2.キーワードで考える日本政党史

実業派の動き・第3極(①②)~帝国財政革新会と中立実業派の性格~

第4回総選挙では、帝国財政革新会が東京府内の13の選挙区のうち5つの選挙区を制して5議席を得て、衆議院に進出した。府内の12の選挙区のうち、5つを制することは、議席ゼロの野党としては快挙だといえる。帝国財政革新会とは、大蔵官僚出身の実業家であり、東京経済雑誌の創刊者であった田口卯吉らが、第3回総選挙後の1894年3月21日に結成した政党である。同党は貿易の伸張を唱え、これを顧みずに政争をする政府、議会を批判した。また府県監獄費の国庫支弁、戸数割営業税、雑種税、輸出税、菓子税、車税の全廃、郵便料を半額とすること、官設鉄道賃金の引き下げを主張した(塩島仁吉編『鼎軒田口先生傳』166頁)。1895年12月に同党を離脱した伴直之助(無所属となり実業同志倶楽部に参加)以外の全員が進歩党結成に参加するなど、中立的ではなかった帝国財政革新会であるが、地租よりも他の税を軽減することを志向する、都市型の志向を持っていた。自由主義的な政策を明確に示していたことからも、実業家中心の会派よりも実業派らしいといえる勢力であった。また、中心人物であった田口が薩長閥政府に批判的であったこと、貧しい人々の負担が増すことを理由に消費税に否定的であった(『鼎軒田口卯吉全集』第6巻451~452頁)ことなどから、実業家の利益を代弁するだけではない、自由主義の立場から国を良くするという、会派とは異なる、政党らしい理想を持っていたと考えられる。

2つの実業派の会派には、保護主義を志向する議員が少なからずいたと考えられる。それも、実業派としての一つの立場である。問題は、政策を明確にしていたかどうかである。政党ではなかった2会派は、特に全体としては、政策が明確ではなかった。実業団体と大手倶楽部は、それぞれ第2次伊藤内閣寄り、対外硬派の一角としての立場を重視していたために、実業家中心の会派としての、独自の主張に基づいた動きをほとんど見せていないのだ。実業団体の議員が提出した法律案としては、銀行条例改正法律案(第8回帝国議会において小坂善之助らが提出して成立)、私設鉄道条例改正法律案(第8回帝国議会において望月右内が提出して成立)があり、第5回帝国議会にも当時の実業団体の中澤彦吉が酒造税則附則中改正法律案(衆議院で審議未了に)を提出しており、支持者の利益を代弁してはいるが、同様の事は既成政党の実業家の議員もしており、実業団体の議員が議論をリードすることも、多くはなかったといえる。何より、これらの法律案は、その内容については割愛するが、内閣に対して主体的に、その路線を改めさせるような性質のものではなかった。

大手倶楽部には、実業家として内閣の外交に反対した議員がいた。しかし彼等は、利害が異なる実業家以外の対外硬派の議員達とも共闘しており、実業家の利害を代弁する役割は、内地雑居反対等、条約改正に関わる事象に限られていたという面がある(代弁したのはあくまでも一部の実業家の意見、利害である)。

中立の実業派には、他の勢力と深く関わることを避けようとする傾向が見られるのだが、そのような議員達にとって、政府寄りの中立という立場は都合の良いものであった。そして政府寄りの中立派にとって、変化を見せ始めた自由党を一方の主役とする政界縦断を容認することは、自らが一部の勢力のみに寄らないためには、有効であったといえる。これには、縦断的な動きの外の勢力を敵に回すリスク、地主層に配慮した妥協を認めるというリスクがあったわけだが、変化を見せ始めてからの自由党は、実業家の支持を得ることに積極的であることが多かった(伊藤之雄「自由党・政友会系基盤の変容―和歌山県を事例に―」-『近代日本の生津と官僚』-221、252頁)。いずれ、地主層偏重の傾向が弱まっていくことに、全く期待が出来ないわけではなかった。

野党寄りの中立という立場もあり得たし、第3回総選挙後の独立倶楽部、湖月派はそのような面を持っていた。しかし、野党は再編に積極的であり、その周辺において中立的であることは、薩長閥寄りの中立という立場を採ることよりも難しかったといえる。

進歩党結成の過程からは、実業団体、大手倶楽部の双方の議員達の多くが、既成政党への参加、または既成政党との合流に否定的であったことが分かる。実業家の議員達が薩長閥政府と対立しようとしなかったことは、当時の報道等から窺うことができる。大手倶楽部は確かに野党側の会派であったが、日清開戦後に結成され、挙国一致的な風潮しか経験していなかったから、戦後、そして条約改正が実現した後、明確に野党となることを回避しようとする議員が多くいたとしても、不思議ではない。政党と合流することは、彼らが嫌っていた不自由な立場に陥ることであると同時に、明確な野党となることがあるというリスクを引き受けることでもあった。

一方で帝国財政革新会(系)、特にその中心となった田口卯吉は、独自の主張を積極的に展開し続けた。同時に、軍事を中心として積極財政を志向する薩長閥に対抗するためには、自らと差異のある既成政党と、合流をいとわないレベルで協力関係を構築することが必要だということを認めていたといえる。帝国財政革新会は、田口の考えから察するに、陸軍の軍拡に反対であった。実業家達は当時、税制や経済政策において軍拡の犠牲になることを懸念していた。しかしそれを受けて明確に軍拡批判を行った衆議院の勢力はなかった。また同様に帝国財政革新会は、対外硬派とは反対に内地雑居に賛成であり、やはり本来は内地雑居に反対でなかった立憲改進党とは逆に、地租以外の増税ではなく、地租の増徴を志向していた。帝国財政革新会は、政費節減、関税自主権の回復を目指し(自由貿易論者であった田口は、輸入税増徴は望まないものの、当然ながら関税自主権の回復は求めていた―塩島仁吉編『鼎軒田口先生傳』89頁―)、同じ消極財政志向、反薩長閥政府の立憲改進党等と共闘した。つまり対外硬派の戦列に加わった。同党は衆議院進出以前の1894年6月、対外政略に関して次のことを決議している(1894年6月6日付読売新聞)。

一此問題ハ財政革新會の目的以外に属すと雖も今日の時勢に於て其意見を發表するの必要を見る

二本會員ハ對外軟の意見を有する者一人も無く從つて藩閥内閣の外交政畧を攻撃したるに就てハ却て非内地雑居論者よりも先なるを以て對外政畧に就てハ強硬主義を執る事をここに表白す

帝国財政革新会が国民協会に輸出税全廃案等の提出への賛成を求めたのは実業団体が結成される前であるため、萬朝報の記事の「中立議員」とは、実業団体の結成に参加する者を含めた無所属議員33名の全部、あるいは大部分だということになる。帝国財政革新会には、本来積極財政志向であった国民協会との間に、政策上の大きな隔たりがあった。それを考えると、帝国財政革新会が中立派を評価していなかったことがよく分かる。実業団体、そして対外硬派として連携した大手倶楽部についても、評価していなかったと思われる。だから帝国財政革新会は、実業家中心の会派よりも、既成政党との再編による政策実現を策して、立憲改進党等と合流したのである。よって実業家中心の中立会派の再編には、政府を問責することに反対して同党を脱した(1896年1月10日付東京朝日新聞)伴直之助以外は関わっていない。帝国財政革新会が、対外強硬派の連携を重視して、差異のある国民協会と組んだのではなく、輸出税全廃という、実業派らしい政策の実現のために組んだのだということには、注意しておく必要がある。同党は民党的な思考も持ちながら、税制については民党と明確に異なるという、新しいタイプの野党であった。実業団体が薩長閥の民党への譲歩に抗えなかった(抗わなかった)ように、税制について民党に譲歩を迫られる可能性はあった。しかし減税は基本的には、消極財政を前提とする。政費節減を要求することは帝国財政革新会の志向と一致する。衆議院で多数派になれば政策を実現させられるという時代ではまだなかったし、同党が少数派であったことには変わりはなかった。しかし帝国財政革新会は、薩長閥政府に気兼ねをせず、対外硬派の非現実的な主張に収まるのでもない、実業派の新たな道を示したのだと評価したい。

1894年4月25日付の読売新聞に、板東勘五郎(地価修正派)が大阪の農民協会の発会式で帝国財政革新会を攻撃し、田口が地価修正派の説を駁したと記されている。田口は地租増徴を唱えるだけではなく、地価修正にも反対であり、実業家と地価修正派の連合体であった山下倶楽部(第6章③参照)に参加していない(進歩党を離党して同志会-本章⑬参照-を結成するが、同派はすぐに消滅し、第6回総選挙後に日吉倶楽部に加入するまでは無所属)。板東の地価修正の先決動議(第5章⑦参照)にも反対票を投じている(歳出の前に歳入を論じるべきでないという立場―『鼎軒田口卯吉全集』第5巻432頁―から、地租増徴案にも反対票を投じている)。彼は自らの消極財政志向を優先し、進歩党を離党してから日が浅かったにもかかわらず、中立派とは一線を画し、2大民党の合流による憲政党の結成に参加する時を待つのである。山下倶楽部が認めていたといえる、地価修正を前提とした地租増徴をも認めない諸勢力の合流に、身を投じるのである。