日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
(準)与党の不振(⑦⑨)~国民協会の孤立化~

(準)与党の不振(⑦⑨)~国民協会の孤立化~

総選挙後しばらくは自由党、国民協会に一定の協力関係がみられた。しかし自由党が進歩党との野党(民党)共闘を進めると、国民協会と自由党の溝は広がった。補完勢力に転落した国民協会にとっては、自由党と共に薩長閥政府寄りとなることが理想であったといえる(ただし内部には、準与党に留まるのか、与党になろうとするのかといった志向の違いはあった)。しかし国民協会には、薩長閥と民党を結ぶ連結器の役割を果たす力が足りなかった。そして薩長閥が民党に政権を明け渡すこととなった以上、薩長閥と自由党系のどちらを支持するのか、決断することは避けられなかった。当然と言えば当然だが、彼らは薩長閥を選択した。彼らは当時さらに、山県と伊藤、どちらの考えに賛同するのかを迫られた。そして山県を選んだことで、彼らは政党内閣だけでなく、閣内に入ることからも、自ら遠ざかった。独自の利益の実現を志向するために、幅広い勢力の協力を必要とする実業派を除き、その大小、出自を問わず、国民協会も含めて多くの党派が政権に近付こうと競争する事態を経験した後では、それはあまりに謙虚な姿勢であったといえる。これに満足しない議員達が後に離党に至るのは、必然であった。また、国民協会と実業派の差異を考えれば、実業派と国民協会の合流は難しいものであったといえる。両者は、中央交渉部において同居していたと捉えることもできる(ただし双方とも、とくに実業派は多くが別の議員に入れ替わっている)。それが志向の違いによって別々の道を歩んだのであり、連携は難しかった(国民協会は実業派の資金力に魅かれていたのだが)。これらのことにより、国民協会は相変わらず、衆議院での孤立した弱小勢力という立場を脱するために、民党と連携をできる状況に、再びなることを望まざるを得なかったのである(救いがあったのは、薩長閥全体が、民党を分断する必要に迫られたことだ―さすがに薩長閥と憲政党全体との連携はあり得なかったと言って良いだろう―。薩長閥とその支持派であったからこそ、一致点が残されていた)。

 

 

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