日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
れいわ新選組と、NHKから国民を守る党について

れいわ新選組と、NHKから国民を守る党について

自民党は、参議院の比例代表に特定枠を設けた。その背景には、合区の問題があった。2つの選挙区が1つに合併されたのが合区である。参議院では、日本全体で1つの選挙区である比例区の他、各都道府県が1つの選挙区であった。ところが2016年の参院選より、鳥取県と島根県、高知県と徳島県が合わせて1つの選挙区となり、それまで4県でそれぞれ1名、計4名の議員が選出されていたところ(現在は4名とも自民党であり、過去も、社会党~民主党に特別勢いがあった時を除けば、基本的には自民党、自民党系が当選していた)、2県で1名、計2名になったのだ。その理由は、1票の格差があまりに大きくなったためである。

衆議院の小選挙区は導入当初(1994年)計300であった。それだけあれば、どんなに人口が少ない県でも、1つの選挙区にはなる(現在でも、全県最低2つは選挙区がある。つまりまだ余裕がある)。ところが参議院は、比例代表を除いた、1回の選挙の定数が75前後である。これでは、大都市へ人口が集中する状況下、もはや1県1区すら維持できないのである(定数を大きく増やしてしまえば可能だが、そんなことを国民が許すはずはない)。しかも参議院は、権能も選挙制度も衆議院とそう違わないのに、独自性を求められる(独自性がなければ不要だとする人も多い)。当初は政党所属の議員が少ない、中立的な性格であったが、それとて制度上そうなっていたわけではなく、今では衆議院と変わらない(衆議院の優越が認められている事象があり、解散もある衆議院が中心であり、参議院にはチェック機能や、長期的な視点が求められるのだが、それもうまく機能しているとは言い難い)。そこでなんとなく、各都道府県の代表が集まっているという、他国の上院のような性格があると、されているのだ。だから1県1人は、1回の選挙で選出される必要があるのだという、意見が根強くあるのだ(確かに、3年ごとに半数ずつ改選されているため、全体的に見れば、1選挙区で最低2人の議員が誕生している。しかし2016年はA県で、2019年はB県で選挙をするという形を採るのは、全国的にそうするのではない限り、一部の県だけで選挙が行われないということになり、問題がある)。そのため、1票の格差を問題とする裁判の判決は、衆議院のそれよりも、甘いものとはなっている。

このような背景から、自民党はいやいや合区を設けたのだが、批判を浴びたのだ。犠牲になるのは人口が大きく減っている選挙区(県)であるため、批判を浴びるのは、農村部に根を下ろす自民党である。また合区は、事実上自民党の議員を犠牲にするため、党内からも不満の声が上がっていたのだ。各県から最低1名の議員が選出されるようにすること自体が間違っているとは思わない。しかし上で述べたような状況では、合区よりも1票の格差の方が問題だと、筆者は考える。

2000年、参議院の比例区では順位が廃止され、可能となった個人名での得票が、多い候補から当選するようになっていた。これが今回から、1位以下、何位まででも順位を決めることができるようになった。まずは順位を付された候補から当選していくのである(これまで通り、一切順位をつけないこともできる。順位がついている候補以外は今まで通り、政党が獲得した議席の分だけ―順位の付いた候補が当選した、その残りの分だけ―、個人名の得票が多かった候補者から順に当選する。これに伴い、また定数是正のため、比例区の定数が2、他の選挙区の定数が計1増えた―参議院は半数ずつの回線となるため、全体では(2+1)×2で、定数は6増となった。

ここでは省略するが、特定枠については、(個人としての選挙活動が基本的には許されないことになっている)特定枠の候補が、多くの得票を得た候補より優先されることについて、問題だとする見方もある(筆者はそうは思わないが)。定数を増やすことについても、自民党の都合だと批判する声があった。れいわ新選組はそれを批判するばかりではなく、自民党とは異なる目的で利用したのだ。

2つの合区となった4県で選出されていた自民党議員を、守るためでもあった改正を(2名は合区となった選挙区から出馬、2名は自民党なら必ず当選できる比例名簿の1位と2位になった)、れいわは巧みに利用したのである。選挙活動などについてハンディキャップを背負い(参議院は選挙区も非常に広い)、本来当選することが難しいと考えられる、重度の障がい者を1位と2位にし、2名ともを当選させたのだ。そしてバリアフリー化が全く進んでいなかった参議院(衆議院も同様だが)に、本来、2議席では起こせないような変化を起こそうとしている。あえて言えば、立憲民主党が2017年の総選挙で得た55議席でもできなかったこと、しかも立憲民主党が最重要視していたと言える多様性の尊重のための変化を、左派政党が熱心に取り組むべき弱者のための変化を、実現したのである。このような手腕は素直に認めるべきだ。

新元号の発表が政治利用されたことに対しても、山本太郎はその名称を取り入れた、「れいわ新選組」という党名を採用したことで、対抗して見せた。今や「れいわ」という発音で思い浮かべるのはれいわ新選組、そして山本だという人は、非常に多いと思われる。新党でなければできないことではあるが、ただ嘆いていた他の野党にとっては、見習うべき面があると思う。

れいわはヨーロッパの左翼ポピュリズム政党に近い面があり、かつて議席を得たミニ政党とは、違う可能性を持っている。本来は立憲民主党が、既存の左派政党と、新たな左翼ポピュリズム政党のハイブリッドになり得たと思うが(双方が存在しても、どちらも伸び悩めば分立しているメリットは皆無だ)、これがヨーロッパの国々のように、別々になったわけである。このことについては後述する。そのような意味でれいわは、立憲民主党がとんがったものであるとも言えるだろう。

一方、NHKから国民を守る党は、NHKのありように対する反発によって生まれ、NHKのスクランブル化(契約するかどうかを自由にし、契約者以外は映らなくする)を目指すワンイシュー政党である。より狭い範囲で既得権益に切り込もうとする姿勢は、維新の会がとんがった政党というようにも、筆者には映る。時に、きつい表現を用い、激しい口調で本音で語るスタイルも、維新の会に似ている。左派政党とは違う正義を振りかざす点もそうだ。しかしその正義に反する者に対する敵意は、維新の会よりも強いように見える。

そしてれいわが2議席で国会を動かしたように、N国は、NHKの問題点をあらわにし、たった1議席で、より多くの人々に認知させた。たくさんの人々が認知すれば、大政党も無視できなくなる。話題性を武器にするのは、かつてのミニ政党の常道でもあった。それをIT社会の現代向けに、より有効な形で発展させたのがN国なのである。長い間の苦労と、長い間の準備が報われてきているということには、感動も覚える。

ただし、ネットを使った個人攻撃という手法は、ゼロから始めた政党として、話題づくりに有効だとはいえ、また、既得権益にあぐらをかく人々への警告として、理解できないわけではないが、行き過ぎた面があると思う。

インターネットで個人情報をさらせば、その人物、さらには問題とは無関係の家族に、危害が及ぶという可能性もある。N国を結成した立花やその周辺が計算ずくであっても、その支持者、反対者が、単純に過激化していくリスクは小さくないと思う。今後、議論や正式な手続きなしに、インターネットでさらし者にされるという恐怖から、誰も同党を批判できなくなるという事があり得る。情けないという事もできるが、家族がいれば恐怖を覚えて当然だ。N国自体がこわくなかったとしても、どのような人物の目に、その個人情報が入るのか、分からないのだ。

SNSの投稿者が話題づくりに常軌を逸した行動をとることが、世界的に問題となっている。知名度を上げようとN国に絡もうとする者も出てくる。N国も、相手が一般人であろうと、気になれば反応する。そのやり取りも含め、非難の応酬が繰り広げられる。それで政治が身近になる面はある。しかし1つの極端なミニ政党を中心として政治を見ることは、きっかけとしては良いとしても、ずっとそればかりでは偏りが過ぎる。それに、身近に感じるとは言っても、学生時代の教室の、できれば関わりたくないようなものとして、という人もいるであろう。今までとは別の種類の政治不信が深刻になる可能性すら、ないとは言えないと筆者は思う。インターネットを利用することの良い面は残しつつ、多少効率が悪くなっても、国政政党らしい品位を求めたい。

N国がNHKのスクランブル化以外に関心を示すことについて、批判的に見る人が多いようだが、筆者はそうではない。NHKのことを第一にはすべきだが、それに何かしら似ている問題は、多々ある。そういった問題にも取り組んでいくというのは、1つの明確な方向性である。政党として視野が広がることもあるだろう。その点で、元みんなの党の渡辺喜美と組んだのは良かったと思う。しかし、維新の会の足立康史は、罰則がない法律違反(受信装置があっても契約をしないこと)を国民に促すことを、問題視している。法改正を目指すべきだという立場で、筆者は正しいと思う。足立も渡辺も、N国に入党した丸山穂高も、維新の会を除名された議員である。維新の会とは組めないだろう。

れいわにもN国にもこれだけはやりたいというものがある。小泉純一郎や橋下徹が勢力拡大に成功したように、少なくとも21世紀に入ってからの日本人が好む姿勢である。民主党系にはこれがない(「政権交代」は成功したが、本来それでは大きすぎるだろう。また、自分達のためだとも見られてしまう。ごく少数の具体的な政策を実現させるために、政権交代が必要だというのでなければならないのだろう)。もちろん、多様性も平等も平和も良いのだが、これらも幅が広すぎる。今生活が苦しい人を助けたいというれいわの迫力、NHKのスクランブル化というN国の執念に及ばない。

しかしそれにしても、日本は1強多弱が過ぎる。N国のように敵をつくるポピュリズム、れいわのようにバラ色の公約を謳うポピュリズム。それらが日本維新の会に大きくは見劣りしない勢力となれば、ポピュリズム政党だけでも「多弱」が成立してしまう(1、2議席のままであれば、そもそも無視し得る。なお、筆者は、維新の会にはポピュリズム政党の面も十分あると考える)。いずれ、再編か淘汰が必要になる。

 

より警戒すべきは、ポピュリズム政党ではなく、自民党→

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