1.政権交代論

アメリカ

アメリカはイギリスに対する独立戦争で勝利し、王党派は国外に逃れた。国王などの権威による支配だけでなく、民衆の多数派による支配をも避けるため、大統領と議会がそれぞれ選挙で選ばれる、分権的な政治制度を採った。大統領も上院議員も、建国当初は間接選挙であった(大統領は事実上は直接選挙であり、上院は1914年の選挙より直接選挙。ただし大統領については当初、完全に間接選挙の州も少なくなかった)。国家の一部の代表である政党も否定的に見られたが、早期(18世紀中)に、主流の連邦派と非主流の共和派の別が明確になった。双方の大まかな特徴は次の通りである(アメリカはかなり徹底した2大政党制であり、その分だけ、そしてヨーロッパのような保守派が存在しなかったからこそ、2大政党の幅は、極端なところまではいかないものの広く、重なる部分が大きい。お互い党内に、ライバル政党に政策がより近いという議員を多く含むということが、めずらしくない)。

連邦派:集権、積極財政、保護貿易、親英。  支持基盤は第2、3次産業、富裕層

共和派:州権、消極財政、自由貿易、親仏革命。支持基盤は農業

1800年、大統領選を初めて共和派が制すと、同派優位の時代となった。共和党は合衆国銀行(全国統一通貨発行権を持つ)を存続、増加させるなど、連邦派の路線も一部取り込んだ。1820年代に入ると、連邦派は大統領候補すら擁立できなくなった。敵がいなくなった共和派は、複数が大統領選に出馬する状態となるなど、まとまりを失った。1824年の大統領選の決選投票で逆転勝利したアダムズ(連邦派の第2代大統領の息子)らが国民共和党を、1回目の投票で1位となっていたジャクソンらが民主共和党を形成した。国民共和党には、反フリーメイソンの反メイソン党(フリーメイソンに政治、経済のエリートが少なくなかったことから、それらの癒着、支配を批判した)、かつての連邦派の流れも加わっており、同党はかつての連邦派に近い政党となった。対する民主共和党は、共和派のカラーを継いだ。アメリカの勢力拡大に関しては、商工業の利益を代表する面が大きかった国民共和党は、海洋進出を、農業の利益を代表する面が大きかった民主共和党は、西方への領土拡大を志向する傾向があった。国民共和党はホイッグ党に、民主共和党は民主党に発展した。アダムズが2期目を目指した大統領選は、ジャクソンが制した。共和派の分裂後は、ホイッグ党の大統領が誕生する1840年代に入るまで、民主共和党系が優勢であった。

1830年代以降、わずかながらも、第3党とし得るものが議席を得るようになった。その中には、大統領選を戦ったものも少なくなかった。それらは後述する諸政党、そしてここでは基本的には省略するが、奴隷制支持、あるいは不支持の地域政党である。1930年代には前述の反メイソン党が議席を得た(一時は下院の定数の1割を超える議席を持っていた)。1840年代前半にはアメリカ党(従来の秩序が乱れることを恐れ、新たな、カトリックの移民が増えることに反対した政党。奴隷制に反対の多くの離党者が共和党へ。残部は後述の立憲連合党へ)、後半からは自由土地党(ホイッグ党と民主党の奴隷制度反対論者、奴隷制反対の自由党が合流して結成)が、やはり議席を得た。1850年代後半には連合党(民主党の南部派の1850年の協定―カルフォルニアを、奴隷制を採らない自由州として州に昇格させる一方で、奴隷の逃亡を取り締まる法の強化、ニューメキシコ、ユタ地方については住民の意思に任せるとした妥協案―支持・合衆国残留派が結成)、後半には反対党(Opposition Party。ホイッグ党系の南部奴隷支持派が結成、1860年に立憲連合党へ)が議席を得た。

奴隷制の是非は、アメリカを北部と南部に分けた。工業の発達していった北部は、反奴隷制、保護貿易。農業の南部は奴隷制存続、自由貿易を志向した。アメリカは領土を大きく拡大しており、それによって格差の拡大を背景とした国内の二分化を回避することができていた。これはしかし、地続きの領土の拡大が終りを迎えた時、工業化も進む国内で、ヨーロッパのように、階級間の溝が大きな問題となり得ることを意味した。ホイッグ党は南北に分裂し、民主党の北部の離党者、自由土地党と合流して共和党を結成した。自由土地党は奴隷制拡大反対の他、保護貿易、内陸部の開発、西部の土地の農民への無償交付を唱えていた。これはホイッグ党に近く、共和党の政策となった。ホイッグの南部の残部等はアメリカ党に参加(かつてホイッグ党所属の大統領であったフィルモアがアメリカ党の候補として大統領選に出馬)、さらに反対党、南部の民主党を脱した少数派と合流、立憲連合党を結成した。同党は南部の政党であったが、合衆国からの奴隷州の離脱に反対した。ホイッグ党分裂の影響により、1854年の下院選は、民主党が他党をある程度引き離していたとはいえ、民主党、ホイッグ党、アメリカ党の鼎立状態となった。また、共和党も4大政党とし得るほどに躍進したから、南北の差異を背景に奴隷制が争点となったことが、過渡的な多党化をもたらしたと言える。1856年の下院選では民主党が勝利し、アメリカ党は低迷、しかしその後、共和党が民主党を引き離し、連合党が低迷した民主党に迫る議席を得た。しかし連合党は没落し、1960年代後半には明確に、2大政党制に戻っていた(ただし共和党優位の傾向が強く、明確に2大政党制に戻るのはもう少し後だと言える。あるいは、長期的に見れば、2大政党制というものが維持されたと言うこともできる)。なお、本来は自立した人々の国であったアメリカでも、工業化が進み、新たな移民が入ってくると、都市部で賃金労働者が増え、貧しい人々も増えた。農村部が支持基盤であった民主党は、彼らの便宜を図ることで、都市部で支持を広げた。また、都市の風紀の乱れは、禁酒運動を強めた。

1860年、共和党のリンカーンが大統領選を制すると、翌61年、南部の7つの州が合衆国離脱を宣言、アメリカ連合国を結成した。合衆国はこれを認めず、南北戦争が勃発した。1860年の大統領選には、共和党のリンカーンの他、北部の民主党(新たな州が奴隷制を採るかどうかを、その州の住民に任せるという考えであった)の候補、南部の民主党(奴隷制支持強硬派)の候補、立憲連合党の候補が出馬していた。民主党系の2候補の得票の合計は、リンカーンを少なからず上回っていた。以後1885年まで、共和党の大統領が続いた(リンカーン大統領の殺害を受けて、民主党員でありながら、リンカーンの副大統領候補、副大統領になっていた民主党のジョンソンが、大統領に昇格したという例外はあったが、これは民主党政権とは言えなかった。リンカーンの共和党は一時、国民連合党を名乗って民主党を切り崩そうとしたが、うまくいかなかった。ジョンソンも参加していたと言えるが、南部の再建よりも国家権力の下で改革しようとした共和党の支持を失い、2大政党どちらの支持も得られず、現職として迎える大統領選に、立候補することが出来なかった)。南北戦争後、共和党は自由主義的な面よりも、かつての連邦派、国民共和党→ホイッグ党との類似性が強くなった。北部の民主党は、南部との戦争、共和党による中央集権化に反対した。一度大打撃を受けた民主党であったが、1874年に民主党が第1党となり、その頃より、共和党と民主党という、対等な2党による2大政党制になっていったのだと言える。2大政党の性格は次の通り、以前のものを継いでいた(禁酒については実現したこともあるが、密売でマフィアが潤ったこともあり、比較的短期間で廃止され―1932年―、重要な争点ではなくなった)。共和党が希望者に土地を与え、農業者に支持を広げた。

共和党:保護貿易、集権 禁酒賛成 北部を中心に幅広い支持を獲得

民主党:自由貿易、州権 禁酒反対 南部の綿の農場経営者が支持基盤

以後、現在まで共和党と民主党は互角だと言えるが、南北戦争当時の1960年代から1910年代にかけては、共和党が圧倒的に多くの(長い期間)大統領を出し、後述のニューディール政策が実施された1930年代から1950年代にかけて(上院は1970年代まで、下院はさらに1990年代前半まで)は、民主党が強かった。

奴隷制が廃止された後も、民主党には差別的な面が比較的強く残った(共和党も全体的に完全な平等化に積極的であったとは言えない。北部の奴隷制廃止論者にも、黒人を国外に出そうとする考えがあり、アフリカで奴隷出身者にリベリアを建国させることとなった)。南部では当初黒人の支持を得た共和党が強かったが、やがて民主党に取って代わられ、共和党の進めた改革の、逆行が見られた。しかし1929年からの大恐慌に対する、民主党のフランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策(国家が経済に介入し、雇用を生む左派的な面を持つ政策。具体的には農業の生産調整、労働者の権利の拡大、公共事業による雇用の創出、社会保障制度の導入、金融制度改革)を機に、比較的に平等重視の民主党、自由競争重視の共和党というように、変化していった。共和党が従来のキリスト教の価値観と自立の精神を重視し、民主党が多様性重視となるので、2大政党の変化には、双方が入れ替わるような面があった。第2次産業の労働者(独自の政党も結成していたが、主流は是々非々の立場であった)が民主党支持に、第1次産業の保守層が共和党支持に変わるという、支持基盤の変動も起こった(当然例外はあって、両党とも、かつての志向を残す勢力を少なからず含んでおり、変化が一気に起こったわけでもない。民主党が左にシフトしていくことで、黒人の支持も民主党に移る)。

1870~80年代にグリーンバック党(通貨収縮政策に反対し不換紙幣増発を要求)が、1880年代に再調整者党(平等重視、公教育の充実を志向した、バージニア州の政党。共和党へ)、禁酒党が、1890年代に銀(後述の人民党と近く、不況下、銀貨の自由鋳造を主張。ネバダ州で成果をあげたが、民主党に事実上吸収された)、人民党が議席を得た。人民党とは、グリーンバック党の流れも組む、大資本に反発する貧しい農家を代表する政党であり、労働者、黒人に支持を広げようとした。農民への低利の貸付け、銀の自由鋳造(グリーンバックの不換紙幣と同様にインフレが起こり、借金が事実上減る)、累進性の所得税の導入を唱えた。1896年の下院選では定数の6%を超える議席を得たが、それがピークであり、急速に議席を減らした。同じ1896年の大統領選において銀の自由鋳造を唱えた(だからこそ人民党の拡大の障害となった)、民主党の候補を支持したことで(共和党の一部も支持)、事実上民主党に吸収されていった。共和党の、政治腐敗を批判していた勢力、内戦後の南北和解重視派が自由共和党を結成し、1872年の選挙で大統領候補を擁立した。民主党も同党の候補を支持した。ここで敗れ、選挙人による投票を前に大統領候補も死去したことで、同党は事実上共和党と民主党に吸収された。1890年代に一度労働党として議席を得た左派勢力が1910年代、農民労働党、社会党(第1次世界大戦の時に参戦に反対して弾圧された)、社会党が議席を失うと労働党(社会党から分裂)として、1950年まで議席を持っていた。しかし労働組合はやはり、2大政党のうち、自らの政策を受け入れてくれる方を支持する方針を採り、むしろ革新派(後述)と比較的近く、結局民主党の支持基盤となった。革新派とは、政治腐敗、独占資本に反発する改革志向の勢力であり、共和党を脱して進歩党を結成するに至った(革新党とも訳される)。同党は上院の直接選挙、婦人参政権なども求めた。2大政党の左に位置する勢力の支持も得ていた共和党のセオドア・ルーズベルト大統領は、3期務めることを避けて(戦後早期に2期を限度とする憲法の修正がなされた)、次の大統領には同じ共和党のタフトが選出されていた。しかしルーズベルトはタフト大統領に満足せず、進歩党の候補として、1912年の大統領選に出馬することを決めた。ルーズベルトは大統領選で左派勢力の支持も得たが、共和党の票が共和党のタフトと進歩党のルーズベルトに割れたことで、民主党のウィルソンが漁夫の利を得た(社会党の候補も立っていた)。進歩党は消滅したが、ルーズベルトの前に革新派の中心人物であったらラフォレットは、1924年の大統領選に進歩党候補として出馬した(農民労働党も彼を大統領候補に担ごうとしていた)。同党には民主党離党者も加わった(副大統領候補は民主党出身者であった)。この時も共和党政権であり、民主党と進歩党は改革派として重なる面もあったから、より左の勢力の支持を得たものの、副大統領から昇格していた共和党のクーリッジ大統領の当選を許した。1948年には、民主党左派の元副大統領らが同名の政党を結成し、大統領選を戦った。この時、民主党の右派も人種隔離政策を唱える州権民主党を結成し、大統領選を戦ったが、民主党系が3分裂したにもかかわらず、民主党のトルーマン大統領(副大統領から昇格していた)が勝利した。

1968年にアメリカ独立党(人種隔離政策を唱える民主党離党者を大統領候補とした)が大統領候補を擁立した。戦後について見れば、自由主義者党(無政府主義にもつながる、低負担、自己責任の徹底を志向)なども大統領選を戦っている。