2.キーワードで考える日本政党史

(準)与党の不振(④⑥⑦⑨⑩)~国民協会の難しい課題~

国民協会には、2つの課題があった。1つは野党的な立場を採るのか、伊藤系以外の薩長閥を支持するという点で準与党、少なくとも準野党(中立)的な立場を採るのかということであった。もう1つは、衆議院において少数派の地位に甘んじるのかどうかということであった。国民協会は当時、政党になっていた。政党は本来、政権を目指し、衆議院で多数派となることを目指す性質のものであった。

当時の日本は議院内閣制ではなかったので、政権獲得と衆議院における多数派形成とは、必ずしも同一ではなかった。政権を目指すということについては、山県系が政権の中枢にあれば、矛盾はなかった。与党とはなれないものの、衆議院における政府支持派の中心となり得たからである。問題となるのはこの当時のように、そうでない場合であった。山県は、政権の中枢にあろうがなかろうが、与党であったともいえる薩長閥の要人であり、山県系の官僚、軍人も政権の構成要素ではあった。しかし薩長閥に公認されていたわけでも、政府に職を得ていたわけでもない国民協会の衆議院議員達は、そうではなかった。山県系が中心でない薩長閥政府の下では、彼らは状況を好転させる有効な手段も持たない、孤立した少数野党、あるいは、薩長閥の政権であればどんなものであってもついていく、存在の軽い準与党となってしまうのである。

しかし、たとえ山県系が政権の中心であったとしても、国民協会が衆議院で少数派であることは変わらない。それにただ耐えるのか、衆議院での多数派を目指すのかということも、問題であった。多数派を目指すのであれば、総選挙でそれを実現するのは難しい状況であったから、民党と連携しなければならない。野党色が強かった改進党系と連携することは、自由党系との対抗上は有意義であったが、山県系も含めた薩長閥政府全体と対立することにつながる危険があった。自由党系と連携することも、時に協力するという程度であれば別だが、当時の山県系としての立場とは異なり、また、政府支持派として自由党の劣位に甘んじる場面に遭遇し得ることを意味した。衆議院における多数派形成は、その在り方によっては薩長閥政府を助けることにもなるが、山県系は薩長閥の政権の安定と、政党の排除という矛盾する志向を持ち続けており、国民協会はそのしわ寄せを受けながら、山県系に追従するしかない、厳しい状況にあった。

このような課題について結論を出すことができず、国民協会は、山県系が政権の中枢にない不利な状況下、迷走するのである。急には取り下げられない、党内国権派主導の対外硬派としての姿勢は、山県系からの圧力によって萎んだ。自らが提出した決議案を撤回できず、撤回を許さなかった自由党と共に、それに反対したことは、彼らを、第3回総選挙で激減した議席数に見合うような、長州閥と自由党の連携を補完するに過ぎない勢力に転落させた。自由党は議席数の上でも、また、薩長閥政府と渡り合ってきた点でも、薩長閥にとって、国民協会よりもはるかに重要視すべき政党であった。

第2次山県内閣の成立がなかなか実現しない状況は、国民協会の逆境からの脱出を許さなかった。もちろん、彼らを救い出すために、山県が総理への就任を自ら買って出るというようなことはなかった。そして、薩摩閥と進歩党による第2次松方内閣の成立は、国民協会を更なる苦境に追い込んだ。長州閥山県系主導ではない内閣、進歩党と提携した内閣を、薩長閥主導の内閣ではあることから支持するのか、ということが問われたからである。頼みの山県系は、進歩党との提携には否定的であり、閣内で争うこともあったが、衆議院においてその立場に準ずることは、無力な少数派として孤立することを意味した。キャスティングボートを握れば話は別なのだが、進歩党と、他の会派、無所属の第2次松方内閣寄りの議員達の合計は過半数を上回っていると見られ、それもなかなか難しい状況であった。

衆議院議長選挙に際して、国民協会は、第2次伊藤内閣期に共に内閣の側にあった自由党と連携した。しかし今度は野党連携に近いものであった。さらに、同党が当初対外強硬派の立場から対立してきた政党との、連携でもあった。党内が動揺しないはずはなく、九州選出議員の一部などを、政権の中心にある薩摩閥に切り崩されるのを、防ぐことができなかった(ただし切り崩された7名のうち2名は、自由党から国民協会に移って日の浅い、愛知県選出の議員であった)。

分裂は、長州閥に近い議員、薩摩閥に近い議員などの寄せ集めであった国民協会の、宿命であったともいえる。しかしそれは、後ろ向きの解決策ですらなかった。親薩摩閥の議員達が抜けた国民協会は、山県系により近くなりながら、山県系とは相いれないはずの民党、自由党とも接近した。この点で小さくない矛盾が残っていたからだ。この矛盾が解消されるには、山県系と自由党が連携することが必要であったが、山県系の性質上、それは困難であった。山県系との断絶を覚悟して動くことも、後ろ盾を完全に失う危険性があり、もちろん国民協会の性質上も、非常に困難であった。進歩党、議員倶楽部、実業同志倶楽部が内閣寄りであったため、自由党と組んでも衆議院の多数派となれるかは不透明であっても、さらに議長選挙における連携にすら失敗しても、衆議院の最大勢力であった自由党と組むことが、国民協会が活路を見出す唯一の道であり、選ばれるべくして選ばれた路線であったといえる。山県系の志向とは矛盾するが、自由党の政権入りを積極的に支持し、自由党内閣の実現を支持するのでなければ。山県系が否定できない「グレーゾーン」である。これは結局、山県系にとっても、国民協会自体にとっても好都合であり、衆議院の過半数を超えていない自由党系にとっても、とりあえずの連携相手を得るという点では、好都合であった。