日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1列の関係・群雄割拠(⑥⑦)~自由党の派閥の姿勢~

1列の関係・群雄割拠(⑥⑦)~自由党の派閥の姿勢~

自由党には星亨(関東派)、林有造(土佐派)、河野広中(東北派)と、長州閥伊藤系に対する3つの窓口があった(九州派の松田正久は薩摩閥と近かったが、陸奥を党首に迎えようとするなど、伊藤自身は陸奥の自由党総理就任などには否定的であっただろうとはいえ―伊藤之雄『伊藤博文 近代日本を創った男』384頁―とはいえ、伊藤系との接近と無縁であったというわけではない)。彼らは政界縦断について協力関係にあると同時に、それを自らの手で進めようとする、ライバル関係にもあった。政界縦断を失敗せずに進めることが、党内外での影響力の拡大につながったからである。このような競合は、自由党の有力者達の政局に関する判断と、自由党の派閥(旧党派)連合体という側面とが結びついて起こったといえ、同党の活力となっていた。薩長閥に接近することに対する反発もあったが、それは主に非主流派の不満と結びついており、全党的なものとはなりにくかった。第2次伊藤内閣におけるポストを、星の駐米公使を別とすれば土佐派が得る(板垣を補佐する地位なので不自然なことではなかったが)など、同派が優勢にあったことで、関東派、東北派、九州派が、伊藤系との提携の成果が上がるのかを、厳しい目で注視していた。しかし提携が土佐派だけの構想であったわけではなかったため、彼らが路線変更に追い込まれることはなく、離党者は出ても、党勢が衰えるには至らなかった。河野広中が提携反対に転じることで、東北における基盤は弱体化し、また土佐派と九州派の路線争いも起こるが、波乱の中でも、自由党は党勢を維持して政界縦断に進んでいくのである(伊藤之雄氏は東北地方が日本における産業革命の進展の面で遅れていたことから、積極政策に他の地域よりも関心が低かったとしている-『立憲国家の確立と伊藤博文』184頁-。このことと東北地方で再編等により改進党系が強くなったこととは、相関関係があるのだろう)。

改進党系は、この点でまったく異なっていた。改進党系は野党色が強く、事実上の指導者たる大隈の下に、ある意味で一元化されていたからである。たしかに有力者間、旧党派間に対抗意識はあったが、それは当時まではまだ、大隈の下位における、いわば自由党よりも低次元の対立であったといえる。そして進歩党の対薩長閥接近も、同党と近かった三菱の岩崎弥之助の働きかけによるところが大きく、大隈と岩崎の意向を受けて、その下の要人が動いたという面が強い(坂野潤治『明治憲法体制の確立』153頁)。大隈が薩長閥と連携する意欲を失う場合、別の要人がこれを進めるということは考えにくかった。そして、薩長閥への接近に対する不満は、党の執行部の外(下)から広く起こった。自由党系と改進党系のこのような違いは、一列の関係の出現と、その維持に貢献したといえる。

自由党系の各派の姿勢を整理すると、伊藤系との連携を志向する土佐派(第2次伊藤内閣総辞職で力を弱めるも、第2次松方内閣総辞職末期より回復させていった。ただし片岡健吉と林有造の対立があった―第8章参照―)、薩摩閥との提携によって力を自らの強め、土佐派を抑えようとした九州派、やはり土佐派に対抗するために薩摩閥と組もうとしたが、本来は長州閥との着実な成果一縦断を志向する星の関東派(陸奥と近かったが、すでに述べたように力を弱めていた)、そして他の派閥が否定的、もしくは消極的な2大民党の連携に活路を見出そうとしていた河野の東北派(自由党の東北地方における力自体が分裂によって弱まっており、振るわない状況であった)といったところである。

 

 

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