2.キーワードで考える日本政党史

2大民党制(②③)~克服が困難な構造~

政権獲得という目標を果たした民党は、急速に一体性を失った。それは衆議院、その総選挙において敵となり得る勢力がなく、政府(薩長閥)という敵が、自らが政権の担い手となることで消えたからである(閣内に薩長閥の軍部大臣がいたから対立は起こり得たが、それは連立与党間の対立のようなものであり、それまでの与野党間の対立のようなものとは、多少なりとも性質が異なる)。一方で政党の最大の戦場である総選挙においては、敵は内側にあった(自由党系にとっては進歩党系、進歩党系にとっては自由党系)。それは、1回の総選挙で候補者調整が部分的に成功したことくらいでは、変わらなかった。第6回総選挙において、進歩党系が、自由党系を議席数において追い抜くという変化があったことは、それを示すのに十分である。進歩党系は、地価修正建議案の賛成者を公認すべきではないとするなど、自派を優位にしようと試みた。当時は地価修正派が、イコール地租増徴容認派であると捉えられることが確かにあった(坂野潤治『明治憲法体制の確立』161頁)。自由党は第3次伊藤内閣期、増税の根拠となるべき予算案が提出されない臨時議会で、内閣が地租増徴案を通そうとしたことを中心に、内閣を批判しており、その地租増徴にやや理解のある姿勢が、進歩党系との、議席数の逆転を許したのかも知れない(伊藤之雄「日清戦後の自由党の改革と星亨」51-52頁)。進歩党が採った姿勢は、地租増徴反対の民意を代弁するものではあったが、同党の中心部も、本音では地租増徴の必要性を認めていたから、矛盾をはらむものでもあった。内務大臣のポストを得ながら、進歩党よりも少ない議席しか得られなかった自由党系は、進歩党系への対抗意識を強めた。このことはそもそも、本来対立関係となるべき第1、2党が、互いに対抗意識を持っているにもかかわらず、合流することで衆議院の大部分の議席を固めて、薩長閥に対抗しなければならなかったために起こった。議院内閣制を採らない立憲君主制において起こり得る問題であるといえる(日本国憲法下の保守合同や、オーストラリアやニュージーランドの例ように、社会民主主義政党と渡り合うために、政策等の異なる保守政党が合流した例もある。それは保守政党-保守政党と自由主義政党-間よりも、2大保守政党と社会民主主義政党との間の差異が大きかったためであり、その大きな差異がある以上は、保守勢力が協力せざるをえないため、合流した旧保守政党間の対立はかなり抑えられる)。なお、総理大臣含め閣僚4名を進歩党系が出し、大隈総理が兼務していた外務大臣も含めれば5つの閣僚ポストを得ていたのに対し、進歩党系と議席数が近く、第6回総選挙前はわずかながら上回っていた自由党系が3名しか出していなかったことは、確かに不均衡であったと言える。しかし外務大臣が大隈総理の兼務から自由党系に移ると、自由党系は内務、外務、大蔵という重要ポストを、総理大臣の権限が強くない時代に得ることになるわけだから、それも、不均衡だということにはなり得た。

薩長閥と民党の対立は、政策に関する対立という面よりも、権力闘争という面の方が、より大きかった。憲政党の様子を見ても分かるように、薩長閥と自由党系の方が、もはや政策も近いことが多かった。このため、合流した旧2大民党間の対立感情が、民党と薩長閥の対立感情に勝ると(星の動きによるところも大きいが、合流したからこそ、勝るようになったということもあるだろう)、憲政党は大分裂したのである。板垣が、自身と尾崎とが両立しないと、天皇に上奏するなどしたことは、自党(の内閣)の問題の解決を、党外の勢力に依頼したのであり、政党というものを、権力闘争の道具としてしか見ていなかったとされても、仕方がない。