2.キーワードで考える日本政党史

(準)与党の不振・第3極(⑩⑫⑭⑮)~公同会の性質~

衆議院議長選挙では、国民協会を除く第3極の多くが鳩山に投じたと考えられる。それは彼らが進歩党と近かったというよりも、進歩党が与党第1党であったからであろう。公同会の結成は、政策による再編とはいえない。薩長閥への接近の限界を自由党離党の理由に挙げ、2大民党の連携を唱える、つまり薩長閥政府とは本来相容れない河野広中の東北同盟会や、進歩党の不平派の参加が当初期待されていたことからも分かるように、ただ単に既成政党の不満分子を足して第2次松方内閣の味方の数を増やそうという動きであった。実際に公同会を結成した勢力を見ても、自由党の一部の主導による長州閥との妥協に反発した勢力、自由党内で不振に陥った関東派の一部、立憲革新党内で解散を避けるためなどに軟化した勢力、大手倶楽部の立憲改進党との合流のために政党所属となることを避けようとした勢力、野党化や自由党との連携に不満のあった国民協会の一部と、離党するに至った経緯もばらばらであった。つまり公同会の結成は、そもそも差異に乏しかった2大民党制を、同様の3大政党制とするだけの動きであった。ただし、一定数の議席を持つ国民協会と実業同志倶楽部が残ったし、衆議院が3党派に整理されたとも言い難かった。

公同会は、参加した勢力を見ても、全体的に見ても、独自の理念、ビジョンに欠けていた(大井系―新井章吾―と、長州閥伊藤系への接近に異を唱えた自由党離党者ですら、松方らが進歩党に歩み寄ったとはいえ、薩摩閥に寄ったことで、矛盾を抱える面があった)。また、薩摩閥主導の内閣となってからは、権力に寄る動きによって形成が進んだことから、薩摩閥の力が衰えれば、一体性を保つのが難しくなるのは当然であった。真の意味で親薩摩閥であったのは、鹿児島県選出の議員など、わずかであったといえる。

独自の存在意義をさして持っていなかった公同会が、再編の中で少しでも有利となるには、近い勢力と組むしかなかった。しかし、公同会の議員達の大部分は彼らの仲間達と決別しており、良好な関係を築き得る党派を見つけるのは難しい状況であった(公同会には、対外硬派を脱した者が多く含まれていたが、結成後の進歩党、その中心となった立憲改進党を離党した議員が含まれていなかったため、進歩党との連携は、比較的容易であったのかも知れない。しかし進歩党との連携に批判的な議員がいたため、挫折に至った)。そうである以上、公同会には親薩摩閥を貫いて、可能であれば九州の勢力を中心に、もう少し議員を集めて、存続するという道しかなかった。だが、第2次松方内閣の末期にこそ、自由党の九州派との連携が期待できたものの、その後は、九州系の連携すら難航するのである(進歩党からの政権離脱反対派の離党も、鹿児島県選出の3名に留まった)。

以上のような状況下、鹿児島県では吏党系と民党系が融合し、鹿児島政友会が結成された。同党は薩摩閥主導の第2次松方内閣が倒れ、長州閥主導の第2次伊藤内閣が誕生したことから野党的な立場を採り、2大民党等の合流を目指していた河野広中の東北同盟会と組んで、民党合流に与することとなる。こうなると、公同会の存在意義はますますなくなっていった。親薩摩閥の中心は、公同会ではなく鹿児島政友会になったし、親薩摩閥を貫いては、それまでの経緯からも、孤立した少数野党になる可能性が高かった。