日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1列の関係(⑫⑬)~改進党系の離党者の境遇~

1列の関係(⑫⑬)~改進党系の離党者の境遇~

進歩党の非盲従運動は、1列の最後尾にあった進歩党の立場から生まれたものであるといえ、同党が政権内の薩長閥に対して自らの本来の主張を維持し、結局政権を離脱したことの、少なくとも一因であったと考えられる。進歩党が1列の関係の最後尾に位置していたことは、その進歩党の離党者の性質にも反映されている。自由党おいて執行部に不満のある者は、その長州閥への接近に対抗して、薩摩閥に接近し、短期間とはいえ生きながらえ、準与党となることもできた。しかし進歩党が、すでに長州閥に接近していた自由党に対抗して薩摩閥に接近した以上、その執行部に不満のある者が、薩長閥と接近することは難しかった。進歩党を離党した議員達の多くが、上述した通り、薩長閥への接近自体に否定的な議員達であったのは、必然であった。そのために離党後の可能性があらかじめ狭められていたことも、進歩党内において、非盲従運動のような動きが一定の規模であったにもかかわらず、離党に至った者が少なかった、一因であった可能性がある。自由党系の薩長閥接近→改進党系の別ルートでの薩長閥接近→薩長閥接近に対する不平派の改進党系からの離党、という順序、当時具体的には、自由党の入閣による与党化→第2次伊藤内閣から第2次松方内閣への交代の際の自由党の野党化と進歩党の与党化→自由党からの、権力志向の新自由党と民党連合志向の東北同盟会の分裂→進歩党からの同志会の分裂、という順で事態が推移したことにより、最後尾の改進党系の離党者は、すでに自由党から民党の連合を志向する勢力が離党しているために、その実現の可能性が高まったとしても、2大民党の連結器となることを志向する勢力の中心とはなり難いため、連結器の役割を果たす意思を持ちにくかったことも、離党者の展望が狭いものになった要因であると考えられる。この当時は、自由党も進歩党も薩長閥と決裂するという状況になったため、2大民党の共闘へと、事態は進む。第3極においてそれを主導したのは、自由党を離党した議員達による東北同盟会であった。

 

 

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