2.キーワードで考える日本政党史

第3極・キャスティングボート・(準)与党の不振(②④⑤⑧⑩)~薩長閥に切り分けられた吏党系の諸勢力~

自由、進歩両党が共に過半数に50議席程度及ばない状況下、国民協会(1896年3月の第9回帝国議会会期終了日30議席)、実業団体(同24議席)、議員倶楽部(同18議席)が、それぞれキャスティングボートの一角を握った。議員倶楽部は結成時自らを中立硬派としたが、第2次伊藤内閣の野党であったものが、第2次松方内閣の準与党となった根拠は見えなかった(1896年2月21日付の読売新聞が会派結成の動きを伝え、記事が伝える参加者等から、それが議員倶楽部の結成となったことがわかる。「対外硬の主義を執」る勢力だとされている。会派の結成は同22日付で、確認できるが、記事では名称が中立議員倶楽部とされている)。議員倶楽部は、全体としては対外強硬派として動いていた「対外硬の主義を執り」とあるとはいえないし(時期の問題もあるが)、野党という意味での硬派でもなくなった。国民協会が自由党と共に第2次伊藤内閣側に事実上組み込まれたことで、同内閣期、実業団体等と合わせて政府支持勢力が、衆議院の過半数を上回った。第2次松方内閣期になると、進歩党と議員倶楽部、実業派(実業同志倶楽部を結成)、他の無所属の政府寄りの議員達の合計は、過半数を上回った(しかし確かな支持勢力となると、過半数に達しているかは不明瞭であったといえる)。第3極は、2大民党のいずれかと共に政府を支持するか野党となり、2つのブロックが、ある程度できていた。1つは自由党・国民協会、もう1つは進歩党・議員倶楽部である。ただし後者は横のつながりには乏しかった。

気付かされるのは、薩長閥政府支持派(国民協会、公同会)の第3の極としての性格が弱かったことである。本来2大民党と一線を画しているような薩長閥政府支持派が、2大民党の変化もあり、そのブロックに組み込まれ、第3極は中立実業派が担っていたといえるのだ。しかしそれは、中立実業派の会派全体を見た場合、他の党派より姿勢が不明瞭であったからに過ぎない。また第3極の担い手という面が弱かった薩長閥政府支持派等は、山県系と近い国民協会、薩摩閥と近い議員倶楽部→公同会、伊藤系とある程度は近かったであろう日曜会(同派は中立派)というように、団結できずに、薩長閥の有力者ごとのまとまりになっていった。

薩長閥の有力者は、2大民党の一方と、自らの影響下にあった、あるいは自らと最も近かった第3以下の会派だけを基盤としても、衆議院の多数派を形成できず、他の、曖昧な中立派などを加えてようやく、過半数を上回る賛成に期待できるという状況であった。そのため、2つのブロックをまたがる強引な多数派工作が行われた。具体的にいえば、第2次伊藤内閣の2大民党双方との連携模索や第2次松方内閣の2大民党、国民協会等を対象とした切り崩しである。

2大民党以外の勢力が複雑な変遷をたどったことには、民党の力が示されたことで、薩長閥内の亀裂が、単独与党内の対抗関係のようなものから、民党に対する姿勢の差異、つまり政策実現の手段に関する、政界再編を伴うような、決定的なものとなったことが反映されているといえる。いくら2大民党のどちらもが過半数に遠く及ばなくても、このような状態では、中立派はそもそも立場を明確にしにくかったし、第3会派以下の勢力がキャスティングボートを握ることはできなかった。