日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1列の関係(③⑥⑨⑩)~自由党の変化と立憲改進党~

1列の関係(③⑥⑨⑩)~自由党の変化と立憲改進党~

自由党の実力者の一部は、野党共闘よりも薩長閥政府への接近を志向した。彼らには後藤、陸奥を通じる、長州閥とパイプがあった(改進党系にも、大隈と薩摩閥とのつながりがあったが、黒田内閣期の大隈外務大臣の不平等条約改正の挫折により、あまり意味をなさなくなっていたし、薩摩閥が総理大臣を出した第1次松方内閣は、民党と対決する姿勢を採った)。

また自由党は、自らの欠点を補おうと、実業家層を味方にして、市部で勢力を増すことにも努めた。実業家層には、輸出税全廃などを求める声があった。この輸出税全廃については、立憲改進党の議員の他、国民協会の太田実(官吏出身)、実用団体の原善三郎、無所属の高梨哲四郎(弁護士)が提出者となって、輸出税全廃案が第4回帝国議会に提出された(五百旗頭薫『大隈重信と政党政治』172頁)。しかし地租負担の軽減を最優先とする自由党は反対をし、衆議院においてすら、否決された。立憲改進党の島田が自由党を批判し、事実上、自由党の離反を助けてしまったのも、自由党が輸出税全廃の代わりに唱えた、生糸輸出奨励、生糸検査所設置(法案、建議案を提出)などが、政府の役割を大きくさせるものであった(五百旗頭薫『大隈重信と政党政治』173頁)からだ(自由主義的でないともいうことはできる)。当時の政府の役割が大きくなることは、薩長閥の役割が大きくなることと同義であった。

しかしこのこと自体が、自由党が変わろうとしていたことを示している。減税を主張しないことで薩長閥政府に配慮し、代案を出すことで実業家に配慮した振る舞いでもあったからだ。自由党は実業家層からの支持拡大のために、産業振興、インフラ整備のための積極財政志向を強めていった。

自由党の変化によって、日本の政界に「1列の関係」が現れた。それは富国強兵策を進める、基本的には積極財政志向の薩長閥の方を向いて、積極財政志向に転じていく自由党系、同様の面を一定程度持ちながらも、相対的には消極財政志向ににとどまる改進党系が、並ぶという構図である。先頭へ行くほど現実的だという傾向があり、改進党系はその点で、政局において劣位にあることが多かった。存在するように見える政策の差についても、国が進むべき方向がある程度限られていた状況下、1列上の「程度の問題」という面がかなり大きかったといえる。薩長閥政府と自由党系と改進党系という3勢力が並び立つ状況において、そのうち2つが組むということは、それらが有利になるということである。薩長閥が政権を持っていたから、自由党系と改進党系が組んだ場合は、法案の否決をカードに対抗するしかなかったが、薩長閥と2大民党のうちの1党が組めば、その党は自らの主張の実現を容易にし、他方に対して優位に立ち得た。まして衆議院の過半数を越えれば、その力は圧倒的になる(縦断的な動きに反発して貴族院の多くの議員が離れない限り、同院では過半数を上回っているし、租のような離反は、「天皇の政府」が持ち得る威光により、かなりおさえられると考えられた―第6章で見るが、第4次伊藤内閣は実際にそうした-)。改進党系に比して議席数が基本的には多かった自由党系には、特にそれがいえた。2大野党は有権者層に根を下ろしていたから、大分裂を起こさなければ、薩長閥に寄ったからといって、それが性急に過ぎなければ、総選挙で直ちに議席が大きく減るということは考えにくかった(1893年12月の分裂、つまり同志倶楽部の分立も、自由党にとってすぐに乗り越え得る程度のものであったことは、その後の総選挙の結果が示している)。

1列の最後尾に位置していた改進党系の姿勢は、必然的に自由党系のそれに規定されることとなった。つまり自由党系が政府側に立った時はこれを批判しつつ、場合によっては自由党とは異なる形で薩長閥政府に接近しようとし、自由党系が野党となった場合には、共闘をした。野党共闘を進める際も、自由党系が強硬的であれば、改進党系に政府と接近する機会が生じる(実際は自由党系が先に政府に接近していき、そのような有効な機会はめったに訪れない。また、改進党系の議席数は多くの場合自由党系に比して少なく、過半数の勢力の形成は、より難しいことであった)。このことにより改進党系は、自由党系が薩長閥に寄ればこれを批判し、野党となれば共闘しようとする勢力と、薩長閥との接近の機会、つまり接近によって自由党より優位に立つ機会をうかがう勢力に、分化していくこととなる。

改進党系が自由党系に対して、民党としての姿勢を維持するのか薩長閥と接近するのか、踏み絵を踏ませることもできたように思えるが、そのようなことで自由党系が大きく動揺することはなかったであろう。何より自由党と渡り合うには同党の議席数は少なすぎた。2大民党が協力して、やっと薩長閥政府と渡り合えるところ、現代のような情報化社会でもない中、1党だけで状況を左右するのは、特に改進党系にとっては難しいことであった。薩長閥政府に批判的な有権者が多くても、特別な失政がなければ、次第に状況に慣れ、不満が忘れられ、改進党系が埋没する危険性すらあった。自由党系の薩長閥政府への接近は、むしろ自由党系の立場を強めていった。インフラ整備が大きく進む過程においては、政府と結んで希望を実現させることができれば、(物価の上昇で実質的な税負担が軽減された)有権者を引き付ける力となるのは当然である。政府接近において自由党に先行された立憲改進党には、政府と接近して早期に結果を出すような機会は、すぐには訪れず、必然的に薩長閥政府と自由党を批判した。党内には、唯一の野党として勢力を伸ばせるという見方もあった(他の野党的な勢力は会派であったといえるし、その一部が結成した立憲革新党(第3章参照-②-)よりも、立憲改進党の議席数は多かった)。

 

 

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