2.キーワードで考える日本政党史

第3極・実業派の動き・1列の関係(①)~長州閥伊藤系と第3回総選挙~

自由党と新たな中立派が増えた要因の1つに、第2次伊藤内閣の姿勢があると考えられる。同内閣は自由党と接近し、対外硬派の色を強めて野党となった国民協会と対立した。そして、衆議院の過半数を上回っていた対外硬派を弱めるために行われた第3回総選挙においても当然、双方は対立した。当時の伊藤博文宛の書簡からは、伊藤系の戦略を窺うことができる。いくつか挙げてみたい。まずは、総選挙の約1週間前、2月23日付の伊東巳代治の書簡(『伊藤博文関係文書』二271~272頁)である。当時、伊藤系と近かったが故に対外硬派の批判の的となった星亨が、収賄疑惑の影響で衆議院を除名されるという痛手を負っていたため、陸奥―星ラインよりも、伊東巳代治―土佐派のラインが、伊藤と自由党との間のパイプとして、効果的に機能していたと考えられる。

京橋区之競争は自由党中島又五郎と実業家稲田政吉に有之、厲行論に取りては孰之一方当撰候も差支無之候処、昨日竹内より中島賛成之依頼有之懇意之有権者へ相尋候処既に稲田へ加担之約束致し今更変改難相成旨にて、殊に前回之選挙には小生内々援助致遣し候為同数之得点と相成年少之為失敗致候程之縁故も有之候者に付、今回も同様築地辺之有権者取纏呉候はゝ将来何様之義も指揮に可従との事に有之、当人も今朝来訪頻に歎願致候に付其意に任せ置竹内へは程克相断置候。
山口県第三区之形勢は雑賀方余程手遅れの姿に有之候へとも、昨日来滝口其他県会議員等公然雑賀の為運動を始め必勝之見込相立候由に御坐候。
横浜は最切迫殆と互角之勢と被察申候。

福島之安部井は必勝之覚悟に而袖手静黙之有様に有之候へとも、平島は躍起運動今百二十許之得票有之候へは形勢一変可致と存候。河野広中馳向ひ候後之報告未た到来不致候。

東京3区において、伊東は自由党の候補ではなく稲田を支援したが、やはり同党との関係も悪くなかったようだ。雑賀敬次郎が立った山口3区は、大岡育造の選挙区であった。この選挙区に関して、2月12日付の伊藤宛伊東書簡(『伊藤博文関係文書』二271頁)に、以下のようにある。

唯今山口より之来電に、大岡着関以来頗る冷待せられ失望の体にて、雑賀の声望日に高く、第四区は昨日三郡交渉会にて磯部十蔵、左山徳寿勢力強く、第五区は未定なれとも水落敗軍ならんとの事に有之候。大岡之事は至極好都合に御坐候。此際閣下始め内相より時々声援を賜らは目的を達するならんと存候。一人之勝敗意とするに不足と雖とも、全局之気勢に相関し候に付、充分御注意被遊度候。且右之形勢は当分極秘を守り、国民協会をして其事を知らしめさるこそ品川等をして運動の時機を失せしむるの好便と存候間、内相にも浮々他人へ御咄出不相成様御面会之節御注意願敷候

水落簡は国民協会の前職である。ここで一度、第3回総選挙後までの山口県内選出議員の所属を確認したい。第1回総選挙後、全7名が大成会には属さずに無所属の立場を採り、その後協同倶楽部の結成に参加した。第2回総選挙によって、大岡ら2名を除く議員が入れ替わったものの、全7名が、中央交渉部と国民協会に属した。ところが第3回総選挙では、第3区の大岡を除く全員が、不出馬を決めるか落選をし、6名の無所属、つまり国民協会に属さない議員が誕生した。うち1名は、第1回総選挙の当選者、吉富簡一であった。話を23日付の書簡に戻す。伊藤系は、対外硬派の要人であった福島2区の安部井磐根(政務調査所)の落選を望んでおり、これは同第3区から当選していた自由党の要人、河野広中にとっては好都合であった。結果は、自由党の平島松尾の当選となった。横浜、つまり神奈川1区については、2月8日付伊藤宛陸奥宗光書簡(『伊藤博文関係文書』七283頁)にも、次のような記述がある。伊藤系が実業家を擁立し、自由党、実業家達の支持によって当選させようとしていたことを窺うことができる。

先夜仏公使館に於て鳥渡御内話御座候横浜候補者一件に付、同人之知人を呼寄せ同人意志相尋ね候処、同人打ち出で候へは敢勝算なきにあらされとも実業者の常として余り熱心にも無之、且多少の入用を費し候上にて次回の議会解散とも相成候へは馬鹿化たる事故、断然撰挙人の重立ちたるものに謝絶したる由なり。此上は撰挙人(即ち自由党の一派)より同人に強請せしむるの外手段無之と申居れり。小生はコミツト致し候ても不都合と存じ先つ其儘に聞き流し置候。

神奈川1区では、立憲改進党系の島田三郎が常勝している。第3回総選挙において、島田の他に立候補したのは、横浜正金銀行の木村利右衛門であった。2月18日付の読売新聞には、「經營惨憺の折」、自らの勢力回復のために政府に忠義立てをしようとした人物が、当初渡邊福三郎(実業家)を出馬させようとしたが断られ、木村に働きかけたことが記されている。ここまでに挙げた書簡の内容から考えられるのは、伊藤とその周辺が一定数の選挙区において、対外硬派の勢力に属さない候補を当選させようとしたということである。総選挙の前に、国民協会や政務調査所の議員達が中心となっていた大日本協会を禁止し、また国民協会、同盟倶楽部、同志倶楽部を政社に指定することで、集会及政社法における取締りの対象とした第2次伊藤内閣であるから、当然のことである。第3回総選挙の当日、3月1日の伊藤宛伊東書簡(『伊藤博文関係文書』二273頁)には、伊藤らが重視していた選挙区と、その情勢等が記されている。長くなるが、その大部分を引用したい。

先府下之実況は唯今二時迄之内投票調左之通に有之候。
第一区  末吉 七十七  黒田 五十四
第二区  檜山 五十五  山田 五十四
第三区  稲田 百二十  中島 九十
第四区  楠本
第五区  奥 百三十二  太田 八十九
第六区  高梨
第七区  角田
第八区  阿部 八十二  青木 六十五
五時迄之内には局面一変するものも可有之候へとも大勢は前文之通に有之候。郡部は未た報知を不得候。
今朝二時之報告に依れは木村は九十三、島田八十七と申事に有之候。島田派の唱ふる所にては島田三票の負と申居、別に壮士の運動もなく至極静穏なる由。続て午後一時横浜の電報は十二時迄投票せし総数百六十八、其内木村八十四、島田八十四にて同数なり、木村派にては残り十三票慥かなりと云ふ。又双方共棄権者を奪ひ合最中との事に御坐候。本日閉函迄之処見物に御坐候。
山口は一区、森、吉富、二区、西村、三区、雑賀、四区、世山、三輪、磯部の内、五区、川上ならんとの事に御坐候。
~略~帰京之上府下実業家連中糾合之策を旋らし度、高梨も一昨夜来非常に尽力致呉申候。
~略~曲木之戦場実に懸念致極、昨夜中に取戻し出来候哉、右未得報知、頗る苦戦、今一二時にて勝敗之機相定可申候。

東京1区の黒田綱彦、同第5区の太田実は国民協会の前職、第7区の角田真平は立憲改進党の前職、1区の末吉忠晴、2区の山田忠兵衛、8区の青木匡は対外硬派の側であったといえる(末吉忠晴については1月12日付の読売新聞に、楠本正隆出席の下で1区の有権者が投票し、末吉が多数となったと記されている。山田忠兵衛については1月14日付の同紙。青木匡については1月10日付の同紙に、本郷区では田口卯吉が青木匡に譲ったとある。田口は4回総選挙において8区で初当選し、対外硬派の戦列に加わる)。末吉は、『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部に見る議席数と当時の報道を参照すると、第3回総選挙に同盟倶楽部から当選したといえるが、同著に、彼と、同様であった八幡信太が、同盟倶楽部に属しながら立憲革新党に参加しなかった全2名であることは記されていない。東京1~8区の当落は伊東の記した通りとなった。神奈川1区では、木村が島田に敗れた。山口県では第3区が大岡の当選となった以外は、伊東の聞いた通りであった(4区は三輪と磯部が当選)。山口県では、少なくとも国民協会の候補の当選を許さなかったという意味では、3区以外は伊藤系が望んだ結果になったといえる。大岡と川上を除く山口県内の当選者が、対外硬派の上奏案に実際に反対をする(本章第3極実業派の動きキャスティングボート(①③⑤)参照)。なお川上逸は、正確には河上逸だと思われるので、ここでは引用する場合を除いて、以後「河上」とする。曲木は、東京10区に自由党が擁立した元司法官、曲木如長である。自由党が彼を候補者としたことについて、進歩党の党報は、「新吏黨の新吏黨たる所以歟」と批判している(第26号50頁)。伊東が心配していた通り、曲木は落選した。なお、この書簡にはないが、他の書簡にあった福島県第二区では自由党の平島松尾が安部井磐根を下した。この3月1日付の書簡からは、伊藤系が、少なくとも東京府内の実業派をまとめようとしていたことも分かる(檜山、稲田、奥、阿部は実業家であった)。かつて高梨哲四郎は井上馨の自治党構想に賛同し、第1回総選挙で当選して以来無所属を貫いており、以後中立的な会派、そして立憲政友会に参加する。伊藤、井上と志向が近くても不思議はない。しかし高梨は対外強硬派であり、対外硬派の上奏案に賛成をした。第3回総選挙が行われた当時の、東京府内選出の議員達の所属を見たい。なお、第2回総選挙後、境界線の変更に伴い、2人区の神奈川3区が東京13区となった。前衆議院議員のうち、1、5、8、12区が国民協会、3、10区が実業団体の所属、2、6区が無所属(2区は1893年3月に国民協会を脱した渡邊洪基、6区は高梨)、4区が同盟倶楽部、7、9、11区が立憲改進党であった。第3回総選挙では1、2、3、5、8区を中立的な会派に属することとなる候補が、6区を無所属の高梨が、4区を同盟倶楽部が、7、9、10、11、12区を立憲改進党が、13区の2議席を自由党が制した。伊藤は当然ながら、対外硬派に属さない候補の当選を望んでいたはずである。中立的な会派に属することになる候補者達は、末吉を除いてそれに当てはまっていたから、第2次伊藤内閣は東京府の、特に関心を持っていた第1区から8区において、国民協会を含む対外硬派に勝利したとして良いだろう。ただし第5区の奥三郎兵衛は、対外硬派の上奏案には反対したものの、自由党の上奏案を対外硬派が修正したものには賛成した(本章第3極実業派の動きキャスティングボート(①③⑤)の表③-C参照)。6月5日付の、伊藤宛の伊東巳代治書簡には、伊東が第2次伊藤内閣寄りの候補たちの世話をしたことが記されている(『伊藤博文関係文書』二288頁)。以下の通りである。なお、10名程度しか内閣を支持する議員を得られなかったとしていることについては、本章第3極実業派お動きキャスティングボート(①③⑤)で述べる。

総選挙に付ての方針

一、松方内閣之時に於ける如き干渉の不出来事は勿論に候へとも、去り迚全然放任致置候事も決して智計に有之間布、其法律上道義上に於て不都合無之限りは、其推重する所の人物を挙け候事に尽力するは毫も非難すへきにあらす。前回之総選挙之時の如き、道楽仕事として少しく世話致候迄にても十名程の温派議員を得候儀故、

以上から、国民協会は、単に選挙干渉の恩恵を受けられずに野党として選挙戦に臨んだだけではなく、少なくとも一部の選挙区で伊藤系に対抗馬を支援された可能性が高いということがわかる。国民協会は全議席を占めていた山口県でほぼ壊滅、4名の議員がいた東京府で全滅した。国民協会の所属議員が比較的多かった他の府県を見ると、熊本県は維持、福岡、長崎両県では自由党等に議席を削られている。岐阜県では無所属等(主に独立倶楽部に属することとなる候補者達)に削られている。当時、自由党と伊藤系は接近していたから、自由党の候補も一部、伊藤系の支援を受けた可能性がある。それはここまでに引用した書簡からも察することができる。国民協会の前議員として第3回総選挙に臨んだ、岐阜6区の熊谷孫六郎は、警察が自由党を支援し、国民協会に圧迫、妨害を加えたとしている。実際に同4区では、野党系と思われる矢野才次郎という候補が拘引されている(共に佐々木隆氏「第三回総選挙と国民協会」80頁)。読売新聞は、立憲改進党よりも国民協会が選挙に干渉されたという、同会の有力者の話を記事にしている(3月21日付読売新聞)。