2.キーワードで考える日本政党史

1列の関係(①・議会開設後の吏党系を巡る状況)~国民協会敗北がもたらす変化~

民党同士と比べれば、民党との差異が現れやすい吏党系が、党派間の対決の舞台から事実上降りたこと、それは薩長閥政府が衆議院における民党との対決を完全に放棄して、民党という多数派が決定権を握る衆議院の全体と、つまり行政が立法(二院の一方たる衆議院)と対決する事態を生んだ(二院制であったために、各院が独自の法案を成立させることは困難であった)。その後の、短期間での衆議院の解散がそれを示している。吏党系が対決の舞台を降りたというのは、少し大げさかもしれない。しかし第3回総選挙前に、内閣支持派でありながら内閣に完全に見放され、議席を大幅に減らして第3党に転落したことで、吏党系は衆議院において、2大民党の一方の陣営につかざるをえなくなった。院外で主要な勢力であることはもちろんなく、薩長閥と民党との間の重要なパイプにすらなれなかった(双方をつなごうと動いたことはあった)。こうして、衆議院内における、そして総選挙における共通の敵を失った2大民党(2大野党)は、協力して薩長閥政府に対抗することと共に、互いに対峙することを余儀なくされた。特に当時の選挙制度は、選挙協力をしっかりと行わない限り、2大民党が1つの議席を奪い合うことを運命づける、多数代表制(小選挙区と完全連記の2人区)であった。そのような制度下、3勢力ではなく2勢力が激突することになれば、その2つの勢力が協力関係を築いたり、維持したりすることは難しくなる。だからといって、敵がいないにもかかわらず、ライバル関係にもある2大民党が選挙協力をするというのは、政党の力が示された後では難しかった。以上のことは、個別の選挙区の状況を脇において、全体を見た上でのことであるが、とこかくこうして、元来人物的には溝のあった両党は、衆議院と、その選挙において有力な共通の敵が存在しないという状況下、構造上の対立関係となった。一方で、行政に民党の手が及ばず、衆議院では薩長閥勢力が影響力をさらに弱めていた状況は、政府と民党とが、互いに補完するために結び付くことを可能とした。2大民党と吏党の3党派鼎立下における、民党の一部を切り崩すという手法から、民党と組むという手法へと、薩長閥政府にとって効果的な選択肢が変化したのである。吏党がしぼむ中では、民党の一部を切り崩したとしても、薩長閥政府が衆議院に多数派を形成できない可能性が高いため、民党が、自らが切り崩される心配をそれほどせずに、薩長閥政府と組み、政府側の中心的勢力となることが可能となった。この点で先行したのは、自由党系であった。自由党系にそれを可能とするための意欲と手腕があり(星亨によるところが大きい)、改進党系は議席が少なく、そのことからも、自らの野党的な主張と立場、野党共闘にこだわったためである。