2.キーワードで考える日本政党史

1列の関係(②③)~改進党系の弱さ~

改進党系には、自由党系の憲政党離脱以前から、いずれ自由党系を排除しようという考えがあった(那須宏『帝国主義成立期の天皇制』219頁)。しかし、結局は尾崎の演説を利用され、自由党系による1列の関係の再現を許したのである。星亨、岡崎邦輔の思惑通りに民党連携を終わらせて誕生し、伊藤系の末松謙謙澄の参加があったことは、自由党系による新たな憲政党が、かつての伊藤系-自由党系の政界縦断の再開、進展を志向する政党であったことを示している。憲政党の分裂は、確かに自由党系による不意打ちであった。しかし、総理大臣を出した進歩党系が、自由党系に対する配慮を欠いていた点、進歩党系のみによる政権維持を期待した点、拒否権を握っていた薩長閥との関係の構築について、自由党系より遅れていた(特別には目指していなかった)点で、やはり改進党系は、戦略面で自由党系に劣っていたと言わなければならない。民党には本来、薩長閥と連携して力を蓄え、信用を得て政権を得るという選択肢と、薩長閥に強硬的な姿勢を採って、政権をもぎ取るという選択肢があった。しかし民党連合政権が失敗した後では、どちらか一方だけでは衆議院の過半数に届かない2大民党の、感情的なわだかまり、政権担当能力に対する外部の疑義により、民党連合政権の出現は、少なくとも短期的にはあり得なかった。そうであれば前者、つまり薩長閥への接近しか、民党が展望を見出し得る選択肢はなく、自由党系がいち早く(むしろ憲政党を壊すことと一体的なものとして)これを採用したことから、1列の関係が再現されることとなった。また、この前者の方の選択肢については、政権を獲得することにこだわらず、政権参加で十分だとする立場もあり得る。それは地租増徴の回避または利益誘導という、支持者の利益を政策に反映することを第一の使命とする場合であるといえる。この立場によっても、他党に対して優位に立つことは可能であった。しかし政権を主導する勢力に、政府支持勢力内の優劣に変更を加えられ、あるいは政府支持勢力の編成を変えられることで、自らの地位が低下するというリスクがあった。

その意思があったかどうかは別として、自由党系に先を越された改進党系は、野党色を打ち出すこと、つまり本来の路線を採ることでしか、存在感を示すことが出来なくなった。当時の自由党系は、党勢拡大(改進党系に対する優位を維持すること)を最優先とし、改進党系は、同様の志向を一応は持ちながら、それを戦略に転換する意思が弱かったのだといえる。また薩長閥への接近について、自由党系に先を越された後では、縦断に否定的な山県系、影響力を落とした上に、第2次松方内閣(松隈内閣)期の内部対立に起因するわだかまりもある薩摩閥など、連携するリスクが高い勢力しか、仮に政界縦断を目指すとしても、改進党系には残されていなかった。