日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
イタリア 冷戦後~現在

イタリア 冷戦後~現在

デ・ミータ内閣の次の内閣は、引き続きキリスト教民主主義が首相を出す、同じ5党の内閣となった(キリスト教民主主主義、社会党、民主社会党、共和党-1991年離脱-、自由党)。当時、小選挙区制導入による政権交代のある政治を目指す、キリスト教民主主義セーニ派が国民投票運動を行っていたが、共産党新書記長(党首)のオケットは、政権交代のある2大政党制を志向しており、それに賛意を示した。さらに1991年、共産党を左翼民主党に刷新した。これに反対の勢力は離党し、プロレタリア民主主義と合流して同年、共産主義再建党を結成した。ユーロ参加のために財政赤字を縮小させなければならず、内閣は規制緩和などの改革を進めたが、状況の改善には遠かった。また、長い間課題となっていたものの、その暴力性、政治権力との癒着から成果に乏しかったマフィア(南部に根を張っていた)対策に及び腰であったことについても、裁判官や政治家が殺害される中、国民の反発が強まった。パレルモ市長であったキリスト教民主主義左派のオルランドは、市政の連立与党から社会党を排除し、共産党や環境政党を加え、マフィア対策等の改革を進めた。党内の反発を受けて市長の座を追われたオルランドはキリスト教民主主義を離党し、1991年にクリーンな政治を目指す新党、民主主義運動-レーテ(ネットワーク)を結成していた。万年与党のキリスト教民主主義と、同党と組む中道~中道左派政党による利益誘導政治は汚職の問題を慢性化させていたが、それに対する反発も強まる中、1992年に行われた総選挙の結果は、次の通りとなった。キリスト教民主主義206、左翼民主党107、社会党92、北部同盟(後述)55、共産主義再建党35、社会運動34、共和党27、自由党17、緑の連盟(1990年に結成された、緑のリストの後継政党)16、民主社会党16、民主主義運動-レーテ12、パネッラリスト(1989年に解党した、急進党の中心人物であったパネッラを中心とした連合)7、南チロル人民党3、連邦主義-年金生活者(ヴァルドスタン連合、サルデーニャア行動党などの地域政党の連合)1、ヴェネタ自治同盟(ヴェネタ同盟の分派)1、アオスタバレー1、計630。元来最も支持の強かった北部で、北部同盟に支持層を崩されたキリスト教民主主義が、定数の3分の1にも届かない大敗をした。刷新された共産党も、好調であった社会党も議席を減らした。一方で北部同盟が大躍進を果たし、緑の連盟、大政党の競い合いの中で埋没していた共和党と自由党も、議席を増やした。北部同盟とは、緊縮財政、徴税の厳格化が進む中で、豊かな北部から得られた税収が、国内の後進地域であった南部に、与党による利益誘導としても投じられていることに反発し、自治を求める運動を起こしていたロンバルディア同盟やヴェネタ同盟が、1989年に連合を組み、1991年に合流した政党である。

大物議員に捜査の手が伸びる中、社会党が首相を出す、キリスト教民主主義、社会党、民主社会党、自由党の連立を継続させた内閣となった。新内閣は前内閣の改革路線を引き継ぎ、厳しい緊縮財政を採った。国民投票において、既成政党が支持していなかった改革案が全て賛成多数となったことを受け、内閣は総辞職、政治の混乱によって力を増した大統領は、イタリア銀行総裁のチャンピを首相に指名した。同じ4党に加え、左翼民主党、共和党、緑の連盟を与党とはしたものの、政党内閣は一時中断させられたに等しかった。クラクシ逮捕の許諾請求への対応を巡り、他党と対立した左翼民主党と緑の連盟は、閣外協力に転じた。改革と汚職の摘発が進む中、キリスト教民主主義は刷新を余儀なくされ、1994年、左派の人民党と右派のキリスト教民主中道に分裂した。社会党ではクラクシが党首を辞した上で亡命した。社会運動は国民同盟に刷新された。これに反発して離党した勢力は社会運動-三色の炎を結成したが、上院で1996年に一度1議席を得るにとどまっている。建設業で成功し、民間の3大テレビ局を傘下に収めた企業家のベルルスコーニは、1993年に、フォルツァ・イタリア(がんばれイタリアの意。日本でも「フォルツァ・イタリア」として知られているため、以後も「フォルツァ・イタリア」と記す)という政党を結成した。政党同士が大きな塊をつくった方が有利な、小選挙区制中心の選挙制度に、国民投票の結果を受けて変わっていたのであるが、キリスト教民主主義が崩れた保守陣営では、自分たちの税金が南部を助けるために使われることに否定的な北部同盟と、その南部を支持基盤とする国民同盟が共闘できないということが、弱点であった。そこでフォルツァイタリア、そして同党と組む勢力は、北部では北部同盟と自由の極、中部と南部では国民同盟と善政の極という選挙連合を組んだ。これは事実上、フォルツァ・イタリアを中心とする大連合であった。新たな選挙制度の下で迎えた1994年の総選挙は、次の通りとなった。

自由の極・善政の極366

・・・フォルツァ・イタリア132(キリスト教民主中道27、中道連合-自由党が結成した連合-4、自由民主主義の極-セーニの協約の離脱者で総選挙後にフォルツァイタリアに合流-2を含む)、北部同盟118、国民同盟110、パネッラリスト6

進歩主義者同盟(首相候補は左翼民主党のオケット)213

・・・左翼民主党124(社会キリスト教徒-元キリスト教民主主義の社会民主主義者達が1993年に結成-8を含む)、共産主義再建党38、民主同盟18(共和主義左派―民主同盟を離脱してセーニの協約に加わった共和党を、1994年に離党した勢力―6、社会党再生-社会党離党者が1993年に結成-1、民主社会党1を含む)、社会党14、緑の連盟11、民主主義運動-レーテ8

イタリアのための協約46

・・・人民党33、セーニの協約(セーニら旧キリスト教民主主義改革派、元社会党のアマート前首相、自由党の一部、共和党の一部)13(共和党系が8)

南チロル人民党3、南部行動同盟(その極端さ、強硬な反北部同盟の姿勢から社会運動を除名された人物が1992年に結成したプーリア州の地域政党)1、アオスタバレー1、計630。社会党は総選挙後、社会主義者に改称した。その直前に同党を離党した勢力が新党、労働運動を結成した。左右両派の間で埋没した中道連合(イタリアのための協約)は敗北した。この選挙結果を受けて、フォルツァ・イタリアのベルルスコーニを首相とする、自由の極・善政の極を形成していた諸勢力による連立内閣が成立した。ベルルスコーニは改革を引き継ぎつつ、汚職の摘発を抑えようとして、野党のみならず北部同盟、国民同盟からも反発を招いた。その背景には、ベルルスコーニがクラクシなどの政界有力者との関係で成功を収めていたことがある。そもそも、ベルルスコーニの政界進出自体、自身が起訴され、さらには有罪判決を受けるような事態を回避するためであった可能性が高い。年金制度改革が反発を招く中、北部同盟が連邦制の導入を主張し(国民同盟とは相容れない)、連立を離脱、与党は過半数割れし、内閣は総辞職した。ベルルスコーニ内閣の野党と北部同盟が支持する、非議員のディーニ(元国際通貨基金理事、イタリア銀行副総裁、ベルルスコーニ内閣国庫相)が首相となった。ディーニ内閣は非政党の暫定内閣ではあったが、増税や社会保障を含む改革を進めた。

総選挙が近くなると、前回勝利できなかった左派連合と中道連合(イタリアのための協約系)が接近した。1995年、大学教授で元商工大臣のプローディが首相候補に名乗りを上げ、その影響で人民党がさらに、これを支持する左派と、支持しない右派の対立が起こり、離党した右派が、統一キリスト教民主主義者を結成した。左翼民主党は、プローディを支持した。一方の右派連合は、北部同盟との関係修復がならず、同党は独自に総選挙に臨んだ。こうして迎えた1996年の総選挙の結果は次の通りとなった(民主同盟は民主連合となり、民主社会党、共和主義左派は離脱した)。

オリーブの木324

・・・左翼民主党172(統一派共産主義者運動-共産主義再建党の旧プロレタリア統一連合系が離党して1995年に結成-8、労働運動6、社会キリスト教徒5、共和主義左派1、民主社会党1を含む)、人民党・プローディ69(人民党33、民主連合5、南チロル人民党3、共和党2)、イタリア刷新(ディーニ首相が1996年に結成)26(セーニの協約8、社会主義者7、民主運動―ベルルスコーニ内閣の外務大臣が1995年に結成―1を含む)、緑の連盟14、民主主義運動-レーテ3、ラディン自治主義者連合(トレンティーノのラディン語を話す人々を代表する地域政党)1、共産主義再建党35、南チロル人民党3、アオスタバレー1

自由の極246

・・・フォルツァ・イタリア123(中道連合3を含む)、北部同盟93、キリスト教民主中道19、統一キリスト教民主主義者11(キリスト教系2党は連合を組んでいた)。パネッラ系(ボニーノリスト)は議席を得られず、2001年に急進主義者を結成した。

北部同盟59、南部行動同盟1、計630

勝利したオリーブの木参加政党を与党とする(共産主義再建党は閣外協力)プローディ内閣が成立した。左派が大きくまとまり、北部で右派政党が競合したにもかかわらず、与野党の議席差は小さかった。プローディ内閣も改革を進めたが、共産主義再建党が野党色を帯びていった。1998年の再編は次の通りである。

・左右に分かれた旧キリスト教民主主義系を中道政党としてまとめようとしたキリスト教民主主義出身のコッシーガ元首相(1979~1980年)・大統領(1985~1992年)が、それに同調した勢力(キリスト教民主中道、同党の離党者による共和国キリスト教民主主義者、統一キリスト教民主主義者)と、共和国民主同盟を結成した。

・左翼民主党、統一派共産主義者運動、労働運動、共和主義左派、社会キリスト教徒が合流し、左翼民主主義者を結成した。共産主義再建党のプローディ支持派は同党を離党して共産主義者党を結成した。

・検事であったピエトロが補欠選挙で当選して上院議員となり(1997年)、価値あるイタリアを結成した(単純小選挙区制、連邦制を唱えた)。

・社会主義者と民主社会党が合流し、民主社会主義者を結成した。

コッシ―ガが、旧キリスト教民主主義内でプローディと対立関係にあったにもかかわらず、自党が首相を出していないことに不満を持っていた、つまり自らが首相になることを狙っていた左翼民主党のダレーマは、総選挙では右派連合に属していた勢力による共和国民主同盟を与党とするよう求めた(この、旧キリスト教民主主義系の右派は、共産主義再建党との連携に反対して右派連合に加わっていたという面があり、共和国民主同盟を連立に加える案は、共産主義再建党の野党化への対策であった)。内閣信任案が1票差で否決され、プローディ内閣は1998年に総辞職した。

こうして、左翼民主主義者のダレーマを首相とし、オリーブの木系(左翼民主主義者、人民党、イタリア刷新、緑の連盟、民主社会主義者)に、共和国民主同盟、共産主義者党を与党とする、連立内閣が成立した。内閣は改革を進めたものの、内部対立もあって国民の多くの支持は得られず、2000年に統一地方選挙で敗北したことを機に総辞職した。この間1999年には、中道左派連合の右派と言える(あくまでも左翼民主党系を左派と見た場合)、民主連合、価値あるイタリア、民主主義運動-レーテが合流し、プローディを中心とする民主主義者を結成した。再びアマート(社会党出身だが当時は無所属、後に民主党)が首相となり、それまでの連立の枠組みを維持した、暫定内閣が成立した。

かつての中道派を含む左派勢力は、ルテッリ(緑の連盟出身)を首相候補とし、その中でもかつての中道派は、ルテッリを担いで民主主義は自由-マルゲリータ(ひな菊)という政党連合を2000年に結成した。これと左翼民主主義者はまとまりを維持したものの、アマートの首相就任に反対したピエトロは民主主義者を脱し、価値あるイタリアを再結成、同党と共産主義再建党は独自に選挙を戦うこととなった。共和国民主同盟は1999年に分裂し、統一キリスト教民主主義者が復活して右派連合に戻り、連立残留派は欧州民主主義者同盟を結成した。なお、民主主義は自由-マルゲリータに参加した政党は、人民党、イタリア刷新、民主主義者である。支持を減らす中で分化した左派陣営(与党)に対し、右派陣営では北部同盟の右派連合復帰が実現し、2001年の総選挙を迎えた。その結果は、下記の通り右派連合(自由の家)の勝利となった。小選挙区制(に順応する形で誕生した政党連合)が求める明確な強いリーダーを、左派連合が得られなかったこと(団結することが出来なかったこと)が、左派の最大の敗因であった。キリスト教民主主義系(の左派)と共産主義系という異質の政党を中心に、数多くの党派の団結に取り組まなければならなかった左派~左翼の弱さが、与党となったことで露呈したという面もあった。この点右派陣営は、政策、性格の違いはあっても、左派陣営のような、(以前の)イデオロギーの相違はほとんどなく、政党の数も左派陣営よりも少なく、主要3党にそれぞれ強いリーダーがいたため、彼らが一致すれば、大分裂は避けられた。中心がフォルツァ・イタリアのベルルスコーニであることも明確であった。

自由の家368

・・・フォルツァ・イタリア194(共和党1を含む)、国民同盟99、北部同盟30、白い花(キリスト教民主中道と統一キリスト教民主主義者)40、新社会党(民主社会主義の離党者が結成した社会主義者リーグ等、旧社会党系の一部が結成)3(クラクシの息子が当選)、サルデーニャ改革者(セーニの協約系であったが、左派連合に加わらず右派連合に加わったサルデーニャ州の自由主義政党)1、新シチリア(社会党とシチリア行動党の流れを汲む地域主義的社会民主主義政党)1

オリーブの木251

・・・左翼民主主義者136、民主主義は自由-マルゲリータ(欧州民主主義者同盟-7議席獲得-も参加。同党を除き2002年に正式に合流して政党化)83、ひまわり(緑の連盟と民主社会主義者)17、共産主義者党10、南チロル人民党3、トリエステのためイリ―と共に1、アオスタバレー1

共産主義再建党11、計630。価値あるイタリアは議席を得られなかった。

こうして、フォルツァ・イタリア、国民同盟、北部同盟、キリスト教民主中道、統一キリスト教民主主義者、新社会党、共和党の連立として、ベルルスコーニ内閣が成立した。ベルルスコーニは、より新自由主義的な改革を進めようしたが振るわず、景気、財政は悪化していった。この内閣は2006年の総選挙まで続く、それまでのイタリアにはなかった長期政権となった。ベルルスコーニは、キリスト教徒と中道民主主義者の連合(2002年にキリスト教民主中道、統一キリスト教民主主義者、欧州民主主義―人民党離党者と北部同盟出身者が2001年に結成―北部同盟出身者も参加―)が求めた、比例代表制への復帰を実現させた。政治改革を台無しにするような行為に、与党内からも反発が起こった。しかも、ムッソリーニ内閣期に採用された、第1位の政党(政党連合)に過半数の議席を与える内容が含まれていた(多党化が進んで多数派の形成が難しくなるという弱点を補う作用はあった)。他に、政党連合10%、単独では5%、政党連合の名簿に連結した名簿は2%以上の票を得なければ議席を与えられない、阻止条項が設けられた。

選挙法の改正後に迎えた2006年の総選挙の結果は下記の通りである。キリスト教徒と中道民主主義者の連合からは2005年、よりベルルスコーニに寄ろうとする勢力が離党してキリスト教民主主義を、シチリアの勢力が離党して自治運動を結成していた。

連合348

・・・オリーブの木(左翼民主主義者と民主主義は自由-マルゲリータ)226、共産主義再建党41、掌の中のバラ(民主社会主義者と急進主義者の連合。その形成に反対した勢力が急進主義者を離党して自由改革者を結成し、フォルツァ・イタリアへ―正式な合流は2009年―)18、価値あるイタリア17、共産主義者党16、緑の連盟15、欧州民主主義者同盟10、南チロル人民党4、自治自由民主主義(ヴァッレ・ダオスタ州における国政政党や地域政党の連合)1

自由の家281

・・・フォルツァ・イタリア140、国民同盟72、キリスト教徒と中道民主主義者の連合39、北部同盟・自治運動26、キリスト教民主主義・社会党(新社会党)4

南米イタリア人協会1、計630

1999年以来、無所属のチャンピ(行動党出身で解党後は無所属)が就いていた大統領は、左翼民主主義者が出した(1999年まで大統領はキリスト教民主主義出身者が続いており、2015年には、民主党出身だが無所属となっていたナポリターノが大統領に選出される)。右派連合の票数と僅差でありながら、選挙制度の恩恵で過半数を上回る議席を得た左派連合の、第2次プローディ内閣が成立した(同時に行われる上院の選挙ではそのような装置がないため、与野党伯仲となった)。具体的には、左翼民主主義者、民主主義は自由-マルゲリータ、共産主義再建党、掌の中のバラ(入閣は急進主義者)、共産主義者党、価値あるイタリア、緑の連盟、欧州民主主義者同盟の連立であった。多くの政党の連立である上に、左派連合の政権でありながら、新自由主義的な面を持つ改革を進める必要があり、不安定な内閣となった。それを補うため、左翼民主主義者とマルゲリータが2007年に合流し、民主党が結成した(2007年には、民主社会主義者、新社会党の離党者が、先に社会党を結成していた)。しかしそもそも、問題は与党内最左派であった。その共産主義再建党、共産主義者党、民主左翼-欧州社会主義(民主主義は自由-マルゲリータとの合流に反対して左翼民主主義者を離党した勢力が、2007年に結成)、緑の連盟は、別に政党連合、左翼-虹を結成した。一方、フォルツァ・イタリア、国民同盟、キリスト教民主主義が自由の人民を結成した(政党連合としては2007年の結成だが、政党化は2009年)。欧州民主主義者同盟(書記長-党首-が検察の捜査を受け法務大臣を辞任)が小選挙区制復活案に反対して連立を離脱したため、過半数の基盤を失った第2次プローディ内閣は、総辞職した。こうして迎えた2008年の総選挙の結果は、次の通りとなった。

中道右派連合344

・・・自由の人民276(新社会党2を含む)、北部同盟60、自治運動8

中道左派連合249

・・・民主党217(急進主義者6を含む)、価値あるイタリア29、南チロル人民党2、自治自由民主主義1

キリスト教徒と中道民主主義者の連合(ベルルスコーニに批判的になり中道右派連合に参加しなかった)36、在外イタリア人連合運動1、計630。以下の勢力は議席を得られなかった。左翼-虹、社会党、右翼(国民同盟が穏健になり過ぎたことに不満を持って離党した勢力が2007年に結成)。また、中道右派連合にも中道左派連合にも参加を拒まれた欧州民主主義者同盟は、選挙を戦うことができなかった。

総選挙の結果を受けて、ベルルスコーニが首相に選出され、自由党、北部同盟、自治運動の連立内閣が成立した。ベルルスコーニは改革を進めたが、女性問題、汚職事件、保身のための司法制度改変の目論見など、首相とその周辺は、政治の私物化、汚職やモラルの低下について反発を招いた(北部同盟でも汚職のため、2012年に創設者が書記長-党首-を辞任した)。また、原発再稼働が国民投票で否決された。2010年に入ると、連邦制に否定的であり、首相に批判的になっていた旧国民同盟系の、指導者を中心とした一部などが自由の人民を離党、政権を離脱して会派(2011年に政党化)、イタリアの未来と自由を結成した。与党は過半数を下回った。ユーロ危機の中、巨額の債務が改めて問題となっていた当時、ベルルスコーニは経済再建策の成立と引き換えに首相を辞することを決めた。大統領は、元欧州委員会委員モンティを首相に指名した。モンティ内閣は非政党内閣であったが、議会のほぼすべての支持を得た。新自由主義的政策に加え、税負担を増す改革が断行され、国民同盟、そして価値あるイタリアが野党となった。以上のような状況下、既成政党、緊縮財政に反発する新党、五つ星運動が、2009年にコメディアン出身のグリッロによって結成され、支持を広げていった(政党ではなく運動を自認し、議員を2期より多く務めないなど、既成政党とは大きく異なる勢力であった)。EUの求める財政規律のため、もともとばらまき政策であったイタリアは、身を削る改革を余儀なくされていた。このため、当初はEU残留、ユーロ導入の足を引っ張る存在だと南部を敵視し、独立してEUの構成要素になることすら考えていた北部同盟も、EU懐疑派になった。これに移民受け入れの問題も重なり、移民受け入れ反対と反EUの主張に親和性があったことから、五つ星運動、北部同盟、後述するイタリアの同胞は、双方を主張する政党として競合することとなる。

自由の人民の離反もあってモンティ内閣は倒れ、2013年に総選挙が行われた。結果は下記の通りとなった。党が左傾化しているとして民主党を離党した、ルテッリら旧民主主義は自由-マルゲリータ系の一部は、2009年にイタリアのための同盟を結成していた。同党の多くは、正義と自由(左派連合に残ろうとした勢力が、左翼政党に寄った価値あるイタリアを離党し、2012年に結成)と合流して、民主中道を結成した。他の一部は、2013年にモンティ首相が結成した市民の選択に参加、イタリアのための同盟は壊滅状態となり、2016年に解散した。

イタリア.公益(中道左派連合)345

・・・民主党297、左翼エコロジー自由(左翼-虹を形成していた各党のそれぞれ一部―民主左翼は全体―、社会主義左翼-左翼連合を離脱することに反対して社会党を脱した勢力が2009年に結成-が、2009年に結成した連合で2010年に政党化)37、民主中道(民主党を離党した旧民主主義は自由-マルゲリータ系の一部が2009年に結成したイタリアのための同盟と、2012年に価値あるイタリアを離党した勢力が2012年に結成)6、南チロル人民党5

中道右派連合126(右翼も加わっていたが議席を得られなかった)

・・・自由の人民98、北部同盟18、イタリアの同胞・国民中道右翼(2012年に自由の人民を離党した、旧国民同盟系が結成)9、アオスタバレー1

市民の選択-イタリアのためモンティと共に47(イタリアの未来と自由も加わっていたが議席を得られなかった)

・・・市民の選択39、キリスト教徒と中道民主主義者の連合8

五つ星運動109、在外イタリア人連合運動2、南米イタリア人移民連合1、合計630。民主左翼を除くかつての左翼-虹は、価値あるイタリア、レーテ2018(民主主義運動-レーテ再興のために価値あるイタリアを離党した勢力が、2011年に結成)と、市民革命という連合を組んで臨んだが、議席を得られなかった(レーテ2018は2018年に民主党に合流)。中道のモンティの勢力は、緊縮財政が支持されなかったことなどから振るわず、その緊縮財政に反発していた五つ星運動が躍進、中道右派、中道左派、左右の有権者から広く支持を得た五つ星運動の3極構造となった。その中で中道左派が、中道右派をわずかに上回る票を得て、過半数の議席を得たのであった(在外イタリア人の票を除く各党個々の得票数を見れば、五つ星運動は第1党であり、一つの党として、左右の政党連合に引けを取らない勢力となった―2019年現在、一時的なブームだとは言い難い状況である―)。2大政党化が進んでいた矢先、自由の人民から旧国民同盟が離れる動きがみられ、五つ星運動が躍進、中道とされる勢力も一定の議席を得て、右派、中道、左派、ポピュリズム連合の4極、しかも第1党となる(2018年)ポピュリズム政党の性質が分かりにくい、大まかに2つのグループに分けることもやや難しい(強いて言えば左派・中道、右派・ポピュリズム)4極構造となった。左翼連合、右翼が独立した状態で復活、復調するならば5極、6極となり、しかもその多くは複数の政党から成り立っていた。反体制的な色を持つ大政党が存在していた1990年代初頭までの、不健全な硬直性は改まっていたものの、政権交代可能な少数の政党への収斂という点では挫折したように見える状況であり、政治の安定からも遠ざかっていた。

上院では左派連合と中道の勢力の連合(市民の選択-イタリアのためモンティと共に)を合わせても過半数に届かなかったため、民主党のベルサーニは組閣を断念せざるを得ず、左翼民主党出身のベルサーニに代わって、キリスト教民主主義(人民党を経て民主主義は自由-マルゲリータ)出身のレッタが首相となり、右派連合も含めた大連立内閣が成立した(他の政党も入っているので、挙国一致内閣に近い面もある)。民主党、自由の人民、市民の選択、キリスト教徒と中道民主主義者の連合、総選挙において両院で議席を得られなかった急進主義者が閣僚を出した。レッタは緊縮財政政策の緩和を志向したが、限界があった。不動産税の廃止、付加価値税の引き上げ延期を求める自由の人民は連立を離脱しようとしたが、党内がまとまらなかった。旧国民同盟系が相次いで離党したことから、自由の人民はフォルツァイタリアに改称した(党名を戻した)。その際、連立離脱などに反対の勢力が離れ、新中道右派を結成した。汚職事件で有罪判決を受けたベルルスコーニの上院議員の資格はく奪が可決された(自由の人民の野党化にはこの件が影響していた)。民主党では、党首選を若いレンツィ(人民党、民主主義は自由-マルゲリータ出身)が制し、2014年にレンツィ内閣が成立した。

レンツィ内閣は、民主党、新中道右派、市民の選択、キリスト教徒と中道民主主義者の連合、社会党(閣僚は輩出していない)の連立であった。同内閣は解雇規制を緩和する一方で、正規雇用の採用促進、低所得者層のための減税も実現した。さらに、二院の対等性が政治を停滞させているとし、上院の権限を縮小する憲法改正案の国民投票で敗れ(賛成派の党派は民主党、新中道右派、自由人民同盟-自治-賛成派がフォルツァ・イタリアを離党して2015年に結成、共産党と組むも2018年総選挙では議席を得られず-、市民の選択)、2016年に内閣は総辞職、ジェンティローニ内閣が成立した。民主党、新中道右派(2017年に人民の選択肢に刷新)、欧州中道派(後述)の連立となった。閣僚は出していないが、以下の党派も参加した。連帯民主主義(レッタ内閣を引き続き支持しようとした勢力が市民の選択を離党して、2014年に結成したイタリアのための大衆の、民主党との連携を維持しようとした最左派が同年に結成。民主中道と連携)、社会党、民主中道、市民と改革者(2016年に市民の選択の離党者が結成した会派)、後にフォルツァ・ヨーロッパ(急進党系→自由改革者→自由の人民→イタリアの未来と自由→市民の選択と歩んだ政治家が指導者)も参加した。価値あるイタリアも支持をした。欧州中道派とは、国民投票において反対派となり、新中道右派との連携の解消を決めたキリスト教徒と中道民主主義者の連合を離党した勢力が、2017年に結成した政党である(2018年の総選挙では、どちらも上院のみでの議席獲得)。

2018年の総選挙の結果は次の通りである(第一党-政党連合-に過半数の議席を配分する制度は廃止され、3分の1を小選挙区制で選出する制度に改められた―3分の2は引き続き比例代表制―)。

中道右派連合265

・・・同盟(全国政党を志向するようになった北部同盟が2018年に改称)125、フォルツァ・イタリア104(新社会党1を含む)、イタリアの同胞(イタリアの同胞・国民中道右翼が2014年にイタリアの同胞・国民同盟に改称、さらに2018年の総選挙の前に改称)32、イタリアと私達・中道連合4

※イタリアと私達・中道連合は、以下の党派の連合。イタリアの道(フォルツァ・イタリア離党者が2015年に結成した保守主義者と改革者、1997年に自由党系の連合であった中道連合を脱した勢力が結成した自由党、ヴェネツィア、サルデーニャの地域政党が2017年に結成。2019年にイタリアの同胞に合流する)、市民の選択、やる!(ヴェネツィアの北部同盟離党者が2015年に結成)、自治運動、アイデンティティと行動(民主党に協力することに不満を抱いていた勢力が新中道右派を離党して2015年に結成)、キリスト教徒と中道民主主義者の連合や、同党の離党者が結成したシチリアの地域政党の連合(市民の選択は解散し、これに同化)

中道左派連合122

・・・民主党112、より欧州へ(急進主義者、民主中道、フォルツァ・ヨーロッパの親EU派連合)3、インシエーメ(共にの意で、緑の党や議席を獲得した社会党の連合)1、一般市民のリスト2、南チロル人民党・トレント・チロル自治主義者党4

※一般市民のリストは、人民の選択肢、価値あるイタリア、欧州中道派、イタリアは大衆(中道右派連合に参加したキリスト教徒と中道民主主義者の連合を離党した勢力が2017年に結成)、連帯民主主義、大衆イタリア―欧州のための運動-(左翼民主主義者との合流に否定的であった人民党、民主主義は自由-マルゲリータ出身者が民主党を離党して2017年に結成)などの連合

五つ星運動227、自由と平等(第1条-民主進歩運動―2017年に民主党離党者が結成―、イタリア左翼―左翼エコロジー自由等が2017年に結成―、可能―民主党離党者が2015年に結成―、)14、在外イタリア人連合運動1、南米イタリア人移民連合1、計630。緑の連盟を除くかつて左翼-虹を形成していた共産主義再建党、共産主義者党などが形成した人民へ力をは議席を得られなかった。

3大勢力のどれも、過半数には遠く及ばなかった。中道右派連合は最大勢力となったが、個々の政党で見れば、同盟が第2党、フォルツァ・イタリアが民主党を下回る第4党に過ぎなかった。また両党には、フォルツァ・イタリアが親EU、同盟が反EUという大きな差異があった。

この選挙結果を受け、政党に属していなかった大学教授のコンテを首相とし、単独の政党としては第1党となった五つ星運動(第2党の同盟の、2倍近いの票を得た)と、最大勢力の中道右派連合の第1党である同盟を与党とする、移民の受け入れに否定的で、EUに懐疑的な内閣が成立した(得票数では民主党が同盟を上回っていた)。反EU派を除く大連立は、つまり単独第1党の五つ星運動と、最大勢力右派連合の第1党、同盟を除く連立とならざるを得ず、議席数の上でも不可能であった。この過程で大統領は、五つ星運動と同盟の閣僚人事の方針に反対し、コンテ内閣の成立が一度流れた。大統領は非政党内閣の成立を模索し、両党は人事を改め、コンテ内閣の成立が実現したのであった。しかし、同じポピュリズム政党であっても、比較的貧しく第1次産業中心の南部を主な基盤とする、左の五つ星運動と、比較的豊かで第2次産業が中心の北部を主な基盤とする、右の同盟は対立をし、政権は2019年、同盟の代わりに民主党を与党とする、連立政権となった(自由と平等も参加)。この連立に反発する、レンツィ(キリスト教民主党系で、2014年から2016年に首相を務めた)が民主党を離党、イタリア万歳を結成した。同党はしかし、連立に加わった。さらにコロナ禍の中、2021年に首相がやはり政党に属さないドラギに交代し、五つ星運動、同盟、民主党、フォルツァ・イタリア、イタリア万歳、第1条を与党とする、挙国一致的な内閣となった(2022年に行動が連立入り)。

コンテは五つ星運動の党首に選出され、ディマイオ前党首らが同党を離党して新党、未来のためにを結成した。

こうして迎えた2022年の総選挙は次の通りとなり、躍進したイタリアの同胞が首相を出す、同党と同盟、フォルツァ・イタリアの連立内閣が成立した。

中道右派連合237

・・・イタリアの同胞119、同盟66、フォルツァイタリア45、私達は穏健派(イタリアと私達、勇気イタリア、イタリーインザセンター、中道連合の選挙連合)7

※フォルツァ・イタリアの離党者が新党、変えよう!を経て2021年に勇気イタリアを結成、その離党者が2022年に中央のイタリアを結成。

中道右派連合237

・・・イタリアの同胞119、同盟66、フォルツァ・イタリア45、私達穏健派(イタリアと私達、勇気イタリア、中央のイタリア、中道連合の選挙連合)7

※フォルツァ・イタリアの離党者が2021年に勇気イタリアを結成、その離党者が2022年に中央のイタリアを結成。

中道左派連合85

・・・民主党-民主進歩イタリア(民主党、第1条、社会党、連帯民主主義、欧州中道派等の連合)69、緑と左翼同盟(左翼エコロジー自由等が合流したイタリア左翼と、緑の連盟の後継政党である緑の欧州の選挙連合)12、より欧州へ2(急進主義者1)、市民参加(未来のために共にと、民主中道の選挙連合)1、ヴァッレ・ダオスタ1

五つ星運動52、行動-イタリア万歳21、南チロル人民党・トレント・チロル自治主義者党3,南は北を呼んでいる(シチリア島の地域ポピュリズム政党)1、在外イタリア人連合運動1

行動は、民主党に加わっていた旧市民の選択の議員が、同党を脱して2019年に結成した政党。

計400

総選挙後には以下の動きがあった。

・総選挙で議席を得られなかった未来に向けて共には1922年10月に解散

・やる!が2022年6月、フォルツァイタリアに合流

・第1条が2023年6月に民主党に合流。

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