2.キーワードで考える日本政党史

2大政党の合流・野党再編(⑧)~無理な合流~

自由党系と改進党系の全面的な合流は、この憲政党の結成と、翼賛体制下の会派等の結成、1955年の自由民主党の結成以外に例がない。3つの例があるということは当然、元通りになるか、それに近い形で、2回分裂しているということである。2大政党が合流するのだから、激しい主導権争いが起こって当然である。主導権争いを回避するには強い敵が必要であった(憲政党は薩長閥、翼賛体制下の会派等は対戦国、自由民主党は日本社会党)。そして当然ながら、旧党派間の対立意識が「敵」に対する対抗意識を上回る場合には、合同体は大分裂を起こすことになる。自由党系と改進党系は政策的な差異に乏しかったが、積極財政の自由党系、消極財政の改進党系というような差異が、固定化する兆しも見えてきていた(実際はなかなか固定化されなかったが)。その政策的な差異についての調整は不十分であった。自由党系で進歩党との合流に積極的であったのは松田正久、杉田定一であったという(1898年6月10日付読売新聞)。そうであれば、民党合流は自由党系においては、薩摩閥との提携を土佐派等に邪魔された九州派が、薩長閥というよりも、長州閥伊藤系-土佐派ラインに対抗しようと、勧めたものだということになる(杉田は愛国公党出身、北陸信越系の中心人物であったが、九州派に連なっていた)。このような自由党系内部の差異(党全体がまとまりを大きく崩さずに動き、成果も上げたから、不統一というネガティブな言葉はそぐわないように思われる)も憲政党大分裂の背景にある(第6章参照)。