2.キーワードで考える日本政党史

2大民党制・実業派の動き(②他)~帝国財政革新会と民党~

進歩党内の対立の原因には当然、旧党派間の政策の差異もある。以前の立憲改進党の党報において、新潟県の室孝次郎が、帝国財政革新会を批判している(第二八号4~11、二九号21頁)。実際双方は合流後に第5回選挙を待たず決裂している―本章⑬の田口らの離党―)。それは帝国財政革新会の政策(本章実業派の動き(①②)参照)が、商工業者を保護するもので、地租軽減、地価修正を妨害するというものであった。地租負担の軽減が、地主の負担軽減にしかならないという田口らの主張については、小作料を引き下げる策を採ればよいという立場であった。改進党系は自由党系と比べれば都市型の性格が強かったが、地主層の上に乗る大政党であることに変わりはなかった。

薩長閥政府への挑戦者として誕生した2大民党は当初は政党としての組織化の途上にあり、一体性に乏しかった上に、その主張には、薩長閥政府に対してどのような立場を採るか、攻撃する場合にどの手段が有効であるかによって、変化が起こった。2大民党の立場が入れ替わった条約改正に対する姿勢もそうだが、財政についても同様であった。大隈は外債募集を唱えていたものの政府には受け入れらなかった。そして自身が閣僚となった松方内閣期、反対していた金本位制を受け入れ、その導入が実現した後は消極財政志向を強めた。これに対し積極財政へシフトした自由党は、外債募集に積極的になった。日清戦争勝利という大きな出来事を挟んでの変化でもあるが、双方が同じ方向に変化したわけではないのである。一方で中立実業派は無色であった。それに対して小党であった帝国財政革新会のみが明確であったと言える。

また、2大民党は当時まだ、地租について、少なくとも政府のポストや地価修正といった見返りがない限り、つまり政治を担う当事者として積極的には、負担の維持、増加に賛成することができなかった。地租軽減回避(→地租増徴)の薩長閥政府、それを支える国民協会と、帝国財政革新会には一致する部分もあったが、帝国財政革新会は積極財政志向の薩長閥には到底歩み寄れなかった(二度の純化によって薩長閥政府の積極財政志向への順応性を高めた吏党系についても同様であった)。以上から、本来の差異は、既成の勢力と、帝国財政革新会という真の実業派の間にあったのは明確であったが、後者はわずかな勢力であり、勢力間のバランスはあまりに悪かった。このため帝国財政革新会は、消極財政志向、対外強硬姿勢について大まかには一致し得る、改進党系と合流せざるを得なかったのだと言える。