2.キーワードで考える日本政党史

2大民党制(⑤)~3大政党の出発とそれらの差異~

国会開設の勅諭が出されてから結成された3党は、衆議院における3つの勢力の原型だといえる。強硬的な野党から穏健派となる自由党系、穏健派から強硬的な野党となる改進党系、そして薩長閥支持の吏党系である。薩長閥支持派は、国民(有権者となる層)における支持において、民党の優位を覆せそうになかった。民党が、薩長閥政府に批判的な、あるいは地租軽減を望む地主層と結びついたことが要因である。政党に批判的な者が多かった薩長閥政府は、この状況に対応するためにも、政党に左右されない制度の範を、ドイツ帝国に求めた。薩長閥政府は、同国に倣って超然主義を採った。これは薩長閥支持政党の非公認、それによる薩長閥支持政党の弱体化につながる。そして、民党と呼ばれた差異に乏しい2つの野党(自由党系と改進党系)が、第1、2党となるのである。

薩長閥とその支持派(吏党系)、自由党系、改進党系の差異は、政党(民党)の行政への参加→政党内閣に対する賛否にあり、政策に関しては、本質的なものではなかった。当時の日本が置かれていた弱肉強食の世界は、富国強兵策を不可避なものとしていたからである。その中で節約できるところは節約するのは当たり前で、吏党系も主張していた。ただ民党は、薩長閥政府を追い込むために国の予算を削減する必要があったし、それによって地租を下げ、支持層に応える必要もあったというだけである。そもそも、同一政党の中にもさまざまな意見はあり、政策の近い者が集まっているというよりも、薩長閥政府に対する姿勢、人間関係による集合であったといえる。帝国議会開設前後、衆議院は、薩長閥政府に対して、民党が異議を唱え、追い込もうとする場として意識された。だから政策的な対立軸は、民党の主張によって現れるものであった。その民党の主な主張は、民権伸長、不平等条約改正(ただし帝国議会にその権限はなかった)、地租軽減であった。

衆議院において、民党が特に強く求めたのは地租の軽減であり、そのためには歳出の削減が必要であった。こうして当時の最大の対立軸は、積極財政(富国強兵)対消極財政(政費節減)というようなものとなった。このような不明瞭な言い方をしなければならないのは、民党が富国強兵自体を否定していたわけではないからである。民党は、富国強兵策を薩長閥に任せることはできないという立場を採っていたのだ。そして積極財政志向を持つ薩長閥政府であっても、折に触れて支出を抑える努力はしていたし、吏党も政費節減は唱えていた。そしてそもそも、弱肉強食の世界に晒された明治期の日本において、列強に肩を並べる大国を目指すことは不可避であり、そのためには大規模な軍拡、産業振興、インフラ整備が必要であり、それを実行しようとすれば積極財政となる。また当時の日本には、内地雑居に否定的な勢力は存在しても、条約の対等化自体を否定する政治勢力は皆無であった。

つまり、上述した民党の主張に基づく3つの争点のうち2つは、本質的には存在していなかったのである。日本にとって、積極財政、そして他国に屈せず、国外に勢力を伸ばす対外強硬姿勢が、可能であるならば当然に採るべきものであった時代に、外交を担うが故に、列強に対して安易に強硬姿勢を採ることができない薩長閥政府と、有権者の多数派であった地主層の支持がなければ衆議院の大勢力であることができないがために、地租軽減にこだわる民党との間に、差異は生じたのである。図序-E、序-Aの通りである。民権伸長については、薩長閥と民党に明らかな差異があったが、これを求めること、そして拒むことは、薩長閥と民党にとって、それぞれの(支持)勢力を維持または強化するもの、そして薩長閥に有利な当時の条件を巡る、闘争のようなものでもあった(例えば、民党は民権伸長を唱えてはいても、有権者の性質を一変させる普通選挙については、積極的ではなく、熱心な者は少なかった)。

以上から、薩長閥政府と民党の政策的な差異は、その理念というよりも、立場に基づくものであったということができる。それゆえ、共に薩長閥政府に対抗する野党であった自由党系と改進党系は、さらに一層、差異に乏しかったのである。実際、双方の穏健、強硬という立場は入れ替わることがあった。自由党系と改進両党系が分立したのは、単に前者が征韓論による明治政府の分裂を起源に持ち、後者が、議院内閣制を唱えた大隈の政府追放に起源を持つからに過ぎなかった。そして両者の統一を阻んだのは、幅広い人々を受け入れた自由党系に比して、改進党系に知識層がより多く参加、協力していたために、体質的な違いがあったこと、対抗意識に基づく人間関係が阻害要因になっていたことであった。立場の違いに基づく表面的な対立軸は、両党間にではなく、薩長閥政府と民党の間にあった。