2.キーワードで考える日本政党史

第3極・キャスティングボート(⑥⑦)~第3極が起こした変化~

立憲自由党の分裂(と大成会の分裂にいたる不統一)によって、薩長閥と民党の間に移動した自由倶楽部、あるいは大成会の中立的な議員達が、衆議院におけるキャスティングボートを単独で握り得るという、事態打開を求める時代の要請に応えるような、勢力分野が現れた(図①-A参照)。結局、自由倶楽部と大成会の一部は民党につき、薩長閥政府と民党の展望なき対立に、表面的には変化は起こらなかった。しかし自由党内では分裂を機に、自由党系の源流であったといえる彼らを、民党側につなぎ止めておくための、党改革が進んだ。立憲自由党の離党者は、そのような自由党(民党)の側に戻ろうとする議員達(自由倶楽部の多く)と、吏党との合流を模索する、薩長閥政府寄りの議員達に2分された。数の上では前者が多く、後者が十分な成果を挙げられなかったことを考えると、多数派形成の熱意に勝った民党が、勝利を収めたということができる。

ともかくこの動きにより、薩長閥に寄ることを辞さない勢力(星亨や土佐派)が、自由党の主導権を握り、後の政界縦断の土台が築かれた。野党に対する切り崩しが最終的には失敗し、中立を自認した自由倶楽部と独立倶楽部の野党化(ただし独立倶楽部のそれは限定的であった)にも手を打てなかった政府は、民党との連携か、民党に対する弾圧かを選択しなければならなくなった(憲法を停止すれば別だが、そのような主張は政府側においても広がらなかった)。まず選ばれたのは後者、つまり第2回総選挙における選挙干渉であった。しかし伊藤博文は前者を志向するようになる。

以上が、自由党系における変化とほぼ同時期に見られた、薩長閥政府の変化である。簡潔にいえば、民党に対して強硬姿勢を採るものの、内部において、失敗に近かった切り崩しとは異なる、あるいは切り崩しに終わらない、民党との連携を模索する土壌が築かれ始めたということである。これは自由党系の変化と合致するものであった(双方が接近するという意味において)。自由党総理の板垣は実際、結成の内容次第で賛成も反対もするとしていた(伊藤之雄『伊藤博文 近代日本を創った男』296頁)。中立的な勢力は、薩長閥と民党の激しい対立に否定的であったから、薩長閥政府をむやみに否定はしなかったものの、後者には反対であったといえる。つまり薩長閥と民党の双方に理解を示すことが可能であったから、キャスティングボートを握った場合、それを有効に利用し得る立場にあった。政界縦断の役者は揃おうとしていたのである。