日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
(準)与党の不振・実業派の動き(⑨)~伊藤の2度目の新党構想~

(準)与党の不振・実業派の動き(⑨)~伊藤の2度目の新党構想~

国民協会は、党の展望が開けず、伊藤新党に乗ろうとした。しかし、山県に近く、つまり自らの政権を目指すような新党には否定的な議員と、伊藤に近く、政府党の結成に積極的な議員とがおり、一枚岩ではなかった。そして長州閥内の、政府党結成に対する賛成派、反対派の対立に翻弄されたのである。伊藤が山下倶楽部を含む実業派と近かった(山下倶楽部は伊藤新党の協議に参加していた)のに対して、山県が国民協会に近いという、両者の差異は、非民党勢力結集の壁となった。伊藤系・実業派新党が実現し、国民協会も加わっていたならば、なお圧倒的に憲政党(2大民党)の議席数が多くとも、姿勢、政策の異なる2大政党制となった可能性がある。後の憲政党大分裂を念頭に置くと、自由党系(の一部)が、伊藤・実業派新党の方に移り、これが民党以上の勢力となっていた可能性もある。ただし2大民党からの参加者が現れない限りは、伊藤新党への参加を考えた党派と、2大民党(→憲政党)の議席数の差があまりに大きかったことは確かである。日本はまだ、政策的に差異のある2党による2大政党制になる状況ではなかったということである。差異のある2大政党とは、例えば、地主層を支持基盤とする保守政党と、商工業者(実業家層)を支持基盤とする自由主義政党というイギリス型のものである。仮に伊藤新党が結成されていた場合、日本はイギリスとは反対に、商工業者を支持基盤とする、経済政策は自由主義的な保守政党と、地主層を支持基盤とする、経済政策は保守的な自由主義政党が対峙するという、矛盾する面を含む政党制となっていた。産業構造の近代化が上から進められたことによる「逆転現象」を抜け出すのに、まだ時間を必要としていたのである。イギリス、そして日本のように議院内閣制ではなかったドイツ帝国では、間もなく無産政党の躍進が始まるが、日本は当然、そのような段階にはなかった。なお、憲政党と伊藤新党に対して、第3極の党派がどのような対応をしたのかを比較すると、次のようになる。伊藤新党への参加予定者に、参加から不参加への変化が目立つ。政局を展開させるエネルギーについては、民党が薩長閥や大実業家、その支持派を大きく上回っていたのだといえる。民党のうち、戦略面についても長けていた自由党系が、権力を握る薩長閥を相手に、互角以上の戦い、駆け引きをしたのもうなずける。

憲政党:国民協会…不参加、同志倶楽部…参加、山下倶楽部…参加と不参加に分裂

伊藤新党:国民協会…全体的には参加から不参加へ変化(党内に両論)

同志倶楽部…不参加

山下倶楽部…参加の動きがあったが躊躇(躊躇したことが分かる明確な史料はないが、実業家たちが躊躇したことから、山下倶楽部もそうであったと考えられる)

薩長閥にあって伊藤新党に批判的な勢力が政権を握った場合、伊藤新党に参加した実業派が、政権の恩恵を受けられるのか、という問題もあった。実業派が伊藤新党参加を躊躇した背景には、薩長閥の不一致もあったであろう。

 

 

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