日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第3極・実業派の動き(①②⑯)~実業派の拡大~

第3極・実業派の動き(①②⑯)~実業派の拡大~

大手倶楽部は25名で結成された。実業団体は17名で結成された後、28名にまで増えた(29議席の時があった可能性もある)。立憲改進党、立憲革新党、国民協会、大手倶楽部、帝国財政革新会、中国進歩党の対外硬派は衆議院の過半数を上回っていた。しかし挙国一致的な風潮の下では、このことは第2次伊藤内閣にとって、さしあたっては大きな問題ではなかった。当時の勢力分野において注目すべき点は、むしろ、実業家中心の2会派を合わせた議席の多さではないだろうか。1895年12月28日の第9回帝国議会開院式当日の両会派の合計は、52議席であった。これに1名が離脱した帝国財政革新会の4議席を加えれば56となる。第2回総選挙後の実業団体は7議席、第3回総選挙後の中立3会派の合計は29議席であった。実業家中心の勢力は、総選挙の度毎に、大幅に増えていたのである。

実業家中心の勢力の議席数が増えた背景には、2大民党が有権者の多数派であった地主層を支持基盤としていたこと、薩長閥政府が、予算案や法律案の衆議院通過に対する協力を得るために、民党に譲歩せざるを得なかったことがあると思われる。だが、そのような背景があることを明確に見て取ることができるのは、帝国財政革新会のみである。他の、2会派については、伊藤系等と対外硬派の勢力拡大競争の結果、比較的大きな勢力になったという面の方が目立っている。

仲間を衆議院に送り込むこと自体は、薩長閥と民党の対立が出口を見せていなかった第1回総選挙後にすでに、実業家達の間で課題となっていた(1892年1月5日付東京朝日新聞)。また、第2章で紹介した中澤彦吉(実業団体)の第5回帝国議会の報告は、衆議院が実業家に冷淡であることを嘆いている。実業家中心の会派の議席数を増やすこととなった第3回総選挙は、この第5回帝国議会における衆議院の解散によって、行われた。

異なる状況下においても、2大民党の議席数が激減することがないという、この当時までの経験は、2大民党の少なくとも一方の協力がなければ、自らの政策が満足には実行され得ないことを薩長閥に悟らせた(山県有朋ですら、自身の第2次内閣が成立する際、自由党系を入閣させる方針を採った―『桂太郎自伝』203頁。ただし党を離れることが前提とはなっていた―)。このことは政界縦断の歩みを進め、実業家に対応を迫ったのだといえる(実業団体が肯定的、大手倶楽部が否定的であったと考えられるが、それは政権の中心を、薩長閥内のどの勢力が担うかによっても、そしてその連携相手が2大民党のどちらであるかによっても変わり得るものであったと想像される)。

さらに、日清戦争が日本の財政規模を大幅に拡大させた。このため、税制等について、実業家層が不利な扱いを受ける可能性が高まった。第2次伊藤内閣は実際に、衆議院の過半数を上回る民党が認めない、つまり衆議院を通過し得ない地租増徴を避けて、他の、幅広い増税を選択した。ただしそれでも、その増税の中で実業家の反発が強かった営業税国税化について、反対運動に積極的に関わった既成政党以外の実業派衆議院議員を筆者が探した限り、田口くらいしか見当たらない。

 

 

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