2.キーワードで考える日本政党史

第3極・実業派の動き・連結器(②)~2つの新党~

陸奥外交と対外硬派の主張の間を採るというのも難しく、異なる立場からの決議案や上奏案が次々出される中で、中立会派は姿勢を明確にすることを迫られた。そして長州閥伊藤系・自由党の側と、対外硬派の側に裂かれるだけに終わった。結成後早期に衆議院が解散されたこともあり、実業派中心の会派としての独自性も発揮できなかった。一方で、対外硬派の側には特徴的な政党が出現した。1つは、民党離脱者である同志倶楽部と、吏党(大成会、中央交渉部)離脱者、かつての巴倶楽部の議員を含む同盟倶楽部が合流した野党、立憲革新党である。同党は薩長閥に接近する民党、あるいは吏党を脱した勢力らしく、民党以上に民党的な新党(新民党)となった。民党間の連結器の役割も果たそうとしていたようである(佐藤要一『第六議会に対する立憲革新党の報告』8頁によれば、同党は政府不信任の決議案を可決させるため、自由党と交渉した)。

もう1つは、帝国財政革新会である。地租以外の増税に反発し、税負担の公平化を求めて地租増徴を主張するものの、財政改良を唱える、消極財政志向の実業派の政党であった。同党は、富国の基がいまだ整わないにもかかわらず、政府、国会が共にそれを顧みないとし、商政改良、港湾整備、貿易拡大を唱えた。薩長閥と民党の対立と妥協による、地主層偏重(米価高騰により実質的負担が軽くなっている状況下での地租増徴回避)に異論を唱える、実業派野党の登場であった。同党は内地雑居容認であったが、対外硬派に加わる。

 

1列の関係(⑤):自由党も第2次伊藤内閣を批判する上奏案を提出したが、それは解散と、行政整理の遅延に対する批判であった。対外硬派の、列強の国々を相手とする外交に関する批判よりも、伊藤総理らにとって受け止めやすいものであったといえる。このように1列の関係は、自由党系、改進党系の双方が野党的な立場にあっても、継続していた。

 

キャスティングボート(⑤):自由党の上奏案は、政界縦断と矛盾はしない、政府側に和衷協同の貫徹を求めるものであった。民党元来の主張を強く残す議員もいたから、同党が第2次伊藤内閣を全面的に支持するところまで、一気に転換することは難しかった。もちろん、存在感を示して政権参加を実現するために、野党的な姿勢を採る必要もあったと考えられえる。1894年5月30日付の伊藤宛伊東書簡(『伊藤博文関係文書』二286頁)によれば、自由党が野党的な態度を採ることで、立憲革新党(の一部)との提携や合流を策していたようだ。次の通りである。

自由党は愈少数意見として斎藤珪次之摘発事件を議場に持出すに於て、革新党中之四五名を誘入革新党と提携するの画策之為朝来頻に運動致居由、其成否は未得確報候へとも革新党之半数位は多分自由党の招に可応乎と被察候。此際中立連中は不残六派と合同して自由党を打撃せしめ候方可然と存し夫々申合置候。

これが実現へと向かえば、立憲革新党の一部がキャスティングボートを握る可能性もあったが、そのようなことは起こらず、状況が変わることもなかった。