2.キーワードで考える日本政党史

(準)与党の不振・野党に対する懐柔、切崩し(⑤⑪⑫⑭)~薩摩閥の失敗と公同会の不振~

衆議院に独自の支持基盤をほとんど持たなかった薩摩閥は、内閣の中心となったことで、自由党、国民協会から自らの支持派を引き抜き、それらを議員倶楽部(自由党を離党した親薩摩派を含む)と、まとめることに成功した。この間(1896年12月)、議員倶楽部は拡大、再結成されていた。

親薩摩閥系がまとまった公同会は、親薩摩閥新党を目指した動きの、一定の成果であった。しかしその構想が進歩党を刺激し、政権を離脱される要因となったという指摘がある(前田蓮山『政變物語』326-327頁、同『歴代内閣物語』上巻100頁)。実際に薩摩閥新党構想には、進歩党を牽制する狙いはあったと考えられ(前田蓮山『政變物語』326-327頁)、進歩党内の不平派(大竹貫一-国権派-、金尾稜厳、竹内正志や、同志会を結成する鈴木遠重、田口卯吉)を取り込む意図もあった(佐々木隆「第二次松方内閣の瓦解(下)」119頁)。進歩党に対する牽制が行き過ぎて、同党に政権を離脱されてしまったという面もあるのである。

薩摩閥という一派が糸を引く勢力に参加する実業派は少ないということを、見誤ったのも失敗であった。それでも、仮に実業派の会派が合流していれば、親薩摩閥の党派は進歩党を上回る勢力となっていたのだから、薩摩閥は成功の見込みが薄い多数派工作によって、進歩党をいたずらに刺激したということになる。

公同会の結成は、薩長閥が自ら政府党を結成するという、それまで薩長閥政府が躊躇していた手法であった。政府党を結成しても、それが早期に2大民党の合計議席を上回るのは、相変わらず難しい状況であった(しかも公同会には、吏党系の本流を汲む国民協会が加わり得なかった―理由は薩摩閥の色が強かったため、また切り崩しを受けたため―)。そうであれば、2大民党の一角を切り崩すか、2党を分断して、一方を政府党と連携させる以外になかった。一定規模の政府党が結成されて3党鼎立状況となれば、対立感情のある2大民党が互いに、相手が政府党と連携して、衆議院の過半数を上回るような(準)与党の一角に食い込むことを警戒し、先に政府党と連携しようとする可能性が高まる。金子堅太郎は大日本帝国憲法発布当時、そのようなことを考えていたといえる(金子堅太郎『憲法制定と欧米人の評論』173~175頁)。またその時は金子に否定的であったと見える伊藤博文も、その際に否定した政府党の結成に、自ら乗り出した。それは民党の切り崩し、または2大民党の一方の抱き込みを念頭に置いたものであったと考えられる。そうでなければ衆議院の過半数を制することは、現実的には難しかったからである。政府党結成に否定的であった山県も、政府支持勢力に、2大民党を分断する役割を期待していたといわれている。ただし政府支持勢力が会派レベルに留まるなどしてまとまりが弱い場合、その機能を果たすのは難しい(第13章で見る新政会の例がそうである)。なお、伊藤系、山県系、薩摩閥が3党鼎立構想で合意し得る状況であったようにも見えるが、伊藤系はすでに、自由、進歩両党と組むことで、そのどちらか一方の要求を抑えることを考えていた。憲政の仕方を変えたわけだが、1列の関係に変化を起こすことはできず、自らとの連携により積極的であった自由党系との政界縦断に進むことになるわけである(改進党系は伊藤系と自由党系の接近に反発するか、対抗して薩摩閥と接近した)。

話しを戻すと、公同会結成当時は、進歩党が味方、自由党が敵になっていたため、第2次松方内閣が民党の分断を図る必要はなかった。進歩党、公同会、他の中立派、無所属議員によって、内閣の安定的な基盤を形成するよう努めれば良かったのである。しかし公同会と、それに参加した諸会派の形成過程において、2大民党と吏党系から参加者を得た、あるいは得ようとしたことで、衆議院の第1~3党の反発を招いた。

この点について言えば、薩摩閥は、進歩党を満足させる努力をしていなかったわけではないが、大隈と進歩党に、多数派形成をしなければならないのだという、当事者意識を持たせることが不足していたといえる(民党はまだまだ、政権の客分に過ぎなかった)。公同会が進歩党と肩を並べるような大きな勢力とはならなかったこともあってか、進歩党と会派に留まった公同会とは、当初決して悪い関係ではなかった。だから、公同会の結成時、薩摩閥が進歩党と良い関係を築いていれば、進歩党、公同会等による、安定的な政府支持勢力が形成されていた可能性もあったのだと考えられる(公同会が進歩党との主導権争いに乗り出そうと考えるほど、大隈を事実上頂く進歩党の影響力は、弱くなかったはずだ)。

長州閥伊藤系と自由党の提携は、中立性を兼ね備えるパイプを通じた漸進的な接近、一定の信頼関係の構築によってもたらされた成果であった。また国民協会は、薩摩閥によって結成されたと言える公同会とは異なり、薩長閥とのつながりにあまり頼れなかったことから、衆議院の多数派に、独自に接近せざるを得なかった。その結果、薩長閥政府と自由党系との連携を支持するか、自ら模索するようになっていく。第2次山県内閣と自由党系の提携、国民協会の一部が与した長州閥伊藤系と自由党系との合流が、後に実現する(第6章⑬参照-立憲政友会結成-)。長州閥山県系となった国民協会の系譜は、不振、分裂に苦しみながらその後も、一定の結束を維持し、再編に身を投じることはできた。

一方薩摩閥は、進歩党員を、党籍を残したまま政府のポストに就けたように、比較的急ごしらえであったにもかかわらず、踏み込んだ提携をし、薩摩閥と進歩党、その双方のメンバーにストレスを与えた。そしてそのストレスが弱まらないうちに、各勢力を切り崩すという、根回しの不足した、強引な方法で政府支持会派、つまり公同会を結成させた。これは公同会という会派を、一体性を保てない脆い存在にした。

公同会の結成に関する具体的な問題点を確認する。まずは公同会に参加した諸会派が、薩摩閥内の異なる人物の影響下にあり、またそもそも、対抗関係にあった諸政党の出身であったことから、決して近い関係とはなっていなかったことである(内部の不統一は国民協会よりも深刻であったと言える)。議員倶楽部系は、公同会結成に動いた高嶋鞆之助陸軍大臣の影響会にあり、国民倶楽部と新自由党は、樺山資紀内務大臣の影響下にあった(佐々木隆「第二次松方内閣の瓦解(下)」116~117頁)。親薩摩閥の勢力は、かつての吏党と同様の壁にぶつかったのである。次に、やはり以前の吏党と同様に、薩摩閥中心の政府が、公同会(に参加した緒会派)を軽視したことである。公同会の議員達は政府内にポストを得ることを期待していたようであるが、ほとんど叶えられることはなかった(1897年11月4日付の萬朝報に次のようにある。「公同會ハ既に内閣の意向排隈に決定し、大隈も遂に辭職すべき事を確知したれバ、進歩黨の跡釜に据わらんとの大願成就ハ最早疑なしとて、昨今會員喜悦一方ならずと定めて知事や参事官乃至局長に任ぜられて、意気揚々たる態を夢見る者もあるべし」同11日付によれば、公同会の重野、田村、西村らが任官の内約を得ていたものの、実現していないことから不満を持ったのだという。3者は新自由党系であった。このうち重野と田村は、第2次松方内閣に比較的好意的な新自由党の、事実上野党となった公同会からの離脱には同調していない)。議員倶楽部系より登用が少なかった国民倶楽部、自由倶楽部の不満は特に強かった(佐々木隆「第二次松方内閣の瓦解(下)」129頁)。また、第2次伊藤内閣期に就任した新自由党の石坂昌孝群馬県知事が(薩摩閥が、彼らを切り崩す際には、永久知事とすることも考えたにもかかわらず(乾照夫「日清戦争後の神奈川県自由党」340頁)、元国民協会衆議院議員の古荘嘉門と交代となり(1898年4月)、同時に、自由党を脱した新自由党寄りの石田貫之助(愛国公党系だが、第1回帝国議会での造反―第1章⑥参照―に加わらないなど、土佐派と一線を画していた-伊藤之雄「日清戦後の自由党の改革と星亨」4~5頁-)が富山県知事となったが、新自由党自体は、他の(準)与党が知事のポストを得る中で、これを失った。

大隈と公同会所属議員達の格の差を考えれば当然のことではあるものの、進歩党が閣僚ポストを事実上獲得し、(まだ)親薩摩閥の勢力であった公同会(に参加する会派)が獲得できないという逆転現象もあった(政府支持派による党派は、政府を支持することが当然であるため、支持を得るためのエサ、協力の証としても要職を得にくい)。

元国民自由党の綾井武夫、そして元大手倶楽部の末吉忠晴は、公同会を綱領を持つ政党として結成することに積極的であったが、反対も多く、実現しなかった(佐々木隆「第二次松方内閣の瓦解(下)」118頁)。政党化の是非は、協同倶楽部、国民協会の結成時にも課題となり、実現しなかったという経緯があった(国民協会は変則的に実現)。それまでの薩長閥支持勢力と異なる形成過程を経た公同会も、やはりそれらと同様の問題を抱えていたのである。薩長閥に一体性がない中で、次の政権を担う可能性が高いと見られていた、つまり政党を引き付ける魅力のあった長州閥伊藤系の存在も、薩摩閥の支持勢力の安定的な存続にとって不利なものであった。伊藤への期待は確実に状況を流動化させた。それにより第2次松方内閣は求心力をさらに失ったのである。そして進歩党の下野、自由党との提携の不成立によって、第2次松方内閣の衆議院における過半数の支持基盤の形勢が不可能となったことで、親薩摩閥勢力が形成された意義も失われた。

また、新自由党は星の影響下にあり、自由党が星を入閣させて与党となる可能性が一時期あったことから、自由党を脱した意味が薄まった。国民倶楽部も同様に、彼らの当選に大きな役割を果たした品川弥二郎が入閣することで、国民協会が与党となる可能性が高まり、同党を脱した意味が薄まった(佐々木隆「第二次松方内閣の瓦解 (上)」149頁。薩長両閥の協力を志向する国民協会の望む状況ではなく、品川は辞退した)。公同会内の各党派を動揺させ、互いの距離をより大きく広げた原因は、以前切り崩した政党に入閣を求めざるをえなかった、第2次松方内閣の窮状にもあったのである。そしてその窮状は、進歩党の政権離脱を許したことによってもたらされたという面が大きい。

このように、政権の中心であった薩摩閥が政権を安定させられなかったことも、公同会の動揺を招いたのである。やはり反発を招くような手法を採らず、進歩党との協力体制を確固たるものにして、漸進的に多数派形成を進めることが必要であったのだということに尽きる。確かに難しいことではあったが、反対勢力が過半数を超えてはいなかったことなどから、漸進的に進めるだけの余裕はあったように思われる。

最後に、公同会と進歩党の奇妙な一致について考えたい。双方は共に行財政改革を唱えていたのである。松方も健全な財政を心がけていたが、日清戦争後は上述した通り、財政が急速に拡大し、節減の面はかすんでいた。野党の自由党も積極財政志向を強める中で、(準)与党の2党派が野党的な主張をしたのである(ただし公同会は内部で一致していたわけではなかった)。これは、第2次松方内閣が不振となる中で、双方が、説得力、存在感を得ようとしたためだといえる(進歩党は本来の主張をしたのだといえる。かつて大成会も政費節減を唱えており、公同会が進歩党と同様の主張をしても、驚くべきことではない)。ここにも、進歩党、公同会が、政見の客分に過ぎなかったことが影響していると言えよう。