1.政権交代論

イタリア 第2次世界大戦まで

1861年建国のイタリアの議会は自由主義者で占められ、しばらくは相対的に保守的な史的右派と、より自由主義的な史的左派の2大勢力が、2大政党制に近い状況を形成していた。ただし、その差異、区別は必ずしも明確ではなかった。基本的には史的右派が優勢でああった。国王は必ずしも議席数に基づいて首相を決めていたわけではなかったが、両派以外の人物を首相にすることはなかった。1870年代後半には、高負担が影響し、総選挙、議員の移動によって左派の優位が顕著となった。このため、首相を多く出すようになった。1880年代に入ると、反体制的な勢力も含めて、より左の勢力が一定の議席を得るようになった。共和党と急進党、さらに左の社会党である。社会党はイデオロギー上、本来は他の勢力と相容れるものではなかったが、同党も含め、史的左派の要人、ジョリッティの内閣に寄った。優位政党を中心に他の勢力がぶら下がるという戦後の傾向が、状況が異なるこの時代に、すでに少し見られたのである。史的左派の系譜は、1876年から1919年まで、ほぼずっと過半数を上回っていたが、キリスト教カトリック系の選挙連合が形成されるようになったこともあり、その維持は難しくなっていった。そのような状況下、多数派形成の手腕を発揮したのがジョリッティであった。彼は極左勢力の協力を取り付け、急進党は、1906年に史的右派、史的左派と連立を組み(3ヶ月あまりで離脱)、1911年に第4次ジョリッティ内閣に参加するに至った。連立を組んでいた左右の自由主義者は、1913年に合流して自由連合を結成していたから、第4次ジョリッティ内閣は、自由連合と急進党の連立政権であった。ジョリッティは、カトリック系とも協力関係を築いた。日本の自公両党の選挙協力のように、この協力は、双方にとってプラスとなるものであった。イタリアは教皇領のあったカトリックの地域だが、まさにその教皇領を大方奪われた教皇は、イタリア政府と長く対立関係にあった。このため信者に選挙をボイコットさせていたが、やがてそのような姿勢を変えていった。政権は1914年に自由連合単独となり、同年中に自由連合と共和党の連立となった。さらに第1次世界大戦中の1916年、自由連合、急進党、カトリック選挙連合、改良社会党の連立となった。改良社会党とは1912年、リビア領有を狙ったトルコとの戦争を支持し、第4次ジョリッティ内閣に協力した最右派が社会党を除名され、結成した政党であった(戦争には勝利し、リビアはイタリアの植民地となった)。

1914年に第1次世界大戦が勃発すると、自由連合政権は中立路線をとった。イタリアはドイツ、オーストリアと三国同盟を結んでいたが、完全なる統一(失地の回復)のため、優勢となった三国協商側で参戦し、結果として戦勝国になることができた。この過程で自由主連合は力を失った。一方、カトリックの司祭が1919年に人民党を結成すると、教皇もこれを認めた。多様な非常に多くの信者がいることから、カトリック系は議席を大幅に増やした。この当時までの総選挙についてまとめると、史的右派が過半数を大きく上回り、史的左派、それよりさらに低い水準の、極左その他が続く形から、自由系の両派が抜きつ抜かれつ、つまり長期的に見れば対等となり、今度は史的左派優位となり、自由系2派以外の勢力の合計が右派との差を、縮めていく傾向が見られるようになった。1909年には急進党の議席が史的右派を上回った(史的左派型を引き離して過半数を大きく上回る議席を維持し、急進党、史的右派、社会党がそれぞれ定数の9~8程度の議席を得て、共和党、カトリック選挙連合が、より低い水準でそれに続いた)。政権を握る自由系両派の合流後に行われた1913年の結果は、次の通りである。自由連合270、急進党62、社会党52、立憲民主党(1913年、自由連合を離党した左派の一部が結成した中道の政党)29、カトリック選挙連合20、改良社会党19、民主党(1913年、自由連合を離党した最左派が結成した社会民主主義政党)11、共和党8、保守カトリック(カトリック右翼)9、社会主義者を含む他の左翼系28、計508

1919年、上のカトリック2派は人民党となり、立憲民主党と民主党は社会民主党を結成した。同党に参加しなかった自由連合離党者は、急進党と、自由・民主・急進という選挙連合を結成した。小選挙区2回投票制から比例代表制(全国で54選挙区)になった1919年の総選挙は、自由・民主・急進系、自由連合、改良社会党の連立内閣の下で行われた。首相を自由派以外(急進党)が出す、初めての内閣であった。結果は次の通りであった。社会党156、人民党100、自由・民主・急進96、社会民主党60、自由連合41、戦闘者の党(1919年結成の国家主義政党)20、急進党独自候補12、経済党(一部の商工業者が結成し、1924年に農民党に合流)7、共和党9、改良社会党6、無所属社会主義者1、計508。社会党の躍進は目覚ましかったが、社会党とは組み難い人民党も大躍進を果たし、安定した多数派の形成は困難となった。社会党、急進党とその選挙連合、共和党というかつての極左の合計は、過半数をそう大きく上回るわけではなく、何よりそれらは一致することが難しかった。カトリック系以外の、自由連合や改良社会党の中道連立(中道とは言えない議員を多く含むが、中道的なところで合意がなされ得る勢力)でも、カトリック系だけでも、過半数には届かない状況であった。政党よりも候補者が支持されているという面が、人民党と社会党よりも大きかった自由連合は、選挙制度の変更によって不利になった。しかし、全ての政党と組み得るような柔軟さを持っていた自由連合は、惨敗しながらも影響力を保持した。このため、1920年には同党が首相を出し、自由連合、人民党、社会民主党、改良社会党の連立内閣が成立した。1921年には、改良社会党が首相を出す、改良社会党、人民党、自由連合の内閣となったものの、1922年には自由連合が首相を出す、自由連合、人民党、民主自由党(同年に自由・民主・急進が1921年に結成)、社会民主党、改良社会党、農民党(地主層による保守政党で、1922年8月に連立を離脱)の連立政権が誕生した。改良社会党が首相を出す連立内閣期、1921年の総選挙を控え、自由連合を率いるジョリッティは、イタリア王国に否定的であったカトリックを基盤とする人民党、そしてイデオロギー的に国王と相容れない社会党と共産両党以外の、戦闘者のファッシ、社会民主党、ナショナリスト協会(1910年結成だが議席はなかった)と、当時の議会における勢力比を考えれば国家主義系(右翼系)に有利な形で、国民ブロックという選挙連合を結成した。戦闘者のファッシとは、第1次世界大戦への協商国側参戦を主張して社会党を除名されたムッソリーニが中心となって、1919年に結成された国家主義の勢力であった。第1次大戦後、労働運動が盛んになり、工場占拠などが広く見られるようになった。これに反発した右翼的な勢力は、暴力でつぶす動きに出て、それは社会主義化を恐れる富裕層にも支持を広げていった。国家主義勢力に勢いがついていた1921年の総選挙の結果は、次の通りとなった。社会党123、人民党108、国民ブロック105、民主自由党68、自由連合独自候補43、社会民主党独自候補29、共産党(改良派の排除が容れられなかったことで社会党を離党した最左派が1921年に結成)15、共和党6、改革民主党(1921年に結成された中道左派政党)11、戦闘者の党10、スラブ民族とドイツ民族のリスト(少数民族を代表する北部の政党)9、経済党5、戦闘者のファッシ独自の候補者2、無所属の社会主義者1、計535。社会党の議席を減らすことはできたものの、第1党の座から下ろすことはできず、国家ブロック自体も振るわなかった。さらにその内部では戦闘者のファッシと国家主義連盟の合計が過半数を上回った。この総選挙の後、自由連合が首相を出す連立政権が誕生したわけだが、戦闘者のファッシは影響力をさらに強めていった。彼らは1921年にも国家ファシスト党を結成し、1922年、民兵を伴った国家ファシスト党がローマに進軍、ムッソリーニが首相に就任した(圧力によって国王を動かしたのだが、左翼勢力がより台頭することを抑える思惑もあり、議会でも多数の支持を得た)。同年には自由連合が自由党に改組している。ナショナリスト協会は1923年、国家ファシスト党に合流した。首相となったムッソリーニは、当初人民党、自由党、社会民主党、ナショナリスト協会と連立を組んでいたが、その後、国家ファシスト党以外の政党は解散させられた。その間、1922年に、ファシズムを抑えるために自由連合等と協力することを唱えた改良派が社会党を除名され、統一社会党を結成した。1923年に選挙法が改正され、最も多くの票を得た政党(政党連合)に3分の2の議席を与えるものとなった(他の政党には3分の1を比例分配)。1924年に総選挙が行われ、次の通りの結果となった。国家リスト(国家ファシスト党を中心とした選挙連合で、人民党、自由党、民主自由党も参加)375、人民党独自候補39、統一社会党24、社会党22、共産党19、自由党独自候補15、民主自由党独自候補14、社会民主党10、共和党7、農民党(小作人、小農の政党)4、スラブ民族とドイツ民族4、サルデーニャ行動党(サルデーニャ州の地域政党)2、計535。その後、国家ファシスト党以外の政党は解散させられ、同党独裁の下で行われた1929年の総選挙は、国家ファシスト党が作成したリストへの賛否を問う信任投票という形で行われた。この独裁体制の下で、第2次世界大戦に突入した。