日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第3極・実業派の動き(①)~伊藤が期待した実業派の浮上~

第3極・実業派の動き(①)~伊藤が期待した実業派の浮上~

第3回総選挙後の中立派に関して、本章第3極実業派の動き1列の関係(①)で引用した文献に「実業」という言葉が出てきている。伊藤博文は、地租増徴に賛成する実業派の増加に期待して、後に衆議院の選挙制度を、市部を独立選挙区とするものに改めようとした(第2次山県内閣で実現)。伊藤系の実業家に対する期待は、第2回総選挙へと向かっていた時期から、すでに確認できる。1992年1月16日付の松方正義首相(当時)宛九鬼隆一書簡の、以下の部分(『松方正義関係文書』第7巻193~194頁)である。

究竟伊伯ニ結論ノアル處、正カニ相違ナシト存候處ノ要領ノミ申上候、~略~
一 議員選擧ニ就テハ、實業家ノ奮發ヲ大分當テニセラルヽモノヽ如ク、尤、何分反對者ニハ得アツテ、吾レニハ退守ノ勢アリ、餘程ヒ惡ク、倂、實業家モ官吏(重ニ知事郡長ヲ指ス)モ大分奮發致シ居レバ、彼レ等ガ方向ニ迷ハサル樣、方針ヲ與ヘ度場合ニ、彼ノ高田、島田等ガ總理ニ迫リ、叉、反而日本銀行ニ迫リタルニ、蓑村(三ノ村)ハ川田ノ代理トシテ、弱ヒコトヲ云ヒタリアレハ、東京ニテハ、アレ丈ノコトナレドモ、地方ノ實業家ニトツテハ、非常ノ弱身トナル事ニテ、殘念千萬也、殊ニ叉、三野村ノ分際トシテ、日本銀行ハ内閣ニ獨立シ、内閣更迭ノ際ニモ、日本行(銀欠か)ハ動カズナド、此場合ニ入ラヌノミカ、吾黨ノ弱身ニナルコトヲノミ云ヒタリ、殘念々々、斯ルコトヲ迫リ來リタラバ、日本行(銀欠か)ニテハコトコレハ怪シカラヌ御尋也、日本行(銀欠か)ハ日本行(銀欠か)、經濟上ノ本分ヲ守ルノミ、斯ル政治上ノ詰問ハ答辨ノ限リニアラズト、」~略~

1891年12月の松方首相(当時)宛の伊東巳代治の書簡(『松方正義関係文書』第6巻510頁)からも、伊藤系に、衆議院における実業家出身の議員を増やそうとする意図があったことが分かるから、それを確認したい。

謹啓、今宵歳晩御祝詞可奉申上爲め、拜趨可仕之處、過刻來、谷秘書官と内議を凝し、孝謹白外ニ偏刻を移し候上、市内商工業者の團體を以て選擧ニ關渉せしめ候計畫之爲め、益田孝氏非常に盡力中ニ候處、澁澤氏何分冷澹にて、困り入候趣、益田氏申居候ニ付、先是にて、唯今より、尚又、右ニ取懸り申度候ニ付、歳暮之御祝儀には不相伺候間、不惡、御推恕被遊度候、

第2次伊藤内閣、伊藤博文系について語るとき、「実業」が重要なキーワードになることに、改めて気付かされる。実業家、正確にいえば、第2次伊藤内閣と自由党の接近に反発せず、内閣の条約改正の方針を支持する、内地雑居容認派の実業家の議員こそが、吏党系に代わる自らの支持派として、伊藤らが求めたものであったと考えられる。政党に属さない議員達に味方を求める形となったことは、第1次山県、第1次松方両内閣と同様である。違うのは、当時は吏党の本流が、内閣の敵として存在していたことである。この従来の吏党に対抗する新たな政府支持派としても、第2次伊藤内閣、伊藤系は、実業家の中立議員に期待したのである。1894年5月5日付の伊藤宛井上馨書簡には次のようにある(『伊藤博文関係文書』一263~264頁)。

陳昨朝は西村、三輪、磯辺も来訪、尤其席には森も同座候も而吉富之性質等も弁明し、西村よりも条約等之事も質問し候故充分弁論し、且励行問題も大岡既に自分勝手之主意并議論を吹込居面会も致し候由自白仕候故、鉄道同志会員等に陳述候主意を以其利害并政府より各国え向つて従来改正上之来歴等も委細説明候処大概分明候由申居候。又議会中中立するは余程難事なる、則各党派より引込手段又は甚敷に至りては彼壮士抔を強迫する如き事実も物語り置候処、充分承知候都合にて原善組え加入之心組は相生申候。尚別に森にも中立之難きを説候而、一先諸子之加入する方に今日中に取纒候而直に同人閣下え罷出候而、原善組之方より招待する方に運ひ候樣、閣下之指揮に従ひ極内に気脈を貫通し置、只議員之感情を損せぬ様尽力之都合相約し置申候。定て今明日には先つ森相伺ひ可申候間、檜山、原善之尽力にて別動組に山口議員を不置して、実業組党員たる看板を負はしめ候方に御決意被成候方上策と奉存候。無左而は迂遠連中故大岡抔も必死口説立或は壮士を使用する位之事は可致候間、甚以小人数之中立は懸念至極に御座候。

伊藤、井上の足元の山口県(もちろん山県の足元でもあるのだが)において、国民協会から議席を奪った議員達を、実業派とまとめようというのである。河上逸以外は井上馨に従おうとしていたようであり、彼らの投票行動も、実際にそうなった(第3章第3極実業派の動きキャスティングボート(①③⑤)の表③-D参照、なお1894年5月19日付の東京日日新聞は、河上が、新参議員であったため、青票を入れるべきところを誤って白票を投じてしまったとした)。議員達は無所属に留まったものの、井上の構想は第4回総選挙後、1894年のうちに実現することとなる。ちなみに1894年3月27日付の読売新聞によれば、檜山銕三郎は稲田政吉、阿部孝助と共に実業団体を組織しようとしていた。また4月25日付の同紙は、代議士中に20名もある実業団体という一派があるとし、「世衆の腦裡豈亦た此等代議士を所謂る政商紳商の輩と同視するの感なきを保せんや」として、立場を明確にすることを求めている。檜山たちが実業の名を掲げた会派の形成に動いていたことは間違いないだろう。

1891年8月13日付の読売新聞を見ると、陸奥農商務大臣(当時)が8日に原善三郎の別荘に行ったこと、翌日に伊東巳代治が行ったこと、伊藤が陸奥と行く約束をしていたものの来られなかったらしいことが記されている。原と陸奥、伊藤系には一定の関わり合いがあったようである。井上の書簡などと合わせて見れば、原が檜山たちの動きと関係していなかったとは考えにくい。原、檜山、稲田、阿部らによる中立倶楽部結成の前に、「実業」という名を掲げる会派を結成する構想が、確かにあったのだ。つまり、そのような第2次伊藤内閣寄りの会派を結成する構想が、中立倶楽部の結成となったのである。阿部が移っていった独立倶楽部、そして湖月派がどのような会派であったか、第2次伊藤内閣、伊藤系が、多くの中立議員をまとめることに、あまり成功しなかったことについては、本章補足~中立3会派分立の経緯~で見た通りである。

原善三郎の名が表れている史料をもう1つ示したい。1894年4月19日付の曽我部道夫(岐阜県知事、元中央交渉部衆議院議員―『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部では溜池倶楽部の所属となっていたことがある。ここではこれに準じているが、筆者自らそれを確認しているわけではない。1892年5月18日付の読売新聞は曽我部が渡辺洪基の政党組織論に反対したことを伝えており、実際に国民協会への参加は確認できない―)宛吉井常也書簡である(『岐阜県史』史料編近代一689~694頁)。これには、岐阜7区から無所属として初当選した永田吉右衛門に対して、吉井が行った聞き取りの内容が記されている。

一貴君ハ今般当飛彈国代議士二選ハレ名誉ノ事テアルカ、第一国家ニ対セラルヽ処ノ主義ハ如何ナル処二拠ラレ候哉、又党派ハ何党二加入セラレタルヤ

一主義ハ実業ニアリ、我国ハ未タ実業ヲ以テ立サレば国家ノ経綸誠ニ乏ク、又此実業ヲ主唱スル所以ハ、即チ国カ富サレば兵弱シ、兵弱ケレハ国危シ、故ニ徹頭徹尾実業発達ノ精神ハ換ヘサル積ナリ、又党派二ハ未タ確然ト入党セス、然レトモ同盟倶楽部へ入党スル決心ニテ稍々其手続ヲナシヽアリ、只惜ムラクハ日本各党派ノ中ニ実業団体ノナキハ誠ニ遺憾トスル所ナリ、依テ此同盟倶楽部へ仮令へ入党スルモ、若シ実業団体ノ組織成ル事ノアラバ、速ニ脱党シテ其団体ニ加入スルノ精神ナリ、之ニ付上京早々原善三郎へ面会シテ実業者ノ団体ヲ求ムル考ナリ、

一然ラハ貴君ハ条約励行問題ハ如何ノ考ヘテ居ルヽヤ

一条約励行ハ最モ主トスル処ナリ、今日本ニ実業モ挙ラズ、今日ノ有様ヲ以テ只条約励行ノミヲ先ニスルトキハ、必ス彼レノ食物ニナルノ外ナシ、即チ之カ国是ヲ誤ルト云フモノナラント存ス、依テ私ハ非励行者ナリ

一然ラハ君カ入党セラレントスル彼ノ同盟倶楽部ハ条約励行ノ主唱者ナリ、若シ入党セラレテ非励行ヲ主張セラルルヽ積リナリヤ、如何

一夫ハ党議ナレハ党員トシテ非励行ヲ唱フル訳ニモ至ラス、依テ実業団体ヲ求メテ一日モ早ク脱党ヲ計ルノ積ナリ

一貴君ノ弁明ヲ聞キ一々精神ノアル所ヲ了解セリ、常也モ尤モ条約非励行者ナリ、其非励行ヲ唱フル主意ハ貴君ト同意ナリ、然ル二君カ熱心ニ非励行ヲ唱ヘナカラ彼同盟倶楽部二限リ入党セラルヽハ実ニ不思議ノ至ナリ、其故如何

永田が条約励行論に反対であったことは分かる。しかし永田は、条約励行だけを(条約改正よりも)先にすると彼らの(外国人であろう)の食い物になるとしている。外国人に対して不利な条約の適応を進めることが条約励行の趣旨であったから、これによって日本人がどう食い物になるのかは分からない。永田は外国との競争を回避しようとしているようにとれるから、この点で対外硬派と一定の親和性もあったのかもしれない。上に引用した最後の問いに対する、永田の答えは次の通りである。

一夫ハ尤モナル問ニテ、此永田弁護士ハ未タ議員ニ選ハレサル前ニ、自由党ヨリ入党ヲ勧メ越シタル事度々アリ、又改進党ノ角田、其他二、三人カ来飛シテ、頻ニ入党ヲ勧シモ断然断リタリ、又国民協会ヨリモ和田某等来飛シ一昼夜モ入党ヲ勧メタル事アルモ、是等モ断乎トシテ無常ニ断タルナリ、故ニ今代議士ニ選ハレタレバトテ、是迄右ノ行懸モアル事ニテ彼ノ二党ノ中ニ今更入党スルハ快トセス、夫レ故無拠同盟俱楽部ヘ入党スル事ニ決心セリ、且此代議士ハ始ヨリ党派ト云フモノハ極々ノ嫌ナリ、然レトモ代議士ニ選ハルレバ、素志ヲ曲ケテデモ何党カヘ入党サセレバ、議員ノ品格ヲ失スルヲ以テ、右ハ極々致方ナキノ動作ナリ、依テ実業団体ノ組織ヲ俟ハ此所以ナリ

既成政党に批判的であるか、そのような有権者が多く、無所属で出馬して当選した議員の一部にも、当選後はいずれかの会派に属そうとする議員がいたという、良い例である。その場合、誘いを断った主要政党に属することは矛盾するから、それ以外の勢力に入ろうとすることがあるのである。同盟倶楽部は中立性に乏しかったが、当時他に既成政党でない勢力がなかったわけだ。そしてそのような議員に中立的な会派、一部には実業家向けの中立会派が求められていたことが窺われる。続きを引用したい。

一二党へ行懸上入党ノ出来ヌトハ、夫ハ君カ議員ニ挙ケラレサルノ前ノ事ニテ、原ト素志カ党派嫌ナレバ尤モナル事ナリ、其時ノ答ヘハ取モ直サス個人的ノ答ニテ、即チ永田吉右衛門ノ答ナラン、今日ノ代議士トシテハ個人的ノ素志ハ最早捨置テ、当飛彈ノ国是ト日本帝国ノ国是ト云フ事ニ深ク着眼シテ、立憲ノ実ヲ挙ケラレン事ヲ偏ニ希望スル処ナリ、又君カ彼ノ同盟俱楽部ノ如キ、日本不平者カ組織シタル同部ニ入党シテ、条約励行論ヤ諸事ノ破壊論ヲ当飛国抔ヘ無暗ニ振リ廻サレテハ、此先キ実ニ一国是ヲ乱シテ、終ニ帝国ノ大乱も小国ヨリ醸シ、為ニ日本ハ外国ニ対シ恥ヲ暴ス事モナキニ、之ニ限ラズ、夫ヲ今般ハ個人的ノ素志ハ爰ニ消滅セシメテ、国是励行者トナラレテハ如何

一夫ハ尤モナル論題ニテ、此代議士モ無用ノ破壊論抔ニ賛成シ、無暗ヤタラノ挙動ヲナスモノニ非ラス、是迄入党ヲ勧ムルモノ幾人カアルモ、決シテ加盟セザリシカ即チ其証拠ナリ、又今ノ自由党ナリ改進党ナリ人物カ現政府ニ採用セラルヽ事アリトセンカ、今日ノ国是ハヤハリ現政府カ採ル処ノ進度ニ従フヨリ外ニ道ナキモノノヽ如シ、夫テ此代議士ノ如キモ現政府ノ方針ヲ助ケテ、国是ノ進歩ヲ保翼スル積ナリ、譬ヘハ同盟党ニ加入スル事アルニモセヨ、其時ハ必ス前置ト云フ事ヲ述テ加入スルノ精神ナリ、其前置ト云フ事ハ、若シ実業団体カ院中ノ議員ヲ組織スル事アラバ、何党ヲ問ハス生ハ速ニ退党シテ、同団体ニ加入スル云々ノ事ヲ兼テ述ヘ置ク積ナリ

一夫テハ君ハ政党カ嫌テ実業団体カ希望スル事ハ、能々了解シタリ、就テハ常也モ此上ハ遠慮ナク話シヲ致ズベシ、若シ君カ同倶楽部抔ヘ加盟シテ、之ハ党議之ハ党則ト扼腕シテ老壮士ヲ気取リ、東奔西走セラルヽトキハ、実ハ当国ニ施行スル万事実業上其他ノ事ニモ、幾分カ君ニ遠慮セネバナラヌ事モアルヘシト思ヒ居リ、又当国ヘ貴顕紳士ノ来国スル事アルモ、皆幾分カノ遠慮ヲ兼テ、之レカ為メ当飛国ハ大キニ利益ヲ欠ク事ナラント存居リシニ、豈図ンヤ、君ハ左様ノ感ナク、全ク実業上現政府ト方針ヲ同シテ、万事ニ当ルノ決心ナリトアレバ、此上ハ愈遠慮ナク今後ノ事ヲ共ニ謀ルヘシ、事爰ニ定リシ上ハ、君ニ今一ツ請求スル事アリ、夫ハ余ノ儀ニモアラス、此度ノ開会ニハ中立議員ニテ議場ニ立チ、今後ノ動作ハ県下ノ代議士一般ト共ニ相謀リテ、県下ノ為メ全体ノ方針ヲ定ラレテハ如何ゾ、今回当県下当選ノ代議士ヲ屈指スルニ、多クハ実業家カ勝ヲ得タルモノヽ如ク思ハルヽナリ、右ニ依レハ君カ意見モ実業上ニ在ル事ナレバ、意見ノ相合スルハ必ス相違ナク存ス、左スレバ全県下ノ為メ実ニ利益ナラン、君此答如何

一今回当選ノ代議士モ皆実業家カ勝ヲ占メタルモノヽ如シ、依テ上京ノ途路渡邊甚吉氏モ是非寄呉レトノ事ニ付、先ツ彼ヲ訪問シテ万事ノ打合ヲナス考ヘナリ、又中位ノ事ハ貴示ノ如ク、国家ノ事情ニ通シテヨリ入党シテ敢テ差支サル事ニ付、何トカ決スル積リナリ

一君ハ何日頃出立スル積ナリヤ

一来廿五日当地ヲ出発シテ前ノ渡邊氏ヲ訪フ積ナリ

一上京ノ路次知事ヘモ面会スル積リナリヤ

一左様、知事公カ先般当国ヘ御巡回ノ時ハ、折悪敷不在ニテ親ク面謁ヲ致サヽルニ付、今回ハ是非御面会ヲ得テ御意見モ伺フ積リナリ

前ニ逆リテ又問

一同盟倶楽部ハ官吏ノ非免ノモノ多クシテ、世ニ不平ヲ唱フルモノナリ、夫ニ加入スルハ何カ君ニ於テ意見ノアル事ナルヤ

一決シテ世ニ不平ナシ、只先代議士カ同部ニ加入シ居タルヲ以テ、先代議士ト意見ヲ同シクスルト云フニ外ナラス

一世人ノ多数ハ同盟倶楽部ヲ見ルニ、爪弾キヲシテ大ニ之ヲ忌ム心持アリ、君ハ其忌マルヽヲ快シトスルカ

一之ハ大ニ好マサル事ナリ

一君ハ今後議会ヲ解散スル事アラバ再選セラルヽノ見アルヤ

一覚束ナシ、井上利右衛門抔ハ今日ヨリ其準備ニ怠ラサレハナリ

問答はこれで終わっている。「先代議士」とは、第2回総選挙の岐阜7区の当選者、船坂與兵衛であるはずだ。船坂は1892年11月27日に、中央交渉部から同盟倶楽部に移っている。永田が同盟倶楽部に加わろうとした背景には、このようなこともあったのだ。新民党のようなものを嫌う薩長閥政府の意を体現した吉井が、選挙区の利益にならないという脅しを含めた懸命の説得を行ったわけだが、結局永田は、同盟倶楽部と同志倶楽部が結成した立憲革新党に加盟した。永田は第4回総選挙以後当選しておらず、第4回総選挙では問答に名の挙がっている、自由党の井上利右衛門が当選している。なお、書簡は以下の様に続いている。

右聞取書御参向マテニ拝呈仕候、本人ノ考モ入党ハ余リ好マサルヤニ有之、又本人カ談話ハ誠実上ヨリ出タルモノニテ、決シテ空飾ハ無之ト確信仕候間、彼ノ渡邊ト原善三郎ヲ一ノ頼ト致居候様子ニ相伺候ニ付、彼等二人ガ何トカ相勧メ候得者、無論同盟倶楽部抔ヘハ入党サセル事必定ナリト奉存候、尤モ尊館相伺候ハヽ何トカ御一言ヲ賜リ候得者、万事難有拝承仕候ト奉存候、先ハ用々ノ件拝申仕度迄如此ニ御座候、恐々拝具

第3回総選挙で当選した無所属議員たちはまとまれず、3つの会派が並び立ったが、その中立倶楽部、独立倶楽部、湖月派の3派は、実業家の比率が高かった。中立会派の中で実業家の比重が増したのが、第3回総選挙だということもできる。表③-Bは、第2回総選挙後の独立倶楽部と、第3回総選挙後の中立3会派の議員達の職歴を比較したものである。第2回総選挙後の中立会派は、前述の通り幾度かの再編を経たが、実業家の割合が独立倶楽部よりも特別多いということはない。

 

表③-B:第2回総選挙後と第3回総選挙後の中立会派所属議員の経歴

・②、③は第2、3回総選挙後を表す。独立、中立は全て独立倶楽部、中立倶楽部。

・独立+は第2回総選挙後の独立倶楽部の、結成後の加盟者。

・中立倶楽部結成時のメンバーでありながら独立倶楽部の結成に参加した岸、須田、高木は独立倶楽部とした。

➁会派 ➁人名 ➁経歴 ➂会派 ➂人名 ➂経歴
独立 伊東祐賢 官吏、実業 中立 阿部孝助 実業
独立 伊藤謙吉 官吏、実業 中立 稲田政吉 実業
独立 稲垣示 運動家 中立 奥三郎兵衛 実業
独立 岩城隆常 地方官吏 中立 小島相陽 実業
独立 鵜飼郁次郎 教師 中立 佐藤昌蔵 官吏
独立 植田清一郎 農業 中立 竹村藤兵衛 実業
独立 植田理太郎 農業 中立 原善三郎 実業
独立 岡崎運兵衛 実業(報道) 中立 檜山鉄三郎 実業
独立 岡崎邦輔 官吏、実業 中立 村野山人 実業
独立 加藤六蔵 農業、実業 中立 目黒貞治 農業
独立 川越進 実業 中立 望月右内 実業
独立 兒玉仲兒 農業 独立 秋岡義一 実業
独立 佐々木善右衛門 教育者 独立 大村和吉郎 農業(足尾銅山追及)
独立 佐々田懋 実業 独立 鎌田栄吉 官吏
独立 塩路彦右衛門 教員、農業 独立 木村誓太郎 実業
独立 関直彦 弁護士、実業 独立 岸小三郎 弁護士
独立 谷順平 地方官、実業 独立 末吉忠晴 -(東京府会)
独立 玉田金三郎 弁護士 独立 須田萬右衛門 実業
独立 森本藤吉 運動家、実業 独立 高木貞正 実業
独立 山本登 →実業 独立 並河理二郎 実業
独立 吉岡倭文麿 神主 独立 初見八郎 記者
独立+ 大須賀庸之助 地方官吏 独立 松原芳太郎 実業
独立+ 片野東四郎 実業(書籍商) 湖月派 穐山忠夫 -(広島県会)
独立+ 加藤政一 農業 湖月派 河上源一 実業
独立+ 木下莊平 農業、実業 湖月派 黒田道珍 医師
独立+ 斉藤善右衛門 実業 湖月派 高橋守衛 実業
独立+ 関戸覚蔵 地方官吏 湖月派 土居通夫 官吏、実業
独立+ 武部其文 弁護士、農業 湖月派 前川槙造 実業
独立+ 中沢彦吉 実業 湖月派 八幡信太 農業
独立+ 西川義延 農業
独立+ 八田謹二郎 実業
独立+ 若原観瑞 僧侶

 

注意を要する点がある。第2回総選挙後に結成された実業団体は中立実業派に数え得る。これを含めると、第3回総選挙前に、すでに中立の実業家派が増えていたということになる。しかし実業団体は吏党系の中央交渉部から誕生したものである。この差異、第3回総選挙前の実業団体以外の会派が実業家によるものだとはいえないことは重要である。それでも、実業団体には確かに中立的な面があったから、これを含めて比較すると、第3回総選挙以前に1つ、10議席未満の中立実業派(実業団体)が存在していたということになり、第3回総選挙後におよそ10議席程度の中立実業派が3つ存在するようになったということになる。これでも、中立実業派が増えたのだと考えるべきだろう。

会派の性質(の変化)、実業家中心の会派の(合計の)議席数こそが重要だ。実業家自体は各党、各会派に少なからず参加していたが、その場合は、実業派だけで独自に動いていたというのでない限り、所属している政党、会派の姿勢に準じていたと見るべきである。そしてそのような明確な動きは確認できない。

 

 

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