2.キーワードで考える日本政党史

第3極・実業派の動き・キャスティングボート(①③⑤)~中立派の投票行動~

自由党も対外硬派も過半数に届かなかったため、中立派が再びキャスティングボートを握るはずであったが、3会派が分立したことにより、その所在は不明確であった。中立3会派は、準与党、野党のいずれであるのか、全体としての姿勢を明確にしなかったことから、中立、つまり間の準野党であったといえる。しかしそれでも、どちらかといえば、中立倶楽部には第2次伊藤内閣寄りの、他の2派には対外硬派寄りの傾向が見られた。それは、第6回帝国議会期において衆議院に提出された上奏案についての、所属議員の投票行動を見ると分かる。同盟倶楽部に属しながら、立憲革新党の結成に参加しなかった全2名のうち、末吉忠晴が独立倶楽部の、八幡信太が湖月派の結成に参加したこと、且つ彼らが変質したわけではないこと(下の表③-C参照)も、これを裏付けているといえる。

以下は、第6回帝国議会期、衆議院に出された3つの上奏案の採決日、採決結果と、中立3会派における賛否の数である(5月18日付と6月2日付の東京朝日新聞の附録に基づく)。採決が行われた順に、便宜上、番号を振った。5月下旬に湖月派から中立倶楽部に移ったとされる前川槇造は、湖月派の所属とした。

① 上奏案(閣臣ノ責任ニ関スル件)

…対外硬派が提出、解散批判、条約励行要求等、5月17日採決(自由党は反対)

賛成144、反対149(中立倶楽部は賛成2、反対6、棄権2、独立倶楽部は賛成8、反対3、棄権1、湖月派は賛成4、反対3)

 

② 上奏案(内閣ノ行為ニ対シ本院ノ意志ヲ表明スルノ件)

…自由党が提出、行政、海軍改革不十分等、5月31日採決(対外硬派は反対)

賛成132、反対161(中立倶楽部は賛成4、反対6、独立倶楽部は賛成0、反対12、湖月派は賛成1、反対5、棄権1)

 

③ 上奏案(内閣ノ行為ニ対シ本院ノ意志ヲ表明スルノ件)

…②を対外硬派が修正し、内閣不信任の意を付加、5月31日採決(自由党は反対)

賛成153、反対139(中立倶楽部は賛成3、反対7、独立倶楽部は賛成11、反対1、湖月派は賛成5、反対1、棄権1)

 

独立倶楽部と湖月派は、②と③の採決において、①の時よりもまとまりを強め、傾向を明確にしていることが分かる。中立倶楽部の自由党案(②)に対する賛否を見ると、反対の方が多く、自由党寄りであったとは言い難いことが分かる。当時、定数300の衆議院の勢力分野は、自由党約120、対外硬派約130(おおよそ立憲改進党50、立憲革新党40、国民協会30、旧大日本協会・政務調査所派10)、そして中立3会派がそれぞれ10前後であった。大まかな数字に留めたのは、時期によって多少の変動があったためである。無所属議員も約25名いたから、中立3会派だけが法案等の可否を左右したというわけではない。①では中立3会派における賛否の多寡が上奏案の可否と一致していない。しかし①~③のどれも、合計29議席(合計では変動なし)の中立3会派における賛否の票数が変わっていたとしたら、可否が優に逆転し得るものであった。そして、中立3会派全体では対外硬派と同様の投票行動を採る議員が多く、③が可決に至ったのであるから、伊藤系による中立派の取りまとめは明らかに失敗であったといえる。後述するように、伊藤系が多数派形成に躍起になっていたのも無理はない。

中立3会派、無所属議員の、個々の上奏案に対する賛否を見たい。表③-C、表③-Dである。対外硬派の投票行動の標準は順に○×○、自由党のそれは×○×である。伊藤系、第2次伊藤内閣寄りは全て×であるべきで、自由党にも寄っていた、あるいは同様の立場を採っていたとして×○×、それ以外は本来あり得ない。

 

表③-C:第3回総選挙後の中立3会派の上奏案に対する賛否

・案①~③は、本文で同じ番号を振った上奏案。○は賛成、×は反対、-欠席を含む棄権を表す。

・各議員の1つ前と1つ後の所属会派を記し、~倶楽部は「~倶」と略した。

・(同盟倶)とした2名は、『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部に見る議席数と当時の報道を参照した結果、第3回総選挙に同盟倶楽部から当選したと考えられるが、同著に個人の移動が記されていない議員。

会派名 議員名 選挙区 案➀ 案② 案③ 前の所属 次の所属
中立倶楽部 稲田政吉 東京3 × ×
中立倶楽部 奥三郎兵衛 東京5 × ×
中立倶楽部 小島相陽 長野1 × ×
中立倶楽部 佐藤昌蔵 岩手3 × × × 国民協会 自由党
中立倶楽部 竹村藤兵衛 京都2 × 大手倶
中立倶楽部 原善三郎 埼玉5 × × × 実業団体 実業団体
中立倶楽部 檜山鉄三郎 東京2 × ×
中立倶楽部 村野山人 兵庫2 × 実業団体
中立倶楽部 目黒貞治 秋田1 × 実業団体
中立倶楽部 望月右内 和歌山2 × × 実業団体
独立倶楽部 秋岡義一 大阪4 × × 中立倶 実業団体
独立倶楽部 阿部孝助 東京8 × × ×
独立倶楽部 大村和吉郎 静岡7 × 憲政本党
独立倶楽部 鎌田栄吉 和歌山1 × ×
独立倶楽部 木村誓太郎 三重3 × 大手倶
独立倶楽部 岸小三郎 岐阜2 × 中立倶 山下倶
独立倶楽部 末吉忠晴 東京1 × (同盟倶) 大手倶
独立倶楽部 須田萬右衛門 岐阜5 × 中立倶
独立倶楽部 高木貞正 岐阜3 × 中立倶
独立倶楽部 並河理二郎 島根2 × 山下倶
独立倶楽部 初見八郎 茨城4 × 憲政本党
独立倶楽部 松原芳太郎 岐阜4 ×
湖月派 穐山忠夫 広島6 × 大手倶
湖月派 河上源一 長野4 × ×
湖月派 黒田道珍 福井3 × ×
湖月派 高橋守衛 島根3 × 国民協会
湖月派 土居通夫 大阪2 ×
湖月派 前川槙造 大阪3 × 中立倶
湖月派 八幡信太 島根6 × (同盟倶)

 

表③-D:無所属議員の上奏案に対する賛否

・案①~③は、上記の、同じ番号を振った上奏案。○は賛成、×は反対、-欠席を含む棄権を表す。

議員名 選挙区 案➀ 案② 案③ 所属政党、会派の主な変遷
安田勲 千葉8 × 立憲改進党(五月下旬離党)、憲政本党
高梨哲四郎 東京6 × 山下倶楽部、憲政党、憲政本党、議員同志倶楽部、中立倶楽部、中正倶楽部、甲辰倶楽部、大同倶楽部、立憲政友会
山田嘉穀 神奈川4 × × 自由党(1894年5月離脱)
福井直吉 神奈川5 × × 自由党(1894年5月離脱)
原弘三 富山1 × × 中央交渉部、国民協会
田中源太郎 京都5 × 大成会、芝集会所、政務調査所
粟屋品三 大阪1 × × × 大成会、中央交渉部、国民協会、実業団体(第4回総選挙後)
村山龍平 大阪4 × 中央交渉部
植田重太郎 大阪6 × ×
中山平八郎 奈良1 × 立憲改進党、進歩党、憲政党、憲政本党
松本長平 奈良3 × 憲政本党
山本隆太郎 和歌山3 × × 実業団体(第4回総選挙後)、日曜会、公同会、山下倶楽部、立憲政友会
石谷薫九郎 鳥取1 × 実業団体(第4回総選挙後)、日曜会、憲政党、憲政党、立憲政友会
田江弥三郎 鳥取2 × 大手倶楽部
脇栄太郎 広島5 × × × 巴倶楽部、山下倶楽部、大同倶楽部、立憲政友会
井上角五郎 広島9 × 立憲自由党、協同倶楽部、中欧交渉部、井角組、実業団体(第4回総選挙後)、憲政党(自由党系)、立憲政友会、中立倶楽部、大同倶楽部、立憲政友会、新政倶楽部→政友本党
森清蔵 山口1 × ×
吉富簡一 山口1 × 実業団体(第4回総選挙後)
西村禮作 山口2 × × 実業団体(第4回総選挙後)、立憲政友会
磯部十蔵 山口4 × × 実業団体(第4回総選挙後)
三輪伝七 山口4 × × 国民協会、立憲政友会
河上逸 山口5 ×
綾井武夫 香川3 × 立憲自由党、国民自由党、協同倶楽部、公同会
末松謙澄 福岡8 × × × 大成会、協同倶楽部、中央交渉部
富永隼太 長崎1 × × 自由党、憲政党、憲政党
山口新一 長崎2 ×

 

上奏案全てに反対であるか、自由党と同様の投票行動を採った議員は、中立3会派の約3分の1、無所属の約6割ほどであった。政界を縦断する、薩長閥と民党の(それぞれ一部の)協力を模索する長州閥伊藤系・自由党と、対外硬派との対立が続く中、新たな中立派、無所属議員は、以前の中立派と同様に、双方に分化したのだといえる。彼らの中に、明らかに途中で行動を変えている議員がいることは、彼らに、対立する双方の働きかけがあったことを窺わせる。このことを書簡でも確認したい。第6回帝国議会の開院式当日である5月15日付の伊藤宛伊東書簡(『伊藤博文関係文書』二283頁)には次のようにある。楠本正隆は東京4区選出の同盟倶楽部、つまり対外硬派の議員であり、同月12日に衆議院議長に再選されていた。再選された時には同志倶楽部と合流し、立憲革新党を結成していた。

本日之開院式後楠本は奥、阿部、稲田之三人を議長室に招き上奏案賛成を勧誘したるに、篤と熟議之上返答すへしとて即答を与へす、三人打揃幸楽園に而昼食を喫し、勿論反対なりとの意を以而稲田政吉を総名代として楠本に返答に及候由、唯今檜山より通知有之候。又愛宕館には本日左之人名集会、上奏案賛成を決議し六派へ其旨を通報したる由。

前川槇造    清水栄三郎 ・川上源一   木村誓太郎

大村和吉郎  ・初見八郎  ・並川理一郎 ○高木貞正

○須田万左衛門 ・鎌田栄吉  ・秋山忠夫   末吉忠晴

右の人名不残上奏案賛成に候へは三名程非励行派之敗に帰し候へとも別に五名之伏兵有之未た全局之勝敗は何れとも難相決候。右人名之内今朝来運動を試み夫々先方に而着手前之者も不尠、○○は岐阜県人に付古市之手に而今一段可相試筈に相成居、秋山忠夫は井の角引受に有之、鎌田は福沢より相談之筈に相成居、以上之運動今朝大臣室に於て相始候位に而いつれとも今夜より明夕に至るまての内に其成否相分り可申、加ふるに並川は千家知事今一層相働可申候。明夜迄之形勢は追々可申上候。佐藤里治は松本鉄道局長官之手に而何と歟工夫相付可申由に付是より松本を訪ひ内談相試候筈に有之候。其節は御内命之意を含み(暗に)可申談候間此義御許容被下置度候。

対外硬派寄りであったか、新たに寄ったと見られる議員12名が挙げられている。中立倶楽部に属したことのある議員は、すでに独立倶楽部に移っていた須田と、下旬に湖月派に映る前川の2名しか見出せない。つまり、当時の中立倶楽部所属議員の名を見出すことは出来ない。それに対して湖月派は、その前川と、秋山、河上、独立倶楽部は木村、大村、初見、並川(並河理二郎)、高木、鎌田、末吉、そして須田と、それぞれ中立倶楽部より多く見出せる。特に独立倶楽部は、全11または12名中の、8名の名が挙がっている。第2次伊藤内閣の中立派を当てにした多数派形成は、壁に突き当たっていた(その上、書簡で心配されていない、当時の中立倶楽部の議員にも、対外硬派の上奏案に賛成する者が4名現れる―うち1名は途中からであり、1名は湖月派から移った前川槇造で、1つ目の上奏案の採決の時にはまだ中立倶楽部の所属ではなかった)。

中立議員には井上馨が危惧した通り、対外硬派の激しい切り崩し工作があったようである。5月16日付の、当時司法大臣であり、井上馨内務大臣の臨時代理にもなっていた芳川顕正に宛てた伊東の書簡(『伊藤博文関係文書』二283~284頁)には、次のようにある(ただし議長選挙は12日であったから、何かしらの誤りがあると考えられる)。

明日議長選挙之為六派連中には壮士を使用し大に中立議員を強迫するの計画を定め刻下頻に運動致居候処、議長選挙之結果如何本会期之形勢に関係を及候義不尠、首相閣下にも痛心相成居候間、

話題にされている衆議院議長選挙では、同盟倶楽部の楠本が153票を得て、自由党の河野広中らをおさえて1位となった。副議長選は自由党の片岡健吉が制したが、この結果は対外硬派が第6回帝国議会開会時に、すでに優勢であったことを示しているといえる。

本章第3極実業派の動き1列の関係(①)で見た書簡において、伊東が10名程度しか内閣を支持する議員を得られなかったとしているのは、③の上奏案に反対した中立3派の9名(うち7名は中立倶楽部。同じく反対した無所属議員を含めると、10名程度とし得ない規模となる)、または中立倶楽部に残った11名を指しているのではないだろうか。どちらであるかは分からないが、この双方、また他の件を合わせた、伊東の印象であったと見ても良いのかも知れない。

以上、本章の補足~中立3会派分立の経緯~に続いて、第2次伊藤内閣の、中立の実業派等をまとめ上げることによる多数派形勢の挫折を見ることとなった。第3回総選挙の前後の伊藤系の動きは、政党に属さない実業家の議員を増やした。しかしその一部は伊藤系の期待を裏切り、対外硬派に寄った。そして3つの、中立実業派とし得る会派が結成されたのである。

この前後、政界縦断支持派・容認派(伊藤系を支持する勢力)と否定派・対外硬派の対立は、中立的な議員達を双方に割いた。こうして、衆議院の状況が思い通りにならなかった伊藤は、再度の衆議院解散を決意したのである。