2.キーワードで考える日本政党史

2大民党制(⑫⑮)~増税の争点化と民党~

財政の拡大によって、減税ではなく増税が争点となったことは、減税を策していた民党の敗北とはいえなかった。物価の上昇によって地租の実質的な負担は減少しており、民党は、貴族院の否決のために地租軽減を実現させられない状況から、衆議院での否決によって地租増徴を否決できる立場となったからである。地租増徴を許すことは民党にとって、薩長閥政府への大きな妥協となり、本来は支持者の離反を招くものであった。しかし地租の実質的な負担が軽くなったこと、そのこともあって、地租の一定の軽減や増税回避よりもインフラ整備を重視する有権者が増えたことは、この危険を小さくし、むしろ薩長閥との妥協に、インフラ整備と支持基盤の拡大強化を結び付ける効果を付与した。とはいえ変化は少しずつ起こっていたから、民党はそれを見極めなければならなかったといえる。そもそも、日清戦争勝利を受けた積極的な戦後経営に反対しなかった民党は、本来は増税に反対できない立場であった。ロシアに屈し、ロシアの南下を警戒しなければならなかった当時の日本の状況からは、修正はあり得るとしても、薩長閥政府の路線そのものに反対するのは、非現実的であったといえる。民党が地租増徴に反対であったため、薩長閥政府は、まずは衆議院の通過が比較的容易な、地租以外の増税を行った。しかし当時農業国であり、税収に占める地租の割合が高かった日本において、これには限界があった。つまりいずれは一定の地租増徴について薩長閥と民党が妥協する必要があったのである。そのためには増税幅の圧縮、または行政整理、利益誘導となる政策など、妥協する民党が有権者に誇り得るような、目に見える成果が必要であった。2大民党が地租増徴に反対したのは、その目に見える成果を、彼らが、十分に得られないと判断したからである。その成果には、薩長閥政府の政策的な譲歩だけではなく、彼ら民党が、つまり政府のポストを得るということも含まれていた。というよりも、地租増徴が避け難いものであった当時、むしろ望むポストを得られないことが、民党を強硬にした要因であったといえる。議院内閣制でなかった日本において、民党は政権を得ること、または政権に食い込むことを、何よりも望んでいたからである。民党の実力者は、薩長閥政府への接近の中心的役割を演じることで、党内外において影響力を高めることができた。しかし党内に多かれ少なかれ存在する、接近に反対の勢力を抑えるためには、そして特に自由党系の場合には、自らが接近の主導権を握るためには、他の民党よりも優位に立ち得ることを示すなど、説得力が必要であった。これにより、2大民党の薩長閥に対する要求は、大きなものとなっていく。もちろん民党の要人が、薩長閥との提携を妨害するために条件を釣り上げることもあったと考えられる(しかしそのように条件を釣り上げる勢力も、提携の条件、提携を主導できないことに不満があり、提携に根本的に反対ではないことが多かった)。この結果、政界縦断の前進は困難なものとなり、状況を大きく変える動きが不可避となるのである。