩の連続であった。その背景には、まずは自由党の存在があった。自由党は先に自民党と連立を組んでおり、それは国会改革や行政改革を進めることを約束した上でのことであった。その改革自体は進歩的なものであったが、衆議院の定数削減は、公明党の主戦場である比例区の削減であり、同党、創価学会にとっては、200を150にする削減を、とりあえずは180とする譲歩を引き出したとはいえ、厳しい状況であった。また公明党は、単独で参議院のキャスティングボートを握ることができたとはいえ、連立内では、圧倒的に議席数の多い自民党の協力を、どちらが得られるか自由党と競合関係にあった。自由党より優位にはあっても、自民党内には、事実上創価学会の政党である公明党との連立に、まだかなりアレルギーがあり、公明党は気を遣わねばならなかった。

自社さ派の加藤紘一や人気のあった小泉純一郎は、公明党との連立に反対していた。公明党が連立入りしてから約半年後、自由党が連立からはじき出される形になり、その後自公両党が連携して総選挙を乗り越えると、環境は変わった。しかし、まさにその自由党の連立離脱の問題が負担となったと思われる、小渕総理の死は、公明党に苦しい道を歩ませた。小渕派→橋本派主導の森喜朗内閣が成立したものの、森は田中派→竹下派→小渕派のライバルで、自民党内では最も右によっていた、福田派→安倍派→三塚派→森派の出身であった。さらに森内閣発足からおよそ1年で、小泉純一郎内閣が成立した。小泉は森と同じ派閥の出身であった上、国民の支持で総裁選を制していたから(小泉の国民的人気が、選挙を心配する自民党の地方票を動かし、それが国会議員にも波及した)、森内閣のような傀儡政権にはならなかった。それから現在まで、自民党はほとんど、福田派の系譜(もっとさかのぼれば、岸派の系譜)の天下である。つまり公明党は、自民党と連立を組んで早々、自らと政策が遠く離れた自民党に、選挙における票と、国会における賛成票とを、献上し続けるはめになったのである。

公明党は平和と福祉の党を自認していた。平和の党とは言っても、五十五年体制の末期にも、PKO関連法案に賛成するなど、現実的な姿勢をとっていた。自自連立体制下の小渕内閣期にも、組織犯罪対策関連法案(通信傍受法等)に賛成していた。これらには必要性があると共に、疑義も唱えられており、野党第1党(前者は社会党、後者は民主党)は共に、牛歩戦術をとる、徹底抗戦体制をとっていた。そのような戦術は、多くの人々に冷ややかに見られるようになっており、公明党の姿勢は、当時から現在まで、少なくない人々が求めているとされる、現実的な野党(後者ではすでに連立入りが決まっていたが)であった(ここに挙げた以外にも、小渕内閣では日米の防衛協力の新ガイドラインに基づく法案なども、連立入りする前の公明党の協力で成立)。しかし、社会党の流れを汲む民主党が、福祉と平和の党の役割を、より徹底抗戦型の政党として担う方向へと変化すると、公明党は、共産党以外ほとんどが賛成しているという「言い訳」もできなくなる中で、自らを、より自民党に理解のある政党へと変化させていった。アメリカがイラクに戦争を仕掛けた時には、ドイツとフランスという西欧の大国が反対する中、フランスの反対によって、国連ではなくアメリカによる「侵攻」となったにもかかわらず、公明党もアメリカを支持するしかなかった。日本はアメリカについて行くしかないという現状を、筆者も否定しきれないでいるが、この戦争に関しては後に、アメリカもイギリスも誤りを認めているにもかかわらず、日本は認めていない。これでは平和の党とは言えない。

確かに時代に恵まれていない面はある。社会保障関係費の伸びを抑える小泉総理の路線に付き合わされた(公明党は当時、厚生労働大臣を出していた)のもそうだ。その中で、新自由主義的路線、戦前に回帰するような路線(ただし親米)にブレーキをかけた面があることは、筆者も認めないわけではない。ただしそれは、かつて自民党内でなされたことを、今度は自民党の外からしているだけで、少なくとも一度は変えなければならないとされた、五十五年体制より前進していると言えるのだろうか(分かりやすくなったのは確かだが)。また、公明党と連立を組んでいなかった場合でも、権力を維持するために選挙で勝たなければならない自民党が、自らブレーキをかけていたのではないかという、疑問も残る(程度に違いはあっただろうが、それはどれほどの違いであったのか)。

与党として公明党が、福祉の分野などで自民党の背中を押したこと自体も評価できる。消費税の増税に伴う逆進性の緩和に取り組む姿勢も、軽減税率が良いか悪いかは別として、評価できないわけではない。しかし何より問題なのは、2つの路線が戦い、1つが選択され、その是非が議論され、修正されるという面が小さいことだ。たしかに、偏った一つの路線の採用を回避し、それ自体を修正するというやり方もある。連立政権が普通の国では、このようなプロセスもある。しかしそのような国々でも政権交代は定着している。大点検の機会があるのだ。これなしに、公明党が自民党を優位政党にとどめ、一方でブレーキをかけるというのでは、何でもあいまいな線で決着をつける、かつての自民党の路線と変わらない。

特に第2次安倍内閣以降、そのブレーキの効き目は弱くなっているように見える。曖昧型からリーダーシップ型になり、明確に右寄りの安倍が総理大臣になったのだから当然だ。その中でブレーキをかけるということは、その立法の効果に、(織り込み済みかも知れない)一定の制限をかける効果はあっても、狙い自体にブレーキがかかるわけではなく、せいぜいアクセルを緩めるに過ぎなくなる。そうであれば時が止まるのでもない限り、少なくとも安倍内閣が継続している間は、明らかに右へと、日本は進んでいるのである(公明党が、自民党の右寄りの案を中道の方へ直していたのが、超右寄りの案を右寄りに直すようになった、と表現しても良い)。

その最たる例が、特定秘密保護法、集団的自衛権の行使を認めた安保関連法案の成立であるのだ。前者にはまともな監視機能がなく、秘密にしておく期間も延長し放題である。後者には、国会の事前承認というブレーキが、公明党ではなく、自民党寄りの野党によってかけられた。これらの野党とは違って、またはこれらの政党よりも集団的自衛権の行使容認に否定的であった公明党も、他国が攻撃されるだけでなく、自国も危機にある場合に、行使を限るという譲歩などを勝ち取ってはいる。しかし何をもって自国の危機とするのか、それは事実上、時の総理の解釈次第である。たしかに国会による歯止めも、与党が過半数を超える場合には意味がないだろうし、緊急の場合は事後承認で良いということもあるが、造反する与党議員がいれば別であるし(連立の状況、野党の状況によって、様々なケースが考えられるが)、総理だけの勝手には、よりなりにくくなるし、歯止めとしての力はより大きいと言える。国民が直接選出した国会議員達に承認を求めることの意味も大きい。

公明党は、ブレーキ役としてもっと頑張らねばとは言っても、「譲歩させられるばかりで困った」とは言わない。国際環境、財政状況が変わる中で、平和、福祉の党として、むしろ積極的に政策を実現させているという立場だ。党内に増えた右寄りの議員達がそれを支えている。これが公明党の主体的な変化なのだとしたら、中道政党として、時代に適応しつつ、そこに初心も反映させようと、勤しんでいるということになる。しかし筆者には、自民党にひきづられて変化しているようにしか見えない。もしそうでないのなら、ブレーキという役割自体、公明党の、変化した部分にとっては恥ずべきものになってくるはずだ。現状を見る限り、自民党から出てくる政策に対応する政党であることを示す「ブレーキ役」という「肩書」は外れそうにない。

公明党にとって、自民党への譲歩と引き換えにすべき小選挙区制の廃止は、時に連立離脱をちらつかせながら、ずっと唱えているのだが、自民党が譲歩する気配はない(公明党は、定数3の選挙区を150、計450とする中選挙区制への回帰を模索している―新党ブームがなければ、公明党は多くの選挙区で3議席目を得て、自民党、民主党系、公明党の議席数は接近すると考えられる―が、比例性を高める改正であってもメリットはある―新党ブームがある場合はこの方が安全かも知れない―。しかしそれも実現しそうにない)。その是非は別として、公明党の重要政策の一つであったはずの外国人の地方参政権も、実現する気配はない。