2.キーワードで考える日本政党史

第3極(⑤⑥⑧)~紀州組の成功の後~

政界縦断の成功者の側にあった紀州組は、伊藤に接近したという点で準与党になったといえる。陸奥による長州閥伊藤系と自由党との政界縦断に、紀州組の将来はかかっていた。しかし星の影響力が疑獄事件によって一時低下し、陸奥が体調悪化のため、条約改正の次の課題に取り掛かるような力がなかったことから、勢力の小さかった紀州組は埋没し、結局は利益誘導重視の自由党と、低負担重視の改進党系の双方に、個々に参加することとなる。だがそもそも陸奥の関心は、選挙の洗礼を受けなければならない独立倶楽部の議員達にとっては、中央に向き過ぎていたといえる。だからこそ、第3極における彼の系列の議員に広がりが見られなかったのだといえる。このことは、上で述べたことと共に、彼が指導した紀州組が自らの展望を開くことができなかった、つまり長期間存続すること、あるいは再編を制することができなかった要因でもある。

紀州組の5名は憲政党大分裂の後、岡崎邦輔、兒玉仲兒が政界縦断へ改めて進んでいった自由党系に合流、関直彦、塩路彦右衛門が民党元来の主張を維持する改進党系に合流し、異なる道を歩んだ(山本登は引退)。前者の岡崎は立憲政友会で一定の地位を得るものの、後者は1名が憲政本党を脱して三四倶楽部(第6章⑯参照)の結成に参加するなどした。その後の当選者も含めて、陸奥系は全体的に振わなかった。後者のうちのもう1名である関直彦は、総務、幹事長という立憲国民党の要職を務めるに至るが、それは立憲国民党が分裂し、第3党以下に転落した後のことである。また関は、立憲国民党の後継である革新倶楽部が立憲政友会に合流する際、これに加わらず、新たな会派として新正倶楽部を結成する。なお、岡崎も一時立憲政友会を離れた(第11章で見る)。

自らの存在が特別な価値を持っている間に自由党系に合流していれば、陸奥系は自由党系において、より有利な地位につくことができたのかも知れない。長州閥伊藤系との関係を壊さずにそれができていたとしたならば、陸奥系がその種をまいたともいえる立憲政友会においては、中心に位置し得たと考えられる。キャスティングボートを握る勢力は、これを有効に利用した後は、なるべく自らの存在や議席数が特別な意味を持っているうちに、近い勢力と有利な形で合流するのが得策であるといえる。また、政局的な動きと同時に、地盤を固めておく必要もある。政界縦断を進めることに成功した陸奥系は、失敗例としての教訓も残しているのだ。