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補足 ~巴倶楽部再結成の挫折と独立倶楽部の再結成~

補足 ~巴倶楽部再結成の挫折と独立倶楽部の再結成~

民党の自由、立憲改進両党、多くが両党に与していたといえる旧巴倶楽部系を合わせた民党側の当選者は、定数300のうち141名であった(自由党96、立憲改進党38、旧巴倶楽部系7)。これ以外にも、後に民党側の会派に参加する議員はいるが、中立派をあてにしない場合、総選挙の結果が出た時点では、民党側は過半数を10議席分は下回っていた。そして、第2回総選挙後初の議会であった第3回帝国議会の開会時の無所属議員52名を、仮にその全てが薩長閥政府支持派であったとしても、彼らと中央交渉部84名とを合わせた議席数は、過半数を15議席下回っていた。このような第2回総選挙の結果により、中立的な議員達がキャスティングボートを握ったのである。

中立派が有利な立場にあったことは、第2回帝国議会における衆議院解散と共に解散したものだといえる、巴倶楽部と独立倶楽部のうち、より中立的であった独立倶楽部だけが、再結成を達成したことにも表れている。巴倶楽部に属していた議員の中には、その民党寄りの姿勢に批判的であり、独立倶楽部に参加しようとする者もいた。それに対して独立倶楽部には、その再結成の過程において、新たに約10名の参加希望者があった(1892年4月23日付東京朝日新聞。記事には7名の衆議院議員の名が挙げられており、和歌山県内選出議員も合同すると記されている。岡崎邦輔は双方に含まれるから、7名と、岡崎以外の和歌山県内選出議員4名を合わせて、11名である)。

1892年4月16日付の読売新聞によれば、旧巴倶楽部の大東義徹、中村弥六、鈴木重遠が同倶楽部の再結成に動いた。そして問題によって自由、改進両党と提携して吏党に当たるべきだという者が40有余名に達し、稲垣示、森本藤吉、岡崎邦輔も加わった。しかし実際には大東らの3者は無所属となり、稲垣らの3者は独立倶楽部に参加した。同27日付には、大東が独立倶楽部に入会を申し込んだものの、彼をはじめ京都、岡山、滋賀県等の議員が吏党臭いとされて、断られたことが記されている。また、大東が議長問題や干渉問題について民党に賛成するとしている。

4月23日付の東京朝日新聞によれば、旧巴倶楽部の当選者達は、旧独立倶楽部の当選者達に合同を申し込んだが、双方の意見に大差はないものの、民党の方針に確執する旧巴倶楽部系に比して、旧独立倶楽部系が比較的温和であったためにまとまらなかった。そして旧巴倶楽部系の議員達の中には、他の者と意見が合わないため、旧独立倶楽部と合同する者がいた。ただし『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部を見ると、独立倶楽部の再結成に参加した旧巴倶楽部の当選者は川越進1名のみである。また旧独立倶楽部の再選者の中で、渡辺又三郎だけは、再結成に参加せず、中央交渉部に参加した(国民協会には不参加)。ともかく、民党、吏党の双方が過半数に届かない状況下、独立倶楽部は、衆議院におけるキャスティングボートを握った。その独立倶楽部には再結成の際、選挙干渉に反発して農商務大臣を辞任した陸奥宗光の影響下にあった、5名の和歌山県内選出議員が参加していた。陸奥は彼らを通して、独立倶楽部を動かしたのである。

 

 

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