2.キーワードで考える日本政党史

(準)与党の不振・連結器(③④)~地域政党化~

公同会には、親薩摩閥という性質上、九州地方の一部、関東地方の一部(薩摩閥と近い議員が比較的多かった)による地域政党的に近い面が、ある程度あった(もちろん地域の利益を代表するための勢力ではなかったから、地域政党とは言い難い)。それは第3党構想の限界を示すとともに、政界の主流(薩長閥政府では長州閥、民党では自由党土佐派)の伴走者という面を持たざるをなかった勢力が、吏党と民党の、あるいは自由党系と改進党系の垣根を越えて地域的結合を果たすことで、一定の存在感を示すという可能性を、自然と提示したといえる。しかし多少存在感を示すだけでは、なお埋没の危険からは逃れられない。そこで有効となるのは、キャスティングボートを握るか、2つの大勢力をつなぐ連結器となることによって、自らの重要性を高めることである。公同会の系譜は後者に近かったが、特に成果を上げられないまま終わる。なお、国民協会にも福岡県と熊本県、時期によっては山口県選出の議員が多く、多少地域政党のようにも見える。しかし国民協会という吏党系のケースについては、勢力が小さくなったことで、特定の地域の選出議員の割合が高くなったということであり、薩摩閥の足元の鹿児島県、長州閥の足元の山口県における地盤が失われる中、組織の強固な熊本国権党が、むしろ中核になるのである。公同会の例とは、大きな差異があるのである。この差異が明確に現れているのが、公同会の内外の鹿児島県内選出議員が1つの政党、鹿児島政友会に集まったと見られることである。第5回総選挙後の同志倶楽部は、以前より民党連携を唱えていた東北同盟会と、薩摩閥の不振によって野党化した鹿児島政友会(鹿児島政友会の衆議院議員は民党系の方が多かったが、第4章補足~政党~(鹿児島政友会)で見たように、吏党系、民党系に関わらず、薩摩閥主導の内閣を支持していた)、行き場を無くして同様に野党化した新自由党の、思惑の一致によって結成されたのだといえる。1898年5月16日付の読売新聞は、同志倶楽部の中でも長谷場、柏田、有村らは、まず政府に外交に関する質問をし、一定の期日が過ぎたら答弁を待たずに政府不信任の決議案を提出するという考えであったのに対し、河野、新井、廣瀬らは最初から不信任案を提出するという考えであったと報じている。そうであったのなら、鹿児島政友会系の方が、あくまでも相対的にではあるが、柔軟であったということになる。