日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第3極(①)~山下倶楽部の民党への影響~

第3極(①)~山下倶楽部の民党への影響~

第6回総選挙では、2大民党が合流した憲政党が、定数300のうち、263もの議席を得た。非憲政党は、国民協会の20議席と、憲政党に参加しなかった山下倶楽部系を含む、無所属の17議席のみであった。憲政党に勢いがあったことに変わりはないが、その躍進について気を付けなければならない点がある。総選挙前の憲政党の議席数がはっきりしない点である。憲政党が結成される前(結成の12日前にあたる、第12回帝国議会における衆議院の解散当日)の自由党、進歩党、同志倶楽部の議席数は、それぞれ96、91、14、計201である。しかし同党には、山下倶楽部の一部等も加わっている。確認できるのは22名である(第6章第3極実業派の動き(①⑤⑨)の表⑥-A参照)。そうなると、憲政党は総選挙において確かに議席を増やしたものの、結成時にすでに223議席は持っていたことになる(ただし衆議院の解散後のことなので、正確には前議員の数である)。第5回総選挙後、山下倶楽部に属したことのある議員、国民協会に属した議員(衆議院の解散まで離党者はいなかった)、それ以外の、自由党離党者2名(第6回総選挙では当選しておらず、憲政党にも参加しなかったとも割れる)を含む無所属議員のうち、第6回総選挙で再選された議員の選挙区は次の通りである。第12回帝国議会における衆議院の解散当日(1898年6月10日)までに山下倶楽部を脱した議員の選挙区は()付きで記し(群馬1区のみである)、2人区には(2)と付し、2名が選出されている場合は2度記した。憲政党の候補として当選した議員の選挙区に  を付した。

・山下倶楽部

栃木2区(2)、(群馬1区)、東京6区、長野4区(2)、新潟3区、愛知1区、4区、6区、7区、三重2区3区、大阪1区、3区、4区(2)、6区、8区、9区、京都1区、島根2区、徳島2区、福岡1区、4区(第6回総選挙では5区で当選)

・無所属

福島2区、東京3区8区、新潟2区(2)、7区(2)、京都6区、広島8区、愛媛6区、宮崎1区2区3区

・国民協会

岐阜1区、大阪7区、広島4区、山口1区(2)、3区、4区(2)、4区(2)、山口5区、長崎6区、大分3区、5区、熊本1区(2)、3区(2)、6区

第5回総選挙後無所属であった議員達(第12回帝国議会における衆議院の解散当日までに山下倶楽部を離れた議員は除く)は18名であった。そのうち、10名が第6回総選挙に憲政党から当選、つまり憲政党に参加している。また、落選したうちの2名の、憲政党参加も確認することができる(報道等で憲政党とされている)。なお、山下倶楽部の憲政党参加者と不参加者を比較すると、不参加者の方が農業の比率がやや低い(『中小会派の議員一覧』第5回総選挙参照)。同派の、2大民党に近い議員以外では、主に地価修正派の議員が憲政党に参加したと考えられるのである。以上の数字を踏まえると、第6回総選挙前の憲政党の議席数(前議員の数)は、少なくとも235であり、それが総選挙によって263議席になったのだから、約1.1倍になったということになる。これは驚くべき数字ではない。自由、進歩両党のみの合流であった場合、憲政党は187議席であった。これに無所属を含む第3会派以下から、少なくとも48議席分の参加があって少なくとも235に、そして総選挙で263になったということである。第6回総選挙での憲政党の伸びは最大で28だが、第3会派以下からの参加による伸びは、それ以上に大きいのである。当時は総選挙前後における議員の入れ代わりが激しかったから、議員が争うことなく交代している場合、第3会派以下からの参加者が事実上もっと多かったということもあり得る。なお、235という数字は、衆議院の解散当日の自由党96、進歩91、同志倶楽部14、山下倶楽部のうちの22、無所属のうちの12議席を足したものであるわけだが、自由、進歩党、同志倶楽部に憲政党不参加の前議員がいたのなら、この3党派の分の議席数は当然変えるべきである。しかしそのような前議員を、筆者は知らない。

以上から、第6回総選挙による議席の変動と共に、憲政党結成時の再編が、同党に圧倒的な議席をもたらした要因であると言うべきだ。その再編で新たに得られたと言える議席のうち22が、山下倶楽部からの参加者の分である(繰り返しとなるが、これは正確には前議員の数であり、また、実際には22より多かった、事実上多かったという可能性がある)。同派の分裂が、中立会派系の収縮はもちろん、民党側の一定の拡大をももたらしたとして、問題はないだろう。確かに、山下倶楽部には民党(の議員)と関係がある議員が含まれていた(『補論』㉓参照)。しかし、それはまた別の問題である。それによって、ここまでに述べたことが変わるというものではない。また、憲政党が政権を得た要因に、総理大臣であった伊藤博文の、新党構想の失敗があったことは間違いない。(衆議院で)新党構想を担うべき3つの勢力、すなわち吏党系、中立実業派、地価修正派の全てが、新党結成に消極的であったか、消極的になった。この3つの勢力のうち2つの勢力こそ、山下倶楽部の主な構成要素であった。つまり、山下倶楽部が伊藤新党参加でまとまらなかったことは、その新党構想の頓挫、民党政権誕生に小さくない影響を与えていたのだと言える。憲政党が野党として総選挙を戦っていた場合の獲得議席を知ることは、当然ながらできない。それでも憲政党を与党にしたことも含めて、山下倶楽部が憲政党の圧勝を助けたと言うことはできるだろう。ただし、山下倶楽部の実業家の議員達の、伊藤新党不参加の決断の背景には、岩崎弥之助を中心に、より影響力のある、議員でない実業家がいた。分裂が必ず不振をもたらすとまではいえない。しかしこの時期の中立派は、分裂することで他の勢力(民党)を強め、自らの影響力を弱めたのだ。第6回総選挙を経て、憲政党が分裂した後の1898年11月1日付の東京朝日新聞に、政界の粉擾に株式界が打撃を受け、内閣総辞職によって、新内閣の方針の決定に日時を要する事態となり、実業界が悪影響を受けるという内容の記事がある。政治の混乱が経済に悪影響を及ぼすのは当然ながら、実業家にとって避けたいことであった。しかし時はすでに第6回総選挙の後であり、実業家中心の会派は、もはや大きなものとはなり得なかった。憲政党分裂後の、自由党系にも改進党系にも行かない議員達との再編、キャスティングボートの掌握によって、地租増徴を策す新政権(薩長閥中心)の衆議院における安定した基盤の創出を助けられるようになることに、期待するしかなかった。

 

 

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